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<東京怪談ノベル(シングル)>


レディ・イン・ザ・ダーク(4)

 気配を絶ち、琴美はコンテナの陰に再び身を潜めていた。
(少しでも、休まないと……)
 これまで無傷で任務を完遂してきた琴美にとって、今の状況は屈辱的なことに違いなかったが、それを今感じている余裕がなかった。
この余裕がない、という事態もまた、今この時まで、彼女が経験したことのないものだった。
 琴美は自分の負傷の度合いを、大雑把に認識した。腕と脚に大小無数の裂傷、左腕には若干の違和感、あばらは数本折れている――こんな状態になっても自分が動けることに驚きながら――そして忘れようとしていた屈辱が蘇るのを感じながら、琴美はその元凶を討ち取るべく、次の対策を講じようとした。
 鬼鮫を刺したくないには、強烈な麻酔薬を塗布していた。本来重要参考人を連れ帰る際に用いるものだが、時間稼ぎにはなるだろう。事実、先ほどから物音がしていない。
(薬が全身に回るまで待って、眠っている間にとどめを――いえ、もしかしたら、寝ている間でも再生機能は行使されるかも)
 化け物ですわ、と心の中でつぶやいた時、琴美の耳にありえない音が響いた。
 コンクリートの床を、ゴム製の靴底がこする音――倉庫の扉が開いた形跡はない。では、元から誰かいたのか?
(違う――)
 本能が拒否しようとしていた事実を、理性が叫ぶ。
「出てこいよ。いいもの見せてやるぜ」
 嘲笑混じりの鬼鮫の声が、倉庫の中にこだまする。
 琴美は震える足が動きだそうとするのを必死で抑えながら、鬼鮫の気配を探った――まるで何事もなかったように、乱暴だが安定した足取りで、こちらに近付いている。
「最初の威勢はどうした? 俺の首獲って帰るんじゃねぇのか?」
 逃げなければ、と本能と理性の叫びが一致した。しかしこの場所から抜け出すのは、鬼鮫との対決は避けられない――結論はすぐに出た。
 甲高いヒールの音が、薄暗い倉庫内に響いた。
「諦めはついたか?」
 もはや誰の目にも、琴美がまともに戦うことができないのは明らかだった。
 腕には大小を問わず無数の裂傷が走り、動かせばさらに傷口を開き、激痛に苦しめられることは想像に難くない。脚もそれと同じような状態だが、破れたスパッツから覗く太股から膝にかけて、紅い血が幾筋も伝う様子は、背徳的な美しさすら醸し出している。
 また、だらしなく開いた着物の襟から、インナーに包まれた豊満な胸乳がはみ出し、淫靡な色気を漂わせている。
 しかし、その満身創痍の様子をもってしても、未だ彼女の目が闘志を失っていないことに、鬼鮫は侮蔑のと苛立ちの目で答えた。
 鬼鮫は黙って、自分の片手を琴美に向かって突き付けた。その手首には、くないが貫通している。
「よーく見てろ」
 言うなり、鬼鮫はもう片方の手でくないを引き抜いた。血は吹き出るどころか、瞬く間に流れを止め、ぱっくりと開いていたはずの傷口は、まるで早送りの映像を見ているかのように、凄まじいスピードで塞がっていく。
「見ての通りだ――ただ、痛覚は人並みにあるんでな」
 うすら笑いを浮かべていた鬼鮫の顔が、突如として鬼気迫るものとなった。琴美は渾身の力を振り絞り後ろへ飛んだが、距離が足りない。
 鬼鮫の赤ん坊の頭ほどもあろうかという拳が、容赦なく琴美の腹部にめり込む。
「うあっ……!」
 悲鳴とも呻きともつかない琴美の声に遅れて、色の失せた唇よりも紅い鮮血が散る。
 しかし鬼鮫はそれを意に介した様子もなく、無防備に宙を舞う琴美に、躊躇なく蹴りを加えた。
 琴美自身に、もはや体を動かすことができるほどの意識は残っていなかったが、彼女の本能が新たな衝撃に対して、防御の姿勢を取る。
 腕に走ったこれまでにない激痛に、琴美の意識が叩き起こされる。が、そうなったところで、彼女にできることは、無いに等しかった。
 コンクリートの床に倒れ込む琴美に近付き、その脇に立つと、鬼鮫はうつ伏せになった体の下へ乱暴に足を突っ込み、そのまま蹴り上げるようにして、仰向けに返した。
 その衝撃で、ただでさえ着くずれていた琴美の着物は、今や完全にはだけ、荒々しい息遣いに、豊かな胸が上下する。スカートももはやその体をなしておらず、スパッツに大きく空いた穴には、白い柔らかな脾肉が食い込んでいる。
 鬼鮫は死んだように目を閉じる琴美を見下ろしたあと、その乱れた髪を荒々しく掴んだ。
「テメェには、洗いざらい吐いてもらうぜ――そのあとは、俺の知ったこっちゃねぇが」
 その時、鬼鮫の無線が鳴った。
『終わったか』
「わかってんなら、いちいち確認すんな。こいつはどこへ運ぶんだ?」
 言いながら、鬼鮫は倉庫の入り口に向かって歩き出した。
 琴美は微かに意識を取り戻していたが、目を開けようとはしなかった。
 一歩引きずられるごとに、床に接した琴美の体の傷は開き、灰色のコンクリートの上に、黒い血の跡を残していく。
 やがて二人の姿は、緑色の非常灯にほの暗く照らされた廊下の奥の闇へと消えて行った。