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<東京怪談ノベル(シングル)>


疾走


 どのような生物にも、生まれながらに持つ本能というものがある。
 虫は生まれながらにして自らの行うべき行動の全てを知っている。蜘蛛は誰からも教わることなく美しい巣を張り巡らせる事が出来るし、蟻は女王を中心に見事な組織を作り上げる。魚は食すべき獲物と大敵を見分け、動物は本能という欲望に忠実に従いながらも他者とのコミュニケーションを取りながら秩序のある世界を作る。
 人間は“本能”を“理性”でもって律する事を美徳としているが、それでも生物の根底に根差している欲望には逆らえない。いや、そもそもその本能が呼び起こす欲求に逆らっていては生きる事すらままならない。食欲も睡眠欲も性欲も、生きるために、種族が繁栄するために必要不可欠な要素なのだ。
 しかし、その形は生物によって異なるものだ。特に、人間と違い、ある特定の行動を起こす事に特化した生物は、同じ行動でもそれぞれが感じる快感が懸け離れている。人間が理性と知性を手に入れたのと引き替えに失った“生きる”ことで得られる幸福を、彼等は必ず持っている。
(‥‥‥‥むぅ、朝ぁ?)
 ぶんぶんと長い頭を振りながら、海原 みなもは顔に掛かった鬣を背に向けて振り払い大きな欠伸をする。普段なら手で隠し、照れ笑いでも浮かべるところだが、みなもは眠そうに目を瞬かせるだけで少女らしい仕草を見せる事はない。温かな藁の上に身体を横たえ、グッタリと頭を落とす。
(今、何時頃なんでしょう‥‥‥‥)
 目を頭上に向ければ、風がよく通るように設計された大きな窓が確認できる。そこから見える外の風景には、未だに暗くうっすらと星が瞬いている。しかし、その星は少しずつ薄くなっていき、次第に見えなくなっていった。
 この場所に時計はないが、恐らくは早朝、陽が出始める時間帯なのだろう。みなもの周りでは「ひひん」「ぶるる」と小さな声が聞こえ始めている。
 自分とはまた違う実験に付き合わされている子馬達だ。みなもはそう思う。実験の内容が聞かされる事はないし、会話をする事もないが、この場所にみなもを押し込めている人々が意味もなく動物を飼育するとは思えない。
 ‥‥‥‥それとも、この子馬達も自分と同じように、元は人間なのだろうか。
 みなもは折り畳んでいた四本の脚を伸ばして立ち上がりながら、大きく伸びをした。昨日走り回って疲労の頂点に達していた身体は柔らかくほぐれており、関節が小さな音を立てて本来の機能を取り戻す。身体がいつもよりも重い。しかし、その“いつも”をどうしても思い出す事が出来ず、みなもは深く考える事もなく狭い厩舎の中で足踏みをする。
 ぎぃぃぃ。
 外と厩舎を隔てる境界である大きな扉が開いていく。
「おはよう! みんな、もう起きてるか?」
 開いた扉から顔を出したのは、もはや見慣れてしまった男性だった。普段は白衣を着込んでいるのだが、今では長靴に使い古された作業服と、農作業でも行っていそうな格好をしている。
 みなもは一際大きく「ひひーん!」と嘶いて返事をすると、楽しそうに蹄を鳴らした。
「はいはい。海原さん。すぐに出してあげますから、大人しくしていて下さい」
 男性は優しい声でそう言うと、みなもを閉じ込めていた簡易な檻の扉を開けた。
 みなもは厩舎から一人で出て行こうとする。しかし男性は、慌ててみなもに手綱を付けると、手綱を引いて自分が先導するようにして連れ出した。強引に引っ張られているようにも見えなくはないが、引っ張られているみなもには不快感はない。唯うずうずと身体が疼き、歩くのではなく、もっと颯爽と全力を持って疾走したいと、本能が叫びを上げている。
「分かってる。今日は、好きにしていて良いからな」
 厩舎の外は、まだ薄暗かった。太陽は顔を出してはいるものの、まだその姿を半ばまでしか現していない。十分もすれば世界が明るく照らされるのだろうが、薄暗かろうと何だろうと、目前に広がるのが見慣れた牧場の光景である事に違いはない。
「ひひーん!」
「あ、こら!」
 みなもは手綱を引いていた男性の手を振り切り、颯爽とその場から駆け出した。
 逃げ出したわけではない。唯、走る。その為に、みなもは自分によくしてくれる研究員を振り切った。
(気持ちが良い!)
