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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜光虫 3

灯火の光を反射して、凶器と化した義手が持ち上がる。
「その顔」
印象は、蛇。
それも普段は見えない、しかしいざ獲物をしとめる段になれば大きく開かれた口の中で、上顎から伸びた管牙を突き立てる大蛇。
長く鋭く突き立つ管牙に捕らわれれれば、毒は一瞬にして注入される。激痛と腫れ、そして出血が、噛まれた獲物には待っている。
だが抱いた印象も想像すらも、きっとこの人型の獣と対峙している自分の現実よりは優しい。
「まー飽きるほど見たっちゃ見たが、お前も知らねーままで俺んとこに来た、ってわけか」
狂的なまでに跳ね上がっていた快楽の激情は鳴りを潜め、ギルフォードの琴美を見遣る視線には昆虫のような無機質さが覗く。ただそこにあるものを観察する黒瞳は、身を起こそうとしては悲鳴を上げてもがく琴美をしばらく眺めてから、自身の右腕に視線を移した。
つられて片目の視界でそれの姿を捉える琴美が、移ろう光を一筋、認める。
腕より遥かに細く長く伸びて地に垂れる姿の中、表面でてらてらぬめっているのは今付着した琴美の血か、それとも材質本来の光沢性か。
どちらであるかなど、一見して琴美にはわからない。
もはや義『手』と呼ぶのも不適当な、指の片鱗すら消失して握りのない鞭へと姿を変えたような金属など、琴美の知識の中にも今回の指令にあたって渡された情報の中にもなかったからだ。
暗殺者にとって情報とは、知識であり、力であり、究極を言えば生命線だ。決してないがしろにしていいものではない。標的の能力や装備が特殊であればなおのこと、まして眼前の男が示すように、相手が手足のごとく自在に扱う物の正しい情報を欠いたまま戦場に立てば――
「て、ことは、だ」
涙の雫がぱっと散った。
「あ、ああああああっ!!」
叫ぶことで痛みに埋め尽くされた意識を逃がし、三半規管の抗議と猛烈にせり上がる吐き気を奥歯を噛んでやり過ごし、琴美は確実に視認可能な速度を超過していた金属の鞭の襲撃をかろうじて回避した。痛む腹筋に力を入れて、ほとんど下半身だけの力で地面を蹴り転がって逃げる。
「く、あ」
「……さっきもそうだったがいーい反応だぜ。流石はクノイチ」
転がり続け、僅かに稼いだ距離の向こう、呟く内容は素直に聞けば賞賛。
「でもよお、ひとを暗殺しにくんのはいただけねー、な!」
ニンジャの本文は諜報だろうがよぉ!
そう叫ぶギルフォードの声は不機嫌な猛獣のそれになっていた。
義手の鞭で地面を一打ちし、吼えたそのままに弾ける勢いで迫る。彼我の距離などいくらもない。数秒あれば詰められる。得物が得物であるだけに、必要な時間はもっと短縮される。
そもそも鞭とは本来戦闘用の器具ではない。にもかかわらず革製のものでも熟練者が使えば先端は音速に達する。その速度から生み出される威力は少し考えれば容易に想像ができよう。
そんなものの動きと威力を金属で再現されたならばどうなるか……それは満足に使えなくなった琴美の両腕が証明している。
対応しなくてはならない。
だが時間も距離も手段もない。どうしようもなく。
それでも悠長に転がっていたら死ぬ。
「が――――ああああああっ!!」
琴美はバネ仕掛けの人形のような動作で強引に身を起こすと、出血の全く止まる気配のない両腕をそれでも全力かつ全速力で振るった。
風圧すら神経に直接触られているような痛みの中、太腿のベルトからクナイを一閃、抜き打ちのようにして曲線の起動で追って来た鞭をかろうじて弾く。
果たして角度にして1度もないだろう金属同士の衝突で、大きく鞭が上へとそれる。
それでもあれだけの速度を持つ物体の運動方向を変えることができた代償は、最初の迎撃に差し出した左腕の感覚だった。
流血はそのままに、痛みすらしびれるように鈍くなった肘から先と、伝わった威力でほとんど握力の死んだ左手から、クナイが回収不可能な距離まですっぽ抜けて飛ばされる。
だが飛ばされたのは向こうの鞭も同じ。運動する物体には等しく慣性というものがある。
一度大きく意図しない方向へ跳んだ鞭を引き戻すには、相応のタイムラグが発生する。内側に入り込んでさえしまえば――

