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<東京怪談ノベル(シングル)>


闇の底(3)

 もはや琴美には、一体なぜ自分がこのような事態に陥ったのかを考える余裕も思考力もないため、代って説明しておくと、それはひとえに、鬼鮫の特殊、と呼ぶには、あまりにも超自然的な能力のためである。
 琴美が鬼鮫の頸椎と頸動脈に与えた一撃は、確かに彼を戦闘不能に陥らせた。普通の人間なら、即死してもおかしくない致命傷だった。
 しかし、それも一時のことである。彼が遺伝によって先天的に有している、驚異的な回復能力によって、その致命傷は瞬く間に治癒された。琴美が彼に背を向け、数歩進むまでに起こった出来事である。
 また、遺伝したのはそれだけではない。彼の身体能力、特に純粋な筋力は、通常の人間のそれをゆうに凌駕している。以前その力を測るため、コンクリートの塊を壊してみろ、と命令された際は、コンクリートの壁から礫を捻り出し、それを手で握って粉々にしたあと、その男に向かって投げつけたという。
 当然、その力で人間の身体を掴めば――。

「ああああああああ!!!!」
 甲高い悲鳴が、地下室にこだまする。琴美は捻り上げられた腕に奔った激痛に、整った顔を歪めた。紺色のパフスリーブからしなやかに伸びた琴美の腕は、鬼鮫の手に握られたところから、奇妙な方向へと曲がっていた。
 鬼鮫はそのまま腕を振り回そうと横へ払ったが、手に付いた生乾きの血糊が、それを阻んだ。
 その白い肌に紅い筋を描いて、いびつな輪郭の腕が鬼鮫の手を離れると、半ば意識を失いかけていた琴美は目を見開き、着地の体勢を取った。
 度重なる容赦ない攻撃に、琴美の体で無事な個所は無いに等しかった。腹部はもとより、ニーソックスに覆われていたはずの両脚も、今は穴だらけになった生地の下で、見るも痛ましい内出血の色を散らしており、左腕は先述の通りである。
 だが、脚はまだ体を支えることはできるし、右腕も無事とは言えずとも残っている。今が反撃に出る最後のチャンスだ。
 琴美の目が生気を取り戻した次の瞬間、その意思は引き裂かれた。
 鬼鮫の手は、動きを鈍らせ、注意力を失った琴美の襟首を容易に掴み、引き寄せた。そしてそのまま高々と持ち上げ、コンクリートの床に叩きつけようと振り下ろした時、鋭い音が辺りに響いた。
 なんとか受け身の体勢を取りつつ、琴美は床に転がり落ちた。そのワンピースの背中は、襟もとからスカートの裾まで真っ直ぐ帯状に裂けており、その隙間からは下着とコルセットが覗いている。
 おそらく、このような衝撃が加えられた場合、裂けた方が装着者の安全に適うとの判断の上で設計されたのだろう。事実それは琴美の命を救ったが、単なる時間稼ぎにしかならないのは明白だった。
 琴美はすでに半裸の状態だったが、そんなことに構っている余裕はない。一刻も早く体勢を立て直そうと、無事な腕で体を支え、起き上がろうとした。
 後頭部を襲った衝撃に、琴美はそのまま床に頬を打ちつけた。振動で脳が揺さぶられ、堪え切れない吐き気がこみ上げる。歯が折れたのか、口の中が切れたのか、舌に鉄の味が広がった。
 鬼鮫はうつ伏せになった琴美の背中に馬乗りになると、その血で濡れ、乱れた艶やかな髪を乱暴に掴み、頭を反らせた。
 ひゅうひゅうと、今にも途絶えそうな琴美の哀れで微弱な呼吸を耳にしても、ほとんどはだけたメイド服からこぼれ出ようとする豊満な乳房を目にしても、鬼鮫の冷たい目は終始揺らぐことはなく、ただ負け犬と化した琴美の姿を見下ろしている。
「何が土産に首を、だ。テメェのシマに、こいつを叩きつけてやるか? あ?」
 もはやどんな言葉にも、琴美が反応することはなかった。虚ろな目は、自分に虫けらを見るような視線を向ける鬼鮫を通り越し、どこか遠いところを見つめている。
 鬼鮫もそれを悟ったらしい。やり場のない怒りをその顔にありありと浮かべながら、髪を掴んだまま黙って立ちあがると、まるでそれが麻袋であるかのように、無造作に琴美を引きずり、基地へと続くドアへ向かって歩き出した。

 その後、闇の底のような基地の奥へと消えた琴美の姿を見た者は、誰もいない。