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朱潜む漆
暗殺を請け負う組織に身を置いている身上、裏社会での情報はあますところなく耳に届く。例えば、今どの辺りで何という名前の人間がどういう犯罪に手を染めているのか。一般的なニュースにはならないような情報も逐一耳に入るようになっているのだ。それは噂話のように確証を持たないものであったりもするし、あるいは今日のように“指令”として耳にする事もある。確率的には後者のほうが高いだろう。噂話を耳にするのと同時に指令が舞い込むというパターンもありがちだ。
視界を適度に阻む仄暗い闇に包まれた一室。それを後にしてドアを閉めれば、そこにあるのもまた仄暗い薄闇で包まれた廊下だ。およそ温かみを感じさせない壁、その壁に均等感覚で提げられ揺れる赤いランプ様の光源。ヒールで踏み鳴らす足もとにはやわらかな絨毯が敷かれている。時おり目にする調度品も品の良い、高額めいたものばかりだ。
水嶋琴美は、けれど目にする調度品の数々などには微塵の関心も寄せることなく、やがて廊下を突き当たり、ひどく唐突な感をすら覚える扉を押し開けた。同時に目を眇め、眼前に広がった風景に口をつぐむ。
西日に染まる夕暮の空。日没を前にしているにも関わらず、肌を射すような夏の暑気。街路樹にとまる蝉が忙しく鳴いている。行き交う人々は琴美がそこに立っていることになどまるで関心を寄せるでもなく、思い思いに雑踏の中に飲み込まれていく。
肩越しにわずかに振り向き、たった今出てきたばかりのドアを検めた。何一つとして変哲のないビジネスビルの社員出入り口だ。――もちろん、それは周囲に立ち並ぶ同じようなビルの中に身を潜めるためのものにすぎない。木を隠すなら森の中ということだ。
鬼鮫という男がいる。むろん、それはいわゆる通り名にすぎない。生まれ持った名前もあるのだろうが、鬼鮫はおそらくそんな名前など捨てさっているだろう。もちろん、彼が抱えている過去に関する情報も把握してはいる。しかしそのような事情も背景も、何一つ、琴美にとっては関わりのない話にすぎない。
鬼鮫を暗殺しろ――そういう指令が、今しがた下された。
鬼鮫は超常能力を保有していないという。純粋なる、そして類まれなる戦闘能力の所有者というところだろうか。そういった面では琴美とある種似通っているのかもしれない。琴美もまた、忍の家系に生まれ、現代においてもその術を行使することのできる身体能力を得ている。しなやかに伸びる四肢、豊満かつ引き締まった躯。そこから繰り出される技巧の数々は、琴美が備え持った天性の能力にくわえ、幼い頃から鍛えられ叩きこまれた努力の賜物でもある。
街を歩けば大概の男が振り向く。しかし琴美に声をかけてくるのはごく一握りだ。琴美が放つ凛とした空気は他者を寄せ付けず、しかしそれゆえに見る者の情欲を掻き立てもする。寄せられる多くの視線にこめられた意味を、琴美は気付かない振りをして受け流すのだ。
自室に戻り決行の準備をする。真夏の西日によって容赦なく打ち抜かれた身体をシャワーで鎮める、鏡の前に立ち長く艶やかな黒髪にドライヤーをあてて乾かし、動きやすいように結いまとめると、裸体のままリビングに移動する。
ビルの数階の高さに位置する琴美の部屋は、窓さえ開け放っておけば風が出入りして比較的涼しい。他者がどこかで覗いているかもしれないが、それすらも気に病むものではない。カーテンが風をうけて大きく揺れ動いている。その向こうに見えるのも似たようなビルの群れだ。
所有しているインナーは動きやすさを重視したデザインで、外装に合わせた黒いものが多い。ベッドに腰を落としてそれらを身につけ、次いで太腿には数本のくないを括りつけておくためのベルトを着用する。一見すればガーターベルトのように見えなくもないデザイン性で、インナーを収納している場所の中にあっても何ら異質感もない。もっともそれらのすべてが琴美の動きや身体特長のすべてをカバーし開発された素材で作り出されたものだ。機能的にも一切の申し分もない。
ふと、どこからか視線が寄せられているような気がして、琴美はふわりと目を持ち上げる。
風で大きくはためくカーテン、その向こうに立ち並ぶビルの群れ。そのビルの一室から、西日を受け、何かが反射していた。琴美は小さな舌打ちをひとつ吐くとゆっくりと立ち上がり、インナーにガーターベルトという出で立ちのままカーテンの前に立つ。そうして艶然とした笑みを浮かべた後にカーテンを引き閉めた。
立ったついでに手製のアイスティーを出してグラスに注ぎテレビをつける。番組を確認したいわけではない。時間の経過を確認したいためだ。画面に映るキャスターが読み上げるニュースになど興味はない。アイスティーを飲み干すと、琴美は再び準備にとりかかった。
細く長い脚にフィットするスパッツ、その上にはミニのプリーツスカート。太腿のベルトを締めなおし、そこにくないをセットする。
豊満な胸を覆い隠すのは和服をイメージし作られた戦闘服だ。着物の両袖を戦闘用に半袖様に短くし、帯を巻いた形に改造した特製のデザイン。機能性を重視した形となっている。
テレビ画面の中で蝉が鳴いている。
琴美の部屋からでは蝉の声は聴こえない。街を行く人々の喧騒も、猥雑な車の往行も遠くにあるものになるのだ。
アイライナーを引き、マスカラをつけて、最後に形良い唇にルージュを引く。身につけている服のデザインと、それ以上に、琴美自身が醸し出す色香が、そうすることで一層匂い立つようなものへと変じるのだ。
ニュース番組が終わり、大衆的なお笑い番組が始まる。それを横目に検めると、琴美は編み上げブーツを脚につけ、次いでグローブを両手に装着した。
時間だ。鬼鮫という男を暗殺する、そのための決行時間が迫っている。
開け放たれたままの窓とカーテンはそのままにしている。それどころかテレビ画面も部屋の電気もつけたままだ。――どうせ、暗殺にはさほどの時間を要しない。すぐに帰ってくるのだ。
玄関を出ると薄い夜の闇が街を包み始めているのが知れた。まだ熱を含んだままの風がスカートを揺らす。
琴美は大きく跳躍すると、夜が訪れ始めた街の中へと踊り出た。
蜩が鳴いているような気がしたが、どこかの街路樹にはりつき鳴いているものなのか、あるいはテレビの向こうから聴こえてきているものか。――それは判然としないまま。
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