|
サラブレッド?
もう、この研究所に来るのも何度目になるのだろうか。
目前に悠然とそびえる砦を見上げ、海原 みなもは嘆息する。
無機質な白い建物。学校よりも大きなそれが、何棟にも別れて建っている。初めて見た時には、その巨大さと異質さに圧倒された物だった。ペット用品の研究所にしては、想像を超えて大きく、土地も人も惜しみなく注ぎ込まれていて気味が悪い。研究所の中には見た事もない機材が多々と存在していて、ペット用品の研究所と言うよりも病院の様な印象を受ける。
(このアルバイト、何で受けたんだろう‥‥‥‥?)
真白く染められ目に痛みすら与えてくる廊下を歩き、みなもは考える。目前には廊下の他に、研究室へと案内してくれる研究員が一人、歩いている。
見覚えがあるような気がするが、同時に無いような気もして、自分の記憶に不安を覚えてしまう。研究員は「お久しぶりです」と迎えられたが、以前、いったい何時来たのかを覚えていない。
初めてこの研究所を訪れてから、まだ一年と経っていないはずなのだ。なのに、前に来た当時の記憶が酷く曖昧だ。こまめに手帳に予定を書き込んでいるのに、この研究所を訪れる時に限って、どういう訳か記録を紛失し続けている。
本音を言えば、こんな怪しい研究所を訪れたくなど無かった。だが、このアルバイトを紹介してくれたのは、他ならぬ父親である。断るわけにはいかないし、理由は分からないが‥‥‥‥この仕事は、受けなければならない。そんな気がして仕方がないのだ。
「今日は、どんなペット用品を試すんですか?」
人間(人魚)がペット用品を自分で試すというのも奇妙な気がしたが、みなもは大して気に止める事はなかった。
「今日はですね、こちらの商品を試して頂きます。まぁ、商品としては、少々微妙なんですが‥‥‥‥」
ちょうど研究室に到着したのか、研究員はピタリと足を止め、苦笑しながら扉を開けた。
「まぁ、悪いようにはしませんよ」
「‥‥‥‥?」
大抵、こういった言葉が発せられる時は、何かしら不都合を被る人間が居る時だ。
しかし今回の場合、悪いようにされる人間は、一体誰なのだろうか‥‥‥‥?
みなもは研究員に促され、研究室に入る。
そこには、馬が装着する鐙や轡に鞍など、みなもには縁がないが、テレビ番組でちらほらと見掛ける道具を持った数名の研究員達がニッコリと笑って‥‥‥‥
「‥‥‥‥いやです!!」
「何故です!」
「これを‥‥‥‥これを着けるんですよね? 人間が使うペット用品じゃありませんよ!」
珍しい事に、みなもが声を荒げている。その頬からは夥しい汗が流れ、体は小刻みに震え始める。
「‥‥っ」
みなもの耳には届かなかったが、案内をしていた研究員が極々小さな舌打ちをした。
度重なる記憶操作に洗脳実験。肉体を変化させる物まで繰り返し実験してきたのだが、完璧に見えたそれらも、回数を重ねれば記憶になくとも体が危険だと覚えてしまう。本人が忘れてしまっても、この先に進む事を危険だと“直感”し、回避してしまうように‥‥‥‥
為す術もなく研究員達の慰み者にされてしまうかと思われたみなもの抵抗に、研究員達は肩を竦め、みなもに優しく声を掛けた。
「海原さん。そんなに怯えないでください」
「で、でも! わ、私には‥‥‥‥そんな趣味はありません!」
全身を震え上がらせる恐怖感を、“そっち”に対する恐怖だと勘違いしたのか、みなもはジリジリと後退して研究員達から距離をとる。すると、研究員達はそれぞれ顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
「私達にも、そんな趣味はありませんよ」
「それでは‥‥」
「これは、あくまで“仕事”です」
ピタリと、みなもの震えが停止した。
「海原さん。分かってください。これは、“仕事”なんです。私達は海原さんに“仕事”を頼んで、海原さんは受けてくれた。なら“受けてしまった仕事は最後までやり遂げないといけない”と、私は思います。別に、この“仕事”をやり遂げて、海原さんが危険な目に遭うわけでもない。我々も、“海原さんが仕事をやり遂げる”為には協力を惜しまないし、海原さんが思うような変な事もしませんよ」
