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<東京怪談ノベル(シングル)>


新妻玲奈の龍退治〜俺の嫁は宇宙最強!〜

 かろうじてその役割を保っている石造りの通路は、遺跡の中にさ迷う獲物を捕えんとばかりに、蜘蛛の巣のごとく張り巡らされ、その隙間――といっても、ゆうに一軒家が五、六戸沈みそうな大きさだが――には、底なしの「泉」が、暗い天井の、降り注ぐように生えた鍾乳石から落ちる滴に、ぽつり、ぽつりと波紋を描く以外は、まるで死んだような静けさの中に浸っている。
「おまえの旦那とやらを、そのまま表現したような場所だな、ここは」
 風光明媚なエーゲ海――の片隅にある、禍々しい瘴気のたちこめるその場所に、何度目か分からない龍の咆哮が響いた時、男――鬼鮫は軽蔑の色を隠そうともせず、そう吐き捨てた。
 普通の人間なら、その「鬼鮫」に相応しい彼の形相に縮み上がり、必死で機嫌を取りつくろうだろう。しかし、彼の隣を歩く少女は、どう贔屓目に見ても、「普通」とは言い難かった。
「目には見えない心の奥底に美しい謎を秘める男――ってことね!」
 玲奈は左右非対称の色をした美しい瞳をきらきらと輝かせ、はじけんばかりの幸せを現した笑顔を、憤怒の表情を浮かべる鬼鮫に向けた。
「……何? その顔」
「何、じゃねーだろ。裏を読め裏を。頭がカラッポでもなきゃ、金持ちがこんな面倒くさい物件に手を出すか?」
「何よ! その言い草はっ!」
 玲奈は大きな目をキッと吊り上げ、鬼鮫に人差し指を突き付けた。
「一般人でもお金持ちでも、お買い得物件を見逃さない手はないわ! それに、あたしとーっても、ここの景色気に入ってるの! さっさと龍を退治して、新居の準備をしなくっちゃ! 龍の巣を愛の巣に変えるなんて、とってもステキ!」
 今にもくるくると回りださんばかりに舞い上がっている玲奈に、鬼鮫は勝手にしろ、と呟いたあと、ムスッと口角を下げ、苦々しげに言った。
「……大体、テメェの嫁をこんなところに寄越すなんざ、正気の沙汰じゃねぇ」
 玲奈はその言葉に、はっと動きを止めたが、それも一瞬だった。
「――『俺の嫁は宇宙最強!では任せた』って言ってたもの。あたしのこと、すごく頼りにしてくれてるんだわ……そりゃ、ちょっとはアレだけど……でも、夫婦にとって大事なのは信頼よ、シ・ン・ラ・イ!」
 玲奈は自分を奮い立てるようにそうまくし立て、手に嵌めた婚約指輪を握り、さらに続けた。
「それに、よ。この遺跡はタダの中古物件とはワケが違うの。龍の守る泉の水を杯に注げば、底が青白く妖艶に輝くのよ。なんて奇跡的、なんてロマンチック、人の呼べそうなスポット……」
 そう言いながらも、玲奈の体は、急速に接近してくる無数の羽音に反応し、手に携えていた弓を構える。
 果ての見えない遺跡の奥から、黒い物体が不規則な軌道を描き、接近してくる――化け蝙蝠だ。
 数は十に少し足した程度だが、「化け」の名にふさわしく、人の大きさ程もある。にも拘わらず、早さは通常の蝙蝠のそれを、遥かに上回っているのだ。
 しかし、玲奈は怯む様子など露ほども見せず、弓を化け蝙蝠の集団に向ける。
「ひとつ撃っては夫のため! ふたつ撃っては家計のため!」
 掛け声の倍以上のスピードで、玲奈は遺跡の瘴気と闇に紛れる化け蝙蝠を、片っ端から撃ち落とした。その早技たるや、目を見開いていても、何が起こったか理解するが追いつかないほどである。
「そいつらは斥候だ、来るぞ!」
 鬼鮫の怒号に、遺跡を揺るがす咆哮が重なる。龍だ。
「でけぇ……」
 玲奈たちの立つ通路の脇の「泉」から、天を衝かんばかりの巨体が、轟音と共に姿を現す。
「やっ!」
 甲高い掛け声と共に放たれた玲奈の矢が、爛々と燃える龍の紅い瞳をめがけ飛ぶ。しかし、それが目標に辿りつくことはなかった。
 玲奈が矢を放つのと同時に、獲物を引き裂くためだけに造られた、龍の凶暴な顎が大きく開き、そのマグマの坩堝ような口に向かって、「泉」の水が収束する。
 渦を巻いたその塊は、やがて玲奈の矢にめがけて放たれた。
「なっ!」
 龍の口から弾き出された水弾は、玲奈の矢を飲み込んだかと思うと、勢いの衰えぬその流れで、自らの中にある異物を跡形もなくへし折った。
「この野郎!」
 水弾の足元の通路を破壊されるのと同時に飛び上がった鬼鮫は、そのまま龍の首をめがけ、刀を振り下ろす。
「――っ!」
 その巨体からは想像もつかない速度で、龍は首を捻り、喉元の急所への直撃を避け、強靭な鱗にその刃を当てさせた。
 弾き返された渾身の一撃に、鬼鮫の顔が苦痛に歪む。
「鬼鮫!」
 そう叫んだ瞬間、玲奈に向けて水弾が放たれる。直撃こそ避けたが、足元の通路は完全に崩壊し、玲奈は破壊の衝撃で起こった波に飲まれた。
 自分が「泉」に落ちたことを認識するのと同時に、玲奈は違和感を覚えた。
(この、水……)