 冷たい朝の風を掻き分けながら、みなもは心地の良い疾走感に心を満たし、一心不乱に駆け続けていた‥‥‥‥


 海原 みなもは、うら若い人間の少女である。
 いや、正しくは人間の少女であった、と言うべきなのだろう。現在のみなもは以前のように学生服に身を包み、忙しなくあるバイトに精を出すと言う事もない。綺麗で柔らかかった肌は堅く頑丈で、分厚い物に変わっている。色合いは以前よりも一層白く染まり、長く青みがかっていた髪は立派な鬣となり、走り続けると背中の上でぱたぱたと暴れ始める。
 手足は軽く、全体的に細くなった。しかし太腿の筋肉は以前の倍近く膨れあがり、踏み出す足は軽快で力強い。細くしなやかだった身体は筋肉の鎧に包まれ、お尻からは何本もの毛糸のようにふさふさとした尻尾が生えている。
 誰がどう見ても、みなもは子馬となっていた。
それもミニチュアホースと呼ばれる小型の馬である。大人が乗れば潰れてしまいそうなほどに華奢で可愛らしい身体は颯爽と草の生い茂る牧場を駆け抜け、土を巻き上げて続けている。
(速い! 気持ちいい! もっと速く!)
 みなもは何かに取り憑かれたように走り続け、朝日の昇る中を疾走する。
 みなもが居るのは、アルバイトで度々通っていた研究所だった。主にペット用品の餌や玩具を開発するための実験に使われている、非常に大きな研究所である。
 ペット用品のモニター役として雇われたみなもだったが、気が付けば見事なミニチュアホースへと早変わりだ。その過程はみなもの知識を総動員しても解明できる物ではなかったが、しかしなってしまった物は仕方ない。元々人間と人魚の境界に立ち、トラブルというトラブルに見舞われ続けて非常識な出来事に耐性が出来ていたみなもは、早々に環境に順応し、馬としての生を楽しんでいた。
 みなもを馬へと変えた研究所には、動物を飼育するための厩舎と牧場が用意されていた。牧場には木で囲いが作られ、みなもが全力で飛んでも逃げられないように配慮はされている。だが、みなもに不満や不安の類はなかった。研究員達は馬に変身したみなもの扱いに悩んでいるらしく、基本的には実験らしい実験に付き合わされる事はなかった。解剖される事もなければ、薬を飲まされる事もない。厳しい訓練を科される事もなければ、他の馬とあんな事やこんな事をさせられる事もなかった。
 むしろ、馬へと変えられたみなもの待遇は、他の馬と比べても破格だった。食事はもっぱら果物で、ブラッシングは一日に三回。水浴びも二回させて貰い、人間としての意識を残しているみなもへの配慮なのか(会話をする事は出来なかったが)、飼育員はみなもを気遣い事ある毎に話しかけてきてくれた。
 お陰で、みなもは人間としての知性と理性を失わずに居続けている。人間がその理性を繋ぎ止めるためには、他者とのコミュニケーションが不可欠だ。狭い牢獄に押し込められ、誰とも話さず、何もすることなく存在し続ければいずれは自我が崩壊する。如何に精神的に強くとも、その崩壊は避けられない。
 その点で言えば、みなもは研究員達にモルモットとして扱われながらも恵まれていたと言えるだろう。
 みなもはゆっくりと確実に昇っていく朝日を尻目に、颯爽と広い牧場を駆け巡った。
(ああ、楽しい!)
