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<東京怪談ノベル(シングル)>


闇の底(1)

 水嶋、といえば、その筋の人間で知らぬ者はない、数百年の歴史を持つ忍者の家系である。
 この国における歴代の権力者に仕え、その治世に深く携わってきた、表には決して出ることのない、裏社会の名門――水嶋琴美は、その一族の血を引く女性の一人だった。
 そんな琴美にとって、潜入捜査は最も得意とする任務の一つであり、実行不可能と言われてきた案件を遂行させた輝かしい実績も数え切れないほど持っている。
 今回の任務も、彼女以外には遂行し得ない、と上官から言い渡され、琴美もそれを承諾した。
 任務の目的は、敵拠点への侵入――そしてそこにいる、ある一人の男の暗殺だった。
 男の名は、鬼鮫――これまでに、幾人も部隊の人間を葬り去った、とさわれる人物である。
 殺された、という部分が、あくまで推測の域を出ないのは、その殺されたと思しき者の死体が、未だ発見されていないためだ。
 ただ鬼鮫がその犯人であることは、ほぼ断定できる。拠点への入り口とされる屋敷に居住、出入りする者の中で、唯一素性の知れないのが、彼だけだったからだ。
 得体の知れない相手に対する、暗殺命令――暗殺をその身上とする者、自分の経歴に泥を塗りたくない者なら、にべもなく却下するだろうこの依頼を、琴美は二つ返事で請け負った。
 彼女は決して、安請け合いをした訳ではない。ただ、自分ならば必ず遂行できるという確信――それを以て、この任務に就いたのだ。が。
(……理解できませんわ……)
 自分に宛がわれた屋敷の一室で、琴美は下着姿のままこめかみに指を当て、睫毛の長い瞼を伏せた。
 彼女が前にしているのは、ベッドの上に広げられたメイド服だった。しかし、メイド服、と言っても、琴美が想像するものとは、大きな隔たりのあるデザインだ。
 半袖であることは、蒸し暑いこの国の気候を鑑みれば納得できる。胸元の赤いリボンも、なるほど、一見して地味な色調に花を与えていて好ましい。
 しかし、このワンピースの丈は、明らかにおかしい。まるで女子高生のスカートとまったく同じか、下手をすればさらに短い、風が吹けば一瞬にして下着まで露わになる長さだ。
 琴美自身も、戦闘服として丈の短いスカートを使用することはあるが、それも伸縮性、耐刃性に優れたスパッツを着用の上でのことだ。
 これを豊満な彼女が身につけるとなると、その姿ははしたないを通り越し、ひどく破廉恥な、卑猥なものになるかもしれない――それはグラマラスな体をもつとはいえ、それを誇示するような人間ではない、心根の清楚な琴美にとって、恥辱にも等しい事態だった。
 しかし、これは任務だ――その二文字が、琴美にメイド服を手に取らせる。
 メイド服のシルエットを生かすためには、コルセットを用いるのが常だが、世の女性が目を剥くようなくびれた腰をもつ彼女に、それは実際不要なものだった。
 だが、脇によけようとしてそれを手にした瞬間、琴美の表情が変わった。一般人には「少し変わった素材」としか感じられないであろうその感触が、自分が普段身につけている戦闘服と、同じものであることに気付いたからだ。
 触れてみれば、ワンピースやエプロンはもちろん、ニーソックス、ガーターベルトに至るまで、それと同様だった。
 一見して琴美が気付かないほど、精巧にカモフォラージュされた素材である。まさか余人が気付くはずもあるまい。
 琴美は戸惑いを捨て、いつも戦闘服を身につけるのと同じく、コルセットを手に取った。
 ほとんど締める必要のないコルセットがズレないよう、念入りに固定してから、琴美はニーソックスを手に取った。
 純白のニーソックスに、琴美はとがらせたつま先をゆっくり差し入れると、徐々にそれを太股へ向けて引き上げた。
 琴美のやわらかな白い脚にを、さらに白いニーソックスが覆っていく。それが太股にたどりつくと、琴美は手を放し、その具合を確かめた。ニーソックスは琴美の美しい脚の稜線に沿って密着し、その形をさらに美しく見せている。
 続いて、琴美はガーターベルトを手に取った。彼女が着用するニーソックスの密着性を考えれば不要のものだが、これも制服の一部らしい。身につけると、白い琴美の腰回りの肌に、淡く純白のレース模様が浮かぶ。
 ガーターベルトの下方から伸びたクリップで、ニーソックスを挟み、琴美はワンピースを手にした。
 彼女の体に合わせて作ってあるそれは、着心地の良いものだったが、露わになったやわらかな白い二の腕やガーターを覗かせる太股、隠しきれないはちきれそうな胸元などは、琴美の淡い色の頬を紅く染めた。
 急いでフリルをふんだんにあしらった、白いエプロンを身につけると、琴美は膝まである編み上げブーツに、足を滑り込ませた。革製の濃い茶色をしたその靴と、白いニーソックスのコントラストが映えている。
 しかし、このブーツは、今回身につけている中で、彼女にとって最も重要なものだった。丈の短いこのメイド服では、太股にクナイを忍ばせることができないため、この靴底にクナイを仕込んでいるのだ。
 仕上げにキャップを付け、琴美は備え付けの鏡の前に立った。いざ身につけてみれば、普段の戦闘服とそう違いはない――そう自分に言い聞かせ、琴美は早速行動に出た。