 普通の水とは違う、ということしか、今の彼女には分からなかった。それというのも、次の瞬間、自分の真横に落ちてきた龍の巨体が、その思考を遮ったからだ。
(鬼鮫!)
 すぐさま水面を仰ぎ見た玲奈の目に、信じられない光景が飛び込んできた。鬼鮫が龍を斬りつけている。
 まさか二匹目が、という考えが一瞬頭をかすめたが、玲奈は気付いた。原因はこの「泉」だ。
 通常、水中における光の速度は、空気中よりも遅くなる。もちろん、普通人には認識できない程度の違いだが、この「泉」は、おそらく光を屈折させる物質を非常に多く含んでいる――だから今のような、ありえない光景が見えたのだ。
(そうと分かれば――)
 傍らで再び動き出そうとする龍の気配を感じながら、玲奈は素早く水面へと浮き上がる。
「玲奈! こっちだ!」
 通路から声を張り上げる鬼鮫は、再び剣を構えている。
「鱗と鱗の隙間なら、コイツでも刺せる。あいつが沈むまでブッ刺してやる」
「さっきのはファインプレーだったけど、それじゃ埒が明かないわ」
 不平を漏らそうとした鬼鮫の口が閉じられる。玲奈の表情を見れば、彼女が解決策を思いついたことは明白だ。こういう時は、黙って従うのが正しいことを、彼は知っていた。
 が、玲奈が超精密レーザーを召喚した瞬間には、さすがに黙っていられなかった。
「おまっ……!『レーザー? あたしの大事な新居に傷でもついたらどーするのっ! 水蛇なんて、弓があれば十分よっ!』って言ってたじゃねーか!」
「後半は不本意ながら取り消さざるを得ないけど、まぁ見てなさい、って!」
 言うなり、玲奈は背中の翼を広げ、空中飛び立つと、水面に浮かんだ龍の影に、真上からレーザーを撃ち込んだ。
 深い藍色の「泉」に、超精密レーザーから放たれた光が蓄積され、まばゆい光の色に染められていく。
 龍は身動きすら取れず、ついに光の中で息絶えた――と言えばロマンチックだが、実際に浮かびあがってきた龍は、茹でたエビと同じく、かぐわしい匂いを、遺跡の中いっぱいに充満させてる。
「一件落着、ね」
 今すぐ持って帰って冷凍したら、期間限定名物料理にできるんじゃないかしら、などと考えつつ、玲奈は呟いた。
「にしても、なんて奴だ」
「んー、でもこれでおいしければ、生前のことはここの水に流してあげても……」
「龍じゃねぇ! テメェの旦那だ!」
「れ〜いなぁ〜!」
 鬼鮫の怒号とは対照的に、能天気な声が響く。玲奈の夫だ。
「おおおお!無事だったかい、愛しのマイハニー!」
 芝居がかった仕草で玲奈に抱きつこうとした夫の首根っこを掴み、鬼鮫が吼える。
「テメェの嫁を、こんなとこに寄越しやがって!」
「だだだだ、誰だい! ぶぶぶぶぶ、無礼じゃないかっ!」
「私の仕事のパートナーよ。でも、どうしてここが?」
「もちろん、愛の力さっ!」
 夫はウィンクをして、再び玲奈に向かって両腕を伸ばしたが、鬼鮫はその手――左手の薬指に嵌められた指輪に、眉を顰める。
「おい、玲奈。指輪をよーく見ろ」
「え?」
「お前の指輪だ」
 玲奈の戸惑いの声は、夫の狼狽の叫びにかき消される。
「どどど、どーゆうつもりだいっ! それは俺と玲奈の愛の――」
「黙れ」
 鬼鮫の気迫に、夫はぴたりと口を閉ざした。代りに、大量の脂汗を垂らしながら。
 言われた通り、玲奈は指輪を外した。結婚が決まって以来、片時も外したことのないものだ。
「――発信器?」
 妙に厚いリングに違和感を感じた玲奈が、思わず発した一言に、夫は飛び出さんばかりに目を見開き、まくし立てる。
「きききき、君が心配だったから! だって、今まで何人送りこんでも、みんな死んじゃって――まぁ、死んじゃったから損はしなかったけど」
 硬直する玲奈に代わって、鬼鮫は夫を、硬い通路の上に叩きつける。
「このクズ野郎! その腐った脳みそごと、かち割ってやる!」
「ひぃぃぃぃぃぃぃ!」
「待って!」
 玲奈は鬼鮫と夫の間に割って入り、今にも振り落とされようとする刀を止めた。その瞬間、鬼鮫の表情が苦悶に歪む。
「なんで庇う!」
「あたしにやらせてっ!」
 言うのが早いか、玲奈は目にもとまらぬ速さで回し蹴りを繰り出し、天の助けを得たと言わんばかりの夫の頬に踵をめり込ませると、間髪入れずにその襟首を掴み、そのまま「泉」へと叩きこんだ。
「お前……」
 鬼鮫の言葉にも振り返らず、玲奈は夫――いや、もう元夫、でいいだろう――の沈んでいった「泉」を見下ろしている。
「……バカみたい、って思ってるでしょ」
 鬼鮫はとっくに気付いていたのに、と、玲奈は心の中で呟いて、押し黙った。
「……別に、お前が悪いわけじゃねーだろ」
「鬼鮫だって、あたしが無理に連れてきて、あのまま『泉』のことに気付かなかったら――」
「俺がそんなことグチグチ気にする野郎だ、って思ってんのか?」
 玲奈が振り返ると、鬼鮫は踵を返し、出口へ向かって歩き出していた。
 目を二、三度瞬いたあと、玲奈はにっこりとほほ笑んで、そのあとを追った。

――おわり――