 ひひーんと嘶き、みなもは牧場を旋回し何度もグルグルと回っていた。
 みなもは、身体を馬へと変えられてからと言う物、こうして駆け回る事が何よりも楽しくなった。
 全身から汗を流しながら、短めに刈り込まれている牧場を駆け抜ける。人間でいる頃には、汗をかく事も走る事も出来る限り避けていた。嫌いではなかったが、人間の身体では数百メートルも駆ければ息は上がり筋肉に痛みが走る。全力疾走でもしようものなら、十数秒で体力の限界が襲いかかってくるだろう。
 みなもは体力にそれなりの自信を持っていたが、それでも人間の枠に押し込められてしまえば小さな自身でしかない。人間の体力など、犬猫の足元にも及ばないのだ。
 ‥‥‥‥しかし、現在のみなもの、馬の身体は違っていた。
 全力で疾走しても、身軽な身体は何処までも駆け抜ける事を欲し続けている。疲労は心地のよい感覚へと代わり、流れる汗も気にならない。擦れ違っていく風は際限なく上昇し続けていたみなもの体温を下げ激しい運動をするに適した温度を保ち続けている。
走っても走っても疲れない。人間の時には感じられなかった快感に、みなもの精神は高揚して笑みが込み上げてくる。残念ながら馬の頭では人間のように表情を変えるなどと言う器用な事は出来なかったが、遠目に観察している研究員は、みなもが心から走り回る事を楽しんでいる事を察しているようだった。
「ひっひっ、ぶるるるる!」
 馬の本能が人間の理性を駆逐する。
 牧場を走り回る時、みなもは人間の知性を残しながらも、“より速く走りたい”という本能の呼びかけに忠実に従った。
 まるで、ゲームに熱中する子供のようだ。集中力はいつまでも持続し、より多くの得点を得ようと躍起になって行動する。
「おーい! 海原さん! もうそろそろ‥‥‥‥聞いていますかぁ?」
 遠くで研究員であり飼育員である男性が声を張り上げている。みなもに追い付く事が出来ないと分かっているため、駆け寄ってくる事はない。これが普通の馬ならば、呼ばれたところで戻ってくる事などないのだろう。大抵の動物は、人間の言葉を理解する事など出来ないのだから。
「ひひーん!」
 しかしみなもは、人間としての知性をそのままに残していた。記憶を若干削り取られていたが、言葉を理解するのに不自由はない。みなもは大人しく戻ろうと、踵を返す。
 みなもは、身体を馬に変えられてなお、自分が行っている事を“仕事”だと割り切っていた。
 普通の人間なら、自分の身体を人外に変えられては憤慨し、場合によっては研究員達を殺害しようと躍起になって暴れるだろう。悲しみと絶望に押し潰され、現実から逃避し、心身共に壊れてしまう事もあるだろう。
 だと言うのに、みなもは完全に“馬”としての自分を受け入れ、順応していた。
元々、みなもは人魚から人間に変身し、日常生活を送っていた。“変身”という現象は、みなもにとっては未知の現象ではなかったのだ。真面目な性格もあり、研究員が望む結果を出そうと“馬”としての仕事に精を出す。人間の理性と馬の本能を両立させ、みなもは“馬”と“人間”の中間の存在である事を楽しんでいた。
 ‥‥‥‥が、しかし‥‥‥‥
「ちょ、ちょっと! 戻ってきてよ!」
 みなもは研究員の目前まで戻ってきたかと思うと、突然方向を変え、研究員の周りをグルグルと回り、走り続けた。
(止められない。止まれない!)
 みなもは嘶きながら、笑っていた。
 人間でいる時には出来なかった、本能に従う生物の在り方。人間の知性と理性では決して得られなかった快感に酔いしれ、みなもは恍惚とした心で走り続ける。
 止まれなかった。楽しい。嬉しい。気持ちが良い。この三拍子が揃っている行動を、一体どうして「止めろ」と言われて止められるのだろうか。麻薬にも似た、本能が生み出す快感に、みなもは流されようとしている。頭では「止めよう」と思っていても、身体は言う事を聞かずにより大きな開放感を求めて獣への道を進んでいく。
「ひひひーーん!」
 みなもは一際大きく嘶き、懸命に身体を止めようとした。意志は強い。しかし本能という暴力は、みなもの理性を持ってしても御しがたい魔物と化していた。
(でも、これでも良いかも知れない)
 みなもの思考からは、人間に戻り、家族の待つ家に帰るという選択肢が消えつつあった。
 それは人間の知識と理性を保ちつつ、完全に馬と同化しつつあると言う事‥‥‥‥
「参ったな。馬具を外してから二日も経ったけど、戻る気配もない‥‥」
 研究員は、段々と本物の馬へと近付いていくみなもに胸を高鳴らせる。
 研究対象として、みなもはこの研究所のどんな生物よりも興味を惹く。研究者としての魂が疼き、どうすればみなもを人間に戻せるのか、或いは完全な馬にする事が出来るのかを考える。それと同時に、みなもを待つ家族を思って焦燥を覚える。みなもは忘れつつあるのかも知れないが、みなもを求めて家族が動き出した時の対処を、今の内に考えておく必要があるかも知れない。
 状況は誰にとっても深刻である。しかしみなもは、その様な現実など忘れ、一心不乱に風を全身に浴びているのだった‥‥‥‥


fin