 ターゲットである鬼鮫は、思いの外早く見つかった。それというのも、琴美が新入りのメイドとして、この屋敷の主とされる富豪に挨拶に訪れた際、その部屋のソファで無遠慮に寝転がっていたからなのだが。
 富豪は挨拶に来た琴美、もといその匂うような色香を帯びた体を、無遠慮に舐めまわすようにして観察し、頭の一つでもたたき割ってやろうかと思うほどの破廉恥な言葉を投げかけてきたが、琴美は「何を言っているのか分かりません」という無邪気な振りを装って(富豪はこれでさらに喜んだが)、早々と部屋を辞した。自分が出る前に、鬼鮫に出られては厄介だ。
 富豪の屋敷、というだけあって、廊下には彫像や骨とう品が並べられ、隠れ場所には困らなかった。そのうちのひとつの陰に身を潜め、琴美は鬼鮫が部屋を出るのを待った。急いでいるわけではないが、チャンスはひとつでも逃すべきではないし、この手の潜入調査は、時間が経てば経つほど、こちら側の素性を知られる危険が増してくるのである。
 長期戦を覚悟していた琴美だったが、その時は思いの外早く訪れた。琴美が部屋を出て間もなく、鬼鮫があくびをしながら、富豪の部屋から出てきたのだ。
 鬼鮫は首を回して項をかくと、まだ眠気が覚めやらぬ様子で、屋敷の奥へと向かっていく。
 まったく警戒した様子のない鬼鮫に、琴美は一瞬クナイを意識したが、すぐにその考えを改めた。こんなところで戦って、万が一長引けば、こちらが不利になるばかりだ。焦らず、二人きりに――鬼鮫の退路を断つことのできる機会を見計らうのだ。
 琴美は足音を忍ばせ、鬼鮫の追跡を始めた。

 十分もしないうちに、鬼鮫は屋敷の端にある、何の変哲もない部屋のドアの前に辿りついた。彼はノックもなしに、そのドアを無造作に開けると、その中に姿を消した。
(自室、でしょうか)
 屋敷の見取り図は手に入れ、おおまかに部屋の機能は把握していたが、その中に鬼鮫の部屋の情報はなかった。
 琴美は周囲を警戒しつつ、ドアの前に駆け寄ると、素早くその内側へ滑りこみ、息を飲んだ。
(階段……)
 屋敷の雰囲気に似つかわしくない、薄暗い緑色の非常灯の中に、地下へ続いていると思しき階段が、黒々とその口を開けている。
 これが地下の基地への入り口だとすれば、罠としか思えない容易さである。怯んで当然の状況だが、琴美はそれどころか、口元に不敵な笑みさえ浮かべ、ポケットに忍ばせたグローブを手早く装着し、その不吉な階段を、高らかなヒールの音と共に下りていった。

 階段を下りるとそこは、四方を壁に囲まれた地下室だった。完全に、獲物を閉じ込めることを目的に造られたものだ。
(でも、どこかに入口が――)
「おいおい、本当にパァなのか」
 地下室の中央に、人影が見える。鬼鮫だ。
「間違えて入ってきちゃった、ってんなら、今のうちだぜ」
 迷惑な犬を追い払うかのように手を払う鬼鮫の背後に、ドアらしきものを見つけ、琴美は艶やかな笑みを浮かべた。
「せっかく足を運ばせていただいたんですもの、お土産は頂戴しておかないと」
「あ?」
「あなたの首、ですわ」
 気色ばんだ鬼鮫が怒鳴るより速く、琴美はコンクリートの床を蹴り、間合いを詰めた。そしてグローブで覆われた拳で、鬼鮫の喉に一撃を加えた。
 受け身の体勢を取る間もなく、鬼鮫の体は後方へ飛び、硬い床へと叩き付けられた。
「ご……の……」
 言葉とも呻きともつかない鬼鮫の声に、琴美はあら、と言って、目を細めた。
「まだおしゃべりができますの? 大したものですわ」
 血の滲んだ咆哮が、地下室にこだました。