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<東京怪談ノベル(シングル)>


ブラック・シュール3

 がくがくと震える腿を何度か打ち据えて、水嶋琴美は立ち上がった。すでに、プリーツスカートの襞は無残な形で裂かれていて、覗く白い太腿には複数の裂傷から流れる血とコンクリートの砂礫で汚れていた。
「やはり……あなたはここで殺されるべき……っ……ですわ」
 苦痛の顔を歪めながらも、闘争心を失っていない琴美は、変わらずギルフォードを睨み据えた。
「“殺されるべき”……? って、俺、暗殺のターゲットってわけ。ははっ、楽しいジャン!」
 声を上げて哄笑うギルフォードの目は少しも笑っていない。充血し、血走った狂気の目で己を殺しに来た女をみつめる。その顔から、スーッと表情が消えた。楽しげに歪ませていた口角は不機嫌そうに下がり、ぶつぶつと何事かを呟いている。
「……程度で……せんじゃねーの」
「……?」
 視線が逸れた隙をついて、琴美が行動を起こす。体勢を低くさせ、駆け出したものの、それはなにものかによって阻まれ、再度床を舐める形になった。
 斜に構え、薄く開いた目で暗殺者を見るターゲットの右腕である。
 二人の距離はおよそ十メートル強――。
 肩甲骨の間を、平たい何かで押さえつけられている琴美は、自分の耳に軋む骨の音を聞いた。呼吸困難を起こし、喘鳴が零れる。
「……痛っ」
 背中に激痛が走った。特殊生地のおかげで貫通は逃れたが、琴美の背中にはギルフォードの爪が深々とめり込んでいた。
 そのまま宙へ持ち上げられ、しなる腕の反動でコンクリート床へ叩きつけられる。さらに引き上げられると、柔軟な身体を駆使し、ギルフォードの腕へ足を絡めさせ、体勢を整えた。相変わらず背中には爪が突き刺さっている。――男の指はどのように変化しているのか。琴美は驚嘆しながらも、有効打を模索した。
「……ノボせてんじゃ、ねーっつうの」
 憎憎しげに言い放ったギルフォードは、さらに力を込めた。それは電流のような速さで末端へ到達すると、琴美の柔らかな肉を大きく掴みあげる。
「うああああっ!!!」
 激痛に声を上げる琴美。
「まだまだ、なんじゃねえの? それともマジでこれで終わりかよ」
 呆れた声で言うギルフォードを見上げた琴美は、
「相手の力を見限るには少し、早いのじゃないかしら」
 強がって見せたが、全身に広がる激痛は本物である。だが、任務を遂行せずに帰還するわけにはいかない。たとえ刺し違えても……忍としてのプライドが彼女を奮い立たせた。
 背に爪を突き立てさせたまま、床を蹴り、ギルフォードとの間合いを縮める。――そもそも縮められた事に、何らかの意図を感じるべきであった。そう後悔の念を抱いたのは、間近に男の顔を見たときだった。
 ニヤリと笑っていた。
 まるで手の内で踊らされているような薄ら寒い笑みだった――。
 爪先で床を蹴り、後方へ跳躍。だが、逃れているはずが男の顔は離れない。同じ速さでギルフォードも跳躍したのだ。
「へへっ。じゃあ、どんだけ強えーのか、見せてみろや」
 言うなり、琴美は大きく胸を逸らすことになる。ギルフォードの膝蹴りが背骨を直撃したのだ。着物が緩衝材になっていなければ、琴美の身体は無様に折れ曲がっていただろう。
 それでも、息をするのでさえ苦痛なまでの痛みに、琴美は一瞬意識をなくした。おかげでギルフォードの二手目を防ぐことができなかった。
 まともに喰らった打撃は、琴美の意識を呼び戻したが、同時に常人ではけして耐えられない激痛も感じさせた。
「だから、そんな無様な格好でさ――クソ生意気に暗殺者気取ってんじゃねーつの」
「……うぐっ」
 背中の爪が、肉を裂く音を立てて離れた。蹲る琴美の長い黒髪は床の上で血溜りのように乱れ、広がっている。ギルフォードは乱暴に彼女の髪を掴み上げた。白い喉が無防備に晒される。ここでナイフでも出されたら――ひやりとしたものが琴美の背を走る。
 だが、呆気なく琴美の身体は解放された。
「簡単すぎじゃねーの? 面白くねぇ」
 目の前に、ギルフォードの爪先が見えた。革靴の縫い目すら見えるほどの至近距離を見切って、琴美が蹴りをかわす。
 全身が悲鳴をあげるほどの痛みに耐えながら、床を横転した。二転、三転めで体勢を整えて立ち上がる。ふらふらになりながら、太腿に仕込んだクナイへ手を伸ばすが、ターゲットの姿が視界から消えた。上――右――左――……うし、ろ……
 ギルフォードの流れるような回し蹴りを側頭部へ喰らう。口内に鉄の味を感じながら、弾き飛ばされた。
 楽しんでいるのか、憤っているのか。くるくると変わる表情からは汲み取れない。
 だが、床に足を留める時間より、跳ねるように琴美を追いかけ、打撃している時間の方が圧倒的に長かった。これを遊びと呼ぶのか、殺意と呼ぶのか計れない。
 ただ、見るからに疲弊し、防御もままならない暗殺者の動きが鈍くなっているのは確かだった。
 長い髪を掴まれ、壁へと叩きつけられる。床へ落下するよりも早く、ギルフォードは踵を返してやって来ると、琴美の腰に巻かれた帯を掴み、蹂躪するように床へ放り投げる。
「自分の力を過信しすぎたんじゃねーの? あんた弱すぎっ……けへへ」
「……くっ、はぁ……」
 着物の合わせは肌蹴け、インナーも裂けてしまっている琴美の胸元が露になっている。唇を、血が滲むほどに噛み締めて立ち上がる。
「もう、止めて、俺に、殺されな?」
「そ……そういうわけには、い、……きませんわ……――ッ」
「もっと楽しめる相手かと思ったんだけどなー。つまんなくね?」
 屈辱的なセリフに心底腹を立てた琴美だが、そのプライドすらねじ伏せるように、ギルフォードの攻撃の手は緩まない。かといってトドメを刺す風でもないのだ。
 膝で顎先を跳ね上げさせられ、浮いたところを鋼鉄の義手で叩き落される。
「……ぁぁぁ……がはっ…………」
 漆黒のカルセドニーから生気が失われていく。
「ところでさー。俺、なんであんたに狙われてんの? んー。殺される理由は思いつくから仕方ねえけどね。――」
 琴美を一瞥し、
「こんな弱いヤツ送り込んでくる組織って、人不足なんじゃねーの?」
 バカにするように吹き出して見せた。
「返り討ちとか、みっともなくね?」
 次に見せたのは冷徹な顔。
 顔も起こせず、小刻みに震えている琴美は初めてのこの状況を飲み込めずにいた。
 ――私が負ける? 有り得ませんわ。
 だが、確かに視界に入る自分の無様な姿は現実だった。
「ん? えー。まだやンのかよ。じゃあ、俺、責任取れないよー。あ、今まで責任なんて取ったことないか」
 軽口を叩く男を睥睨しながら、琴美は立ち上がった。
 自分が負けることなど、あってはならないのだ。勝利への可能性が数パーセントでもあるのならば、それに賭ける――――!
 スカートがその役目をほとんど為していない恥ずかしいスタイルのまま、琴美はターゲットへと向き合った。