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<東京怪談ノベル(シングル)>


レディ・イン・ザ・ダーク(2)

 鼻を突く匂いで、鬼鮫は目を覚ました。ソファに寝そべったまま、薄く開いた目を動かすと、壁一面のモニターの前に備え付けられたコンピュータを操作しているらしい男の頭から、淡い煙が上っている。
「おい」
 地響きのような声に、男は座ったままの姿勢で飛び上がった。
「な、なんだ?」
「火を消せ」
「は……」
 男は状況を飲み込めないらしい。鬼鮫は苛立ちを隠そうともせず、頭の後ろで組んでいた手を上げ、指を鳴らした。
「俺は気に入らねぇヤツは、ブッ殺して構わねぇ、って言われてんだ」
 恐る恐る振り返った男は、鬼鮫の凶暴な眼光に居竦められ、思わずコンピュータにタバコをすりつけた。
 小さく悲鳴を上げる男を無視して、鬼鮫が再び目を閉じようとした時、けたたましい警告音が鳴り響いた。
『――Aブロックに侵入者。各ブロック、指示があるまで施錠の上待機してください』
 無機質な女の声が途切れたかと思うと、今度は床に投げ出したジャケットのポケットから、通信機のノイズが漏れる。
「――鬼鮫だ」
『侵入者だ。今までの奴らよりかなりやるぞ』
「超常能力者か?」
『でなければ正真正銘の化け物だ』
 鬼鮫は通信を切って起き上がると、口元に浮かぶ残虐な笑みを隠そうともせず、部屋の出口に顔を向けた。
*****
「があっ!」
 淡い緑色の非常灯の光に満たされた廊下に、断末魔の悲鳴がこだまし、黒い戦闘服に身を包んだ男の体が床に打ちつけられ、鈍い音を立てる。
 痙攣する男の頸部から吹き出す血を避けながら、この場に最も似つかわしくない容姿の持ち主――琴美はくないにわずかに付着した血を払い、スカートの裾を持ち上げると、そこに武器を仕舞った。
「こんなものですわね」
 「鬼鮫」についての情報は一切得られていないために、手当たり次第向かってくる敵を倒してはいるが、今のところ「鬼鮫」らしき人物には遭遇していない。この程度の相手なら、特務統合機動課のメンバーがやられるはずがない。
 琴美が再び歩き出そうとした瞬間、辺りが暗闇に包まれた。非常灯が切られたのだ。
 それも想定内のことだ――が、琴美は目に入ったものに、思わず形のよい眉を顰めた。彼女は今、十字になった通路の真ん中に立っているが、その右手に伸びる通路の、さらに奥、そのつきあたりの通路だけが、ぼんやりと緑の光を帯びているのだ。
「お誘い、ということかしら?」
 現時点において、どちらにとっても、琴美と鬼鮫の邂逅は好都合、ということだろう。
 琴美は口元に微笑すら浮かべながら、光の射す方へ踵を返した。
*****
 「鬼鮫」と対峙するまでに、どれだけ体力を消耗させられるか、と警戒した琴美だったが、それは杞憂に終わった。
 敵対者と遭遇することもなく辿りついたのは、倉庫と思しき場所だった。敵を誘い込むぐらいだ、爆発物などは置かれてはいないだろうが、ここかしこに置かれたコンテナが、ただでさえ薄暗さに狭まる視界を塞ぐ。相手がこの場所を知りつくした上で誘いこまれたのなら、こちらがかなり不利になるだろう。
 その場所に一歩踏み入れた瞬間、琴美はさらに神経を尖らせ、太股のくないに手を置いた。
「んだぁ? 女かよ」
 声の上がった方向に琴美が目を向けると、さっきまで無人だったはずのコンテナの間に、人影があった。
 遠目でも筋骨隆々と分かるそのシルエットは、首と肩を回し、唾を吐き捨てる。
「あなたが『鬼鮫?』」
「それも『あなた』ときたもんだ。どこのお嬢さんか知らねぇが、とっとと帰んな」
 どうやら本気で言っているらしい鬼鮫に、琴美は目を何度か瞬いたあと、薄く笑みを浮かべる。
「お手合わせ、私では不足でしょうか?」
 悠長な物言いに、鬼鮫が顔を顰めた時だった。
 琴美はコンクリートの床を蹴り、鬼鮫との間合いを一気に詰めると、その首に向かって容赦なく、くないの斬撃を浴びせた。ヒールの残響が消える間もない時間の中での出来事である。
 普通の人間なら、自分の流した血だまりの中に身を伏せているだろう――が、「鬼鮫」は違った。
 皮一枚のところで、頸動脈への攻撃を避けた鬼鮫は、反射的に後ろへ退いた。が、それも琴美の読み通りだった。
 琴美は地面に足を着けないまま、しなやかな腕を伸ばして鬼鮫の肩を掴むと、それを軸に大きく体を旋回させ、背後に回る。
 肩から手を放し、それを振り払おうとした拳を避けると、空中で海老反りになり後転。豊かな胸が弾かれるように揺れ、肉感をそそる太股が、鬼鮫の丸太のような首を挟んだ。
「終わり、ですわ」
 脳を蕩かすような甘い声で、琴美はそう囁き、自分の股座にある鬼鮫の頸椎に、くないを撃ち込んだ。
 声もなく、鬼鮫は硬いコンクリートの床に崩れ落ちた。その項には、深々とくないが突き立てられている。
(多少はやるようでしたけども――)
 予想よりもあっけなく終わった戦闘に、琴美は腑に落ちない、といった様子で、動きを止めた鬼鮫の巨体を見下ろした。
 自分が女性であったために、油断したのだろうか。だとすれば、なんとも無様なことだ。
 琴美は少なからぬ軽蔑の眼差しを鬼鮫に投げかけると、出口に向かって踵を返した。
 刹那、背中を悪寒が走る。そして体が反応するよりも早く、その背中に強烈な一撃が叩きこまれる。
 受け身を取る間もなく、琴美は正面の壁に、激しく体を打ちつけた。
(な――)
 琴美が自分の身に起こった事態を把握する前に、瘤のように節くれ立った手が、その小さな頭を掴む。
「覚悟しやがれ、クソッタレが」
 その声に、琴美は戦慄した。
(まさか、そんな――)
 確かに急所に撃ち込んだはずだ。生きているはずがない――人間ならば。
 声の主――鬼鮫は先ほどよりも幾分枯らした声で、低く笑った。
「さっきのは効いたぜ。こんくらい、なっ!」
 言うなり、鬼鮫は琴美の顔を壁に叩きつけた。琴美は寸でのところでそれを手で防いだが、無傷というわけにはいかなかった。
「うぐっ」
 手と頬の痛みに低く呻く琴美に、鬼鮫は小さく口笛を鳴らす。
「叩き潰すつもりだったんだがな……そっちの方が楽だっただろうよ」
 憐れみの欠片もない声だった。琴美は自分の中に湧き上がる感情に戦慄した。