研究員の言葉を聞く度に、みなもの体が弛緩する。馬用の轡や鐙を持った研究員が歩み寄っても、微動だにすることなく虚空を見つめていた。
「しご、と、」
その言葉が、みなもの脳裏を絶え間なく飛び交っていた。
仕事。そうだ、これは仕事なのだ。みなもは、自分で自分にそう言い聞かせる。
みなもは、この研究員達が開発したペット用品を試すためのモニターとして仕事を引き受けたのだ。なら、それがどんな道具だろうと、受け入れなければならない。実験に付き合う事を、みなもは既に了承しているのだから‥‥‥‥
「わかり、ました」
みなもの心は夢と現を交互に行ったり来たりと揺らいでいる。研究員達がここぞとばかりに馬具を装着しに掛かっても、それまでのように抵抗らしい抵抗の姿勢を示す事もなく、みなもは為すがままの玩具とされた。
「では、我々と共に外に出ましょうか。中で変わっては、思いっ切り走れませんからね」
研究員の言葉が遠く聞こえる。
その言葉には、背筋を震え上がらせる笑みと狂気が渦巻いていた‥‥‥‥
かっぽかっぽかっぽかっぽ。
草を踏み締め、土を蹴散らし、四つん這いになって草地の上を歩いていく。
人間の足は、素足で闊歩できるようには作られてはいない。いや、慣れている人ならば足の皮膚が分厚く変わり、砂地や草地どころか岩場であっても苦にすることなく歩けるだろう。だが、四つん這いとなって這って歩けるかと言われると、恐らくは否だろう。夏場のこの時期、みなもが着込んでいる学校の制服も夏服となり、両腕と脚を外に晒している状態だ。
みなもは、華奢な女の子である。体は柔らかく、素足での山を駆け回るような野性味のある生活を送っているわけではない。
「――――」
小石を膝で踏み付け、みなもは眉を顰めて苦痛に表情を歪める。が、しかし闊歩する体を止めるような事はない。むしろ自ら傷付きに行っているように、切れ味の良い長い草の生えた草原を、それこそ本物の馬のように走ろうとする。
こけっ。ばたんごろごろごろ‥‥‥‥
「馬と言うよりも、パンダですかね?」
「しょっちゅう転んでいるからな。そうも見えるが、やはり馬だ。体は、少しずつでも変化してきているのだろう?」
草地に足を取られて転倒するみなもを、研究員達は遠目に観察して変化の経過を見定めていた。
みなもは轡を着け、鞍と鐙を乗せて誰も居ない草原を駆け回っている。まぁ、それも赤ん坊が這って移動しているのよりかは速い、と言う程度のもので、人間が歩いた方が遙かに速く、効率的に移動できるだろう。馬としてみると、どうしてもみなもは不格好で危なっかしく、生まれたばかりの子馬の方が“マシ”に思えてくる。
「今回の計画、見直した方が良いんじゃないですか?」
「まだ、体が馬になってない。結果を語るには早すぎる」
双眼鏡を使い、地を這い歩き回るみなもを観察する。みなもは、表情だけで見れば酷く楽しそうだ。唯歩き回っているだけだというのに、それこそが至上の娯楽なのだと思っているようだ。口に填められた轡からは涎がダラダラと垂れていてだらしないが、肉体が成人しきっていない少女のものである事を思うと、妙に扇情的で蠱惑的な絵面となる。
「手を出したらダメですよ」
「結果が出たら、な?」
「その時には馬ですよ」
「ぬぐっ、ぬわぁぁ!?」
苦悩するように体を折る研究員。ゴキッ! その時、遠くから骨の折れるような痛々しい破断の音が聞こえてきた。慌てて双眼鏡を覗き込んだ研究員は、迷うことなくみなもに目を向ける。
‥‥‥‥みなもは、それまでのように楽しそうな笑みを浮かべてはいなかった。苦痛に体を折り、口から苦悶の声を上げている。見ると、みなもの両腕が、脚が、砕け散ったかのようにグニャグニャになっている。
「変化が始まった」
「ぬぬ。馬と人間では‥‥‥‥やはり体格に差がありすぎたか」
研究員達は、それぞれ顔をつきあわせて「あーでもない」「こーでもない」と話し合い始める。
人間と馬。この二つの種は、まったく交わる事のない別の生物である。人間は馬になる事は出来ないし、馬は人間になる事は出来ない。それは当然の事であり、その不可能に近い差を埋めようと思えば、それこそ生まれ変わりに近い異常な変化を求めなければならないだろう。
