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<東京怪談ノベル(シングル)>


レディ・イン・ザ・ダーク(1)

 そこは一般に想像する「秘密の任務」を受ける場所とは、かけ離れたものだった。
 まず場所であるが、日本国民であれば見たことはなくても知っているであろう、某省庁の一室、プレートもかけられていない、ごくありきたりな執務室である。
 何の変哲もないドアを開けると、ガラス天板のテーブルを挟み、部屋の奥に向かって平行に置かれている革張りのソファ――これは少々アンティークじみている――のむこうに、平凡な事務デスクがある。
 しかし、そのデスクに向かって直立不動の姿勢を保っている後ろ姿は、どう表現しても「平凡」とは言い難かった。
 本来制服というのは、規律の順守を担うものである。つまりその制服を着用する義務のある者の個性を、ある程度抑制する機能を保持していなければならない。
 だが、彼女――水島琴美の「体型」という個性を覆い隠すことについて、その制服には荷が勝ち過ぎていた。
 華奢な肩幅に合わせて選んだためだろう、背中の真ん中のあたり――前から見れば、胸の部分にあたる――の布は、他の部分がゆるみがちなのに対して、ぴっと張りつめている。
 くびれたウェストを頂点にしたタイトスカートの上部はその両側になまめかしい曲線を描き、その裾から伸びる美しい脚線に続いている。
 制服の露出の少ないストイックさが、その下にある肢体の想像を掻き立てる――こんな女性が同じ場所に居ては、規律が乱れるどころか、仕事など手に付かないだろう。しかし、そんな心配は無用だった。
「鬼鮫、ですか」
 今し方口頭で告げられた名前――今回の暗殺のターゲットの名を、琴美は小さく繰り返した。
 単独行動での暗殺――それが彼女の任務だ。
 琴美の呟きに頷き、彼女の上司は組んだ手に顎を埋める。
「もうかなりの人数がやられている……」
 数ある任務のうちのひとつにすぎなかった敵対組織への潜入計画は、「鬼鮫」の出現により、彼の暗殺、彼のついての情報収集――と、時間と経過と共に大きく迂回し、遅延を余儀なくされ、さらには一歩の進展も見られていないという。
 潜入計画自体の遂行よりも、問題は「鬼鮫」の存在である。今後彼が、さらに重要な任務に関わってきた場合、打つ手がないという事態はなんとしても避けたい――そこで琴美に白羽の矢が立ったのだ。
「今回は『鬼鮫』についての情報収集が任務だ。ただし、危険と判断したら、直ちに」
「お言葉ですが」
 上司の硬い声を、琴美はやんわりと遮った。
「そのご命令をお受けすることはできません」
 ぎょっとして顔を上げた上司に、琴美はとろけるような笑顔を向ける。
「対象は危険人物――放置しておけば、それだけ犠牲者が増えますわ」
「しかし、君には他にも重要な任務が」
「与えられた任務を完全に遂行することについて、私の中で優劣はございません」
 穏やかながらも、有無を言わせぬ口調である。上司は微笑む琴美に大きくため息をつくと、改めて彼女への指令――「鬼鮫」暗殺の命令を下した。
*****
 すれ違う職員の熱い視線を嫌みなく避けながら、琴美は敷地のはずれにある倉庫に向かった。
 だが、その機能は「倉庫」のそれではない。彼女の所属する特務統合機動課だけが使用を許される施設、つまり「本部」にあたる場所だ。
 琴美は外見からはそれと判断できない特殊な鍵を使い、厚い扉を開けると、すぐ目の前に設置されたエレベーターで地下へ降りた。
 エレベータを降り、厳重なロックをいくつか通過したところで、ようやくロッカールームに辿りつく。
 少数先鋭の特務統合機動課のロッカールームに、その設備は少ない。しかし、この中のいくつかが、すでに主を失っていることに思い至り、琴美はわずかに眉を顰め、自分のロッカーへ向かった。
 生体認証で開いたロッカーの中には、彼女の任務遂行のための道具が、すべて備わっていた。
 琴美はまず制服の上着とブラウスを脱ぐと、ロッカーの中にかけてある黒いインナーを手に取った。
 このインナーをはじめ、琴美の身につけるものは、彼女の肉体を守り、かつその動きを阻害しないために、耐久性と伸縮性に優れ、かつ皮膚と同化するように密着したデザインに適した素材が使用されている。
 当然、その下にある下着の線など拝むべくもないのだが、いくら最新の素材とはいえ、豊満な胸の線までは隠すことはできない。
 黒くくっきりと、女性の体を浮かび上がらせるインナーの上に、着物の型をした半袖の上着を羽織る。その裾が遊ぶのを防ぐために帯を締め、琴美はおもむろにタイトスカートのファスナーを下ろす。
 インナーと同じ素材でできたスパッツを身に付けた琴美は、背後に置かれた低いベンチに足を乗せ、その太股にクナイを装備するためのベルトを当てる。傷痕ひとつない、先の細い華奢な指で、静かにベルトを引くと、その境界にあるやわらかな薄い肉が、わずかに盛り上がる。
 その上からプリーツのスカートを穿き、ベンチに腰を下ろした琴美は、形のいいつま先を、編み上げブーツの中に差し入れた。
 紐を締めようと前かがみになると、胸が太股につかえる。毎回のこととはいえ、琴美はわずかに眉を顰めながら、上体をよじって手を動かし続ける。
 最後の紐を結び終え、琴美は立ち上がった。きっちりと着こんだ戦闘服の下に隠された肢体は、匂い立つような色香を帯びている。
 ふと彼女がグローブを嵌め直そうとすると、柔らかな胸が窮屈そうに、深い谷間を作る。
 彼女がロッカールームから一歩踏み出すと、静まり返った無機質な廊下に、小気味のいいヒールの音が響く。
「さて、参りましょうか」
 艶とした微笑みを浮かべた琴美は、目的地へ向かい、一人颯爽と歩き出した。