ぞわっ、

琴美の全身が総毛立った。
むき出しの部分も衣服の下も、全ての皮膚の下で血がざわめいた。
それは既視感だと、その思考は危険だと、痛みを伴い学んだ肉体が警告を発した。
(駄目っ!)
琴美が足を止め、前進するためのものから相手の攻撃を受ける姿勢へと変える。
重心の移動と時を置かずして、時間が巻き戻るようにして放られていた鞭がぎゅるっと短くなった。
反動でかふらつくように身体を左右に揺らすギルフォードが、不意に両腕をすとんとぶら下げ、哂う。
「ッ、ハハ」
そのまま音を引いて走り出すギルフォードが身を低くした瞬間、三度、義手が姿を変えた。
今度の形は、刃。
見慣れすぎるほど見慣れた形状を視認して、凶刃を受けようと琴美が右手のクナイを水平に構える。黒塗りのそれとてらりと光を弾くギルフォードの刃が真正面からかみ合う刹那、ギルフォードが跳躍した。
獣の動きで中空を渡るように跳ね、琴美の頭上に差し掛かった所で、ギルフォードの本来右手のある箇所から刃が琴美へ突き出される。
目測およそ30cmの片刃は、背にサバイバルナイフのような溝こそ持つがまぎれもない短刀の拵え。そこに琴美はギルフォードの意図を悟り、ざっと頭に血が上った。
隙をつくという理由もあっただろう。だが刃を選択した最大の理由は違う。
伸び上がるように、振り下ろすように、縦横無尽に攻め立ててくる短刀が。間断なく響く激しい打ち合いが。容赦なく、完膚なきまでに、琴美の土俵で叩きのめすと言っている。
悲鳴をも超える大音量で琴美は絶叫した。
「傲慢も大概になさいませ!!」
「はははははははははッ! お前立場わかってんのか!?」
琴美の憤怒をギルフォードは嘲弄する。繰り出される刃もまた琴美のクナイを玩弄する。
「服の前が魚の開きみたいになってんのに、隠そうともしねえなんてなあ!」
女性的なまろみを持つ箇所もくのいちとして鍛えられた部位も、等しく切り刻まれていく。
「女のくせに露出狂で、弱いくせに、暗殺者!」
琴美の最も信頼する戦闘服が、いともたやすくただの布切れに成り下がっていく。
「しかも俺を暗殺とか、笑わせんじゃねぇぞ!!」
胸元を一閃した軌道が、そこに垂れていた髪の一房ごとブラジャーの肩紐を切り落とす。
「……っぐ」
呻きながら、時に転倒しながらも、身体の一部と衣服を代償に、そうして琴美は致命傷だけは回避し続けてきた。
決してその状況が長く続いたわけではない。
それでも飛び散った血飛沫と場に充満する血臭、それらの全てが琴美の身体からギルフォードによって生み出されていた。
覗いた素肌は余す所なく鮮血にまみれ、布と流れる血の隙間から見える肌が戦慄の美を形作っていたが、最もひどい両腕は凝固する血となお流れ出す血で壊死さながらとなっており、それだけの血を失いながらなお右手のクナイを下さない琴美の顔からは完全に血の気が失せていた。
戦闘中なら胸の中央をさらそうとも羞恥など感じないが、それ以前に体力も気力も尽きかけている。実際目の前のギルフォード以外にはひとかけらも意識を振り分けられなかった。