指先が丸まり硬化を始める。蹄への変化だ。スカートが盛り上がり、フサフサとした尻尾が生え始める。髪の毛はそのまま鬣へ。鼻と口を突き出すよう表情を無理矢理に作らされ、着けられた轡がギリギリと軋みを上げてみなもの顔を締め付ける。
「ヒ、ヒヒーン!!」
みなもは可愛らしい声で、しかし必死に助けを求めて叫びを上げる。
それを聞くものは誰もいない。聞いたとしても、研究員達が行いたいのは“観察”だ。みなもを助け、貴重な研究データに人の手を加えたくないため、一切の手を出さない。
それは、みなもに起こっているのは人間から馬への変態であり、死に至るような過程ではない事も承知しているからこそだ。しかし、みなも自身は、そんな事など知る由もない。全身の皮膚が分厚く頑丈に、だがゆっくりと隆起していく筋肉に押し広げられ、骨格が変化していく。それは緩やかに、少しずつの変化でしかなかったが、それが与える激痛は、みなもに死を覚悟させるに余りあるものだった。
痛い。苦しい。誰か、助けて。
これまで様々な実験に付き合ってきたみなもだったが、この時ばかりは、肉体以上に心が折れてしまいそうだった。
度重なる実験の繰り返しで、思考力を奪う轡の呪い(これまでは首輪だったが)に耐性が出来はじめていたのだろう。肉体は呪いに逆らえずに変貌していくのに対し、精神はあくまで人間のままだった。みなもは未だに、「これも“仕事”だから」と言う一念のみで激痛と馬特有の“走りたい”という本能に逆らっている。
‥‥‥‥‥‥相反する人間と動物の二つの精神が鬩ぎ合い、摩耗する。
激痛は消えそうになる精神を繋ぎ止めると共に、心身を鑢で削り取るように粉へと変えて風に舞わせ、四散させた。
研究員達は、そうとも知らず、悶え、恐怖に身を竦めるみなもを観察するばかり。津波のように襲いかかる心身の変化に翻弄され、みなもはズルズルと体を引きずりながら、本能に身を任せて歩こうとする。
(だれ、か、わ、たす、け、ひひーん)
みなもは草原のベッドに体を横たえ、やがて、力尽きるように眠りに就いた‥‥‥‥
その後、可愛らしいミニチュアホースへと変貌を遂げたみなもを見た研究員達は、膝を付いて競馬界参戦の夢を諦めた。ミニチュアホースは、大型犬を更に一回り大きくした程度の、非常に小さな小型の馬である。開催されるレースなど、戯れの前座か、子供向けのイベントでしかない。
研究者達が企んでいた、みなもを一流のサラブレッドに育て上げて一攫千金を狙おうという計画は水疱に喫した。ミニチュアホースとしてみなもを売りに出してもそれなりのお金にはなるのだろうが‥‥‥‥多大なリスクを冒してまで得るには小金も同然であり、とてもリスクと見合うものではない。
「うぅ、犬猫よりも金になると思ったのに」
「ひひーん!」
ゲシッ!
馬となったみなもは、不埒な本音を零す研究員に蹴りを食らわせ、颯爽と研究所の庭を駆け回っていた‥‥‥‥
Fin
●●後書きと書いてうしろがきと読んでみる●●
お久しぶりです。メビオス零です。
調べてみたのですが、ミニチュアホースをメインに据えたレースなんて本当にないみたいですね。サラブレッドとは全然違う、手軽に触れ合える馬みたいで。レースは、あったとしても、賞金も大したことはないみたい。盛り上がりに欠けますからねぇ。可愛いけど。
て言うか、馬って一般家庭でも飼えるんですか!? 調べてみるまで知りませんでしたよ。馬=牧場の図式が脳内で出来上がっていたので、土地さえ用意できれば飼える種だとは思いませんでした。
いつか、勝手みたいなぁ。無理だなぁ。可愛いなぁ。成人している自分だと、たぶん乗れないんだろうなぁ。ガッカリだなぁ。子供が羨ましいなぁ。そう言えば、小学生ぐらいの頃には通学路に馬が立って(騎手さんもいました)誘導してくれていました。懐かしい事を思い出したりしながら、後書きを締めくくりたいと思います。
今回のご発注、誠にありがとう御座いました。
なるべく内容を圧縮して書いてしまっているので、色々と不安定な部分があると思います。
ご感想、ご指摘、ご叱責などが御座いましたら、遠慮容赦なく送って頂けると嬉しいです。内容が厳しいものでも、作品がより良い物になるようにと善処していきたいと思っております。
では、改めまして、今回のご発注、誠にありがとう御座いました(・_・)(._.)
|
|
|