コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


闇の底(2)

 咆哮の余韻が残る薄暗い地下室で、激しい戦闘が始まった。
 戦闘、と言っても、それが今の状況に当てはまるのかは定かではない。今行われているのは、一方的な暴力である。と言わざるを得ないほど、両者の攻防ははっきりと別れていた。
(もう少し、骨のある相手だと思ってましたけれども)
 琴美は一切の手加減を排除して、鬼鮫に次々とクナイの斬撃を浴びせた。その圧倒的なスピードの前に、鬼鮫は防戦一方どころか、その屈強な体のあらゆる部位に、次々と傷を増やしていく。この分なら決着がつくまで、そう時間はかからないだろう。
 しかし、琴美はのんびりと片を付けるつもりはなかった。相手の実力を測った今、任務を最短で遂行する方法を、彼女はすでに頭に浮かべており、あとはそれを実行に移すだけだった。
 琴美は不意に、自分の間合いから後方へと飛び出した。顔を腕で庇っていた鬼鮫も、思わずそれを解き、琴美の動きを追った。
「あなたには、失望させられましたわ」
 半分は当てつけであり、残りは本音だった。自分を見下す言動への仕返しはもちろんだが、こんな男に仲間の命が奪われたと思うと、さっさと自分へ任務を回さなかった上層部の無能が腹立たしかった。
 楽に死なせはしない、と、琴美はその美しい目に殺意を漲らせた。そして体勢を立て直そうと構える鬼鮫に向かって疾走し、跳んだ。
 鬼鮫の頭の上を悠々と跳び越え、その背後に舞い降りた琴美は、その首にしっかりと腕を巻きつかせ、羽交い絞めにする。
 もがく鬼鮫に構わず、琴美は腕の力を緩めないまま、目の前にある腰の真ん中に、クナイを突き立てた。
「があああああ!!!!」
 痛みと、その痛みが何を意味するのかに気付いたのだろう、鬼鮫は絶叫した。
 琴美はその悲痛な叫びにも眉一つ動かさず、クナイを背中から引き抜くと、今度は首を締めた腕の隙間にそれを差し込み、後ろへと引いた。
「うぶっ……」
 硬直した鬼鮫の体を床に向けて投げ落とすと、首を押さえる鬼鮫を見下ろし、低く言った。
「腰椎の破壊と、頚動脈の裂傷――これが何を意味するか、もうお分かりですわね?」
 言動に不釣り合いな優しげな笑顔を浮かべ、琴美はクナイに付いた血を払った。
「助かりたければ、せいぜいそのご立派な腕で、上まで這い上がりなさい。それも、間に合えば、の話ですけれど」
 この出血では、あと五分保つかどうか、というところだろう。鬼鮫は感情の失せた目で、琴美を見上げている。
 その目に戦意がないことを見とって、琴美は踵を返した。今際を看取ってやるほど、この男に親切にする義理も理由もない。
 ヒールの音を響かせ、琴美が地上への階段を一歩踏みしめたときだった。
 背後から迫る殺気に、琴美は体を回転させ、防御の姿勢を取った。しかしそれより一瞬早く、琴美の腹に強烈な衝撃が走った。
「うあっ……!」
 呻きが悲鳴に変わるより先に、唇よりも紅い鮮血が迸る。視界が激しく揺れ、焦点が合わない。
 宙を飛んだ体が床に叩きつけられ、琴美は意識を失い、動かなくなった。ワンピースの短い裾はめくれ上がり、ガーターのベルトを走らせた白い太股が付け根まで露わになっている。
 わずかに開いた口元から流れ出る血さえなければ、艶やかな絵になったであろう光景に、鬼鮫は唾を吐きかけた。
「ご要望に添えられねぇで、申し訳ねぇ……なっ!」
 死んだように動かなくなっている琴美に向かってそう吐き捨てると、鬼鮫は拳を撃ち込んだのと全く同じ箇所に、容赦のない蹴りを入れた。
「うっ……!」
 意識を取り戻した琴美に、今まで味わったことのない痛みが襲いかかる。全身から汗が吹き出し、形容し難い感覚が、目を眩ませる。
「あっ……あっ……」
 腹部を抱えるようにして蹲る琴美のめくれ上がった裾から、艶めかしい臀部が露わになる。普通の男なら、我を忘れて奮いつくようなその艶姿にも、鬼鮫は一向に冷淡だった。
「あんだけデカい口叩いといてこれか? 失望したぜ」
 嘲笑う鬼鮫の声に、虚ろな琴美の目が見開かれた。
「お?」
 琴美は動くな、という理性の警告を必死で振り払いながら、グローブを嵌めた手を床につけ、まるで自分のものでなくなったかのような上半身を持ち上げた。もしあの時反応が遅れていれば、今頃腰椎を粉砕され、こうして動くことすらままならなかっただろう。
 琴美が任務中に相手の攻撃をまともに受けたのは、これが初めてだった。しかし、それに動揺している暇はない。
 痛みと眩暈を必死でこらえながら、琴美は立ちあがった。鬼鮫は眉を顰めながら、先ほど裂傷を受けたはずの頸動脈の辺りを、無造作に掻いている。
「まだやんのか? 踏ん張ったところで、賞与も努力賞も出ねぇぞ」
 完全に自分を小馬鹿にしている鬼鮫の言動に、琴美は平素見られない冷たい目で、それに応えた。声を出せば、吐血することは避けられない。
 そんな琴美の様子に、鬼鮫は侮蔑と煩わしさを露わにし、腰椎のあたりに手を遣った。
「自分はまだやれる、ってか? そいつぁ好都合だ――さっきのは効いた、ぜっ!」
 身を切るような殺気に、琴美はとっさに身構えた。が、遅かった。
「うぁ……!」
 声よりも唇の間から吹き出す血が、その激痛がいかなるものかを物語っていた。再び同じ部位に一撃を食らった琴美は、半ばまで膝を折った。
 もはやまともに立つことすらままならないだろう琴美に対する鬼鮫の攻撃は、止まなかった。
 鬼鮫は次々と突きや蹴りを繰り出すと、その強烈な一撃を、性格に琴美の急所に撃ち込んだ。
 ほとんど本能で、琴美はそれらの攻撃に反応した。が、それも時間の問題だった。一打を浴びるごとに、琴美の体は重く、地面に近くなっていく。
(負け……ません……)
 朦朧とする意識の中で、琴美はそう呟いたが、それが本心なのか、それとも恐怖から逃れるために自分を叱咤しているものなのか、もう分からなくなっていた。