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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜に泳ぐ 2

申し訳程度の非常灯が、ほんのわずかな光源としてあるだけの地下室。
自分と相手しか人間はいないが物はそれなりに置いてあり、降ってきた階段の段数を考えるに天井の高さもそこそこある。
助走をつけるだけの広さもあるとなれば、戦場としては申し分ない。
琴美が改めて踏み出すと同時に後ろへ飛び退った鬼鮫には少々手狭かもしれないが。
彼我の差は数mもない。触れる距離まで一秒とかかるまい。
まずは二本。
投擲されたナイフがよどんだ空気を切り裂いて飛来するのを、鬼鮫は右肩を引いて回避する。
シンプルなロングコートの裾が重く取り残される前を、ナイフは紙一重で触れられずに行き過ぎる。
さらに一歩踏み出した琴美の目の前で、水底によどむ土の色をまとった長身がそのままそこらにある箱の影へと入る。
新たに二本のナイフを両手に挟みながら遮蔽物の向こうに消える鬼鮫を最後まで見つめ、琴美はナイフを鋭く放った。
今隠れたその箱が、空箱だと琴美は知っている。
はたして充分以上の速度で放たれたナイフは、その運動エネルギーをもって箱の外壁を貫通した。
肉に突き刺さる手ごたえはない。だが壁か何かへ重く突き刺さる音と共に、ぱきんというかすかな破砕音が耳に届く。
おそらく音源は鬼鮫のかけていたサングラスだろう。琴美が箱越しでも鬼鮫の位置をきっちり捉えていた証拠だ。
さらに聞こえてくる革靴の足音は、並ぶ大小の箱と並行に遠ざかっていく。
「逃がしませんわよ」
足音の間隔と鬼鮫の身長から、脳内で歩幅のあたりをつける。おあつらえ向きに光源はこちらの味方だ。
一歩、二歩、三歩――
(そこ!)
靴底が磨り減るかという勢いで、琴美がぎゅるっと身をひねった。
次の瞬間、目にも留まらぬ速さで繰り出された回し蹴りによって、右足の靴底が文字通り乱立する箱を盛大に吹っ飛ばした。
雪崩のごとく向こう側に崩れ落ちる箱の壁が、大音響と共に埃を舞い上がらせる。最も激しい最初の音が地下室に谺する間に、二度、三度と連鎖的にバランスを崩した物の落下音や破壊音が重なって続く。
その音の中、もうもうとけぶる視界の中、琴美は神経を張り詰めさせて動かない。
乾いた空気が充満する場で、息を詰めて『動き』を待つ。
地下室には当然ながら窓がなく、外へ開く扉も侵入の際に閉めた。だから塵も埃も空気中に漂うものは全て、自然の動きは舞い上がるかゆっくりと落ちていくかの二つしかない。
それ以外の動きがあるとすれば。
「っらあっ!」
低く凶暴な裂帛の気合いと共に、色づいた空気が巻き込まれるように渦を描いた。
変化した空気の中心から突き出されるのは、皮手袋に包まれた拳。暴力そのものと本能的に認識できるような手が、白いエプロンのど真ん中めがけて伸びる。
そのままぐわっと開いて何かをむしりとるように動いた鬼鮫の腕を平均台のようにして、琴美は片手で跳び上がった。
視界が晴れる。
かけた体重により突き出された腕が下がる前に身体を浮かせた琴美は、上背のある鬼鮫のそのさらに上を取った状態で腕をつかむ手に力をこめた。
そして空に浮いているとはいえ自身の全体重と姿勢を鬼鮫の腕をつかんだ手で支えたまま、器械体操の選手もかくやという動きでメイド姿が円を描く。
サングラスを失った鬼鮫のまさに目と鼻の先で黒と白が踊った直後、至近距離からのナイフが深々とその首を鬼鮫の赤いネクタイごと貫いていた。
斜めに突き上げるようにして根元まで刺さったナイフの勢いに押されて、ぐらりと鬼鮫の身体が後ろに倒れる。
そのまま箱の残骸に仰向けに突っ込んだ長身に巻き込まれないよう、寸前で手を離して跳び退って軽やかに着地した琴美は、轟音が収まった頃ようやくふーっと大きく息をついた。
我ながらなかなかにアクロバティックなことをしてしまったものだ。
「無人の地下室とはいえ、少々派手すぎたかしら……」
もちろんこの館の地下施設というものがかなりの防音構造だと事前に調べていたから、このような立ち回りも躊躇なく行ったのではあるが。
しかしこれで今回の任務は達成できた。あの距離で人体の急所の一つである咽喉を外すなどありえない。
後はナイフを回収して、後始末をしてしまえば全て――

「……?」

鬼鮫の死体に近寄ろうとしていた琴美の足が止まった。
今何か、音がした――ような気がする。
この場所では、地下室では、ありえない音。
一瞬だが確かに耳をかすめた音の源を求め、琴美はがらんとした地下室を見回す。

――ごぼっ。

(え)

首をめぐらす刹那に、聞こえた。
たとえるならそれは――

「――!!」

連想のピースがぱちりとはまる。
すさまじい勢いでナイフが胸に突き立つ衝撃と共に。

――溺れた人間の吐き出した、水の中で弾ける気泡の音。