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<東京怪談ノベル(シングル)>


甘き刃は闇を屠れず 2
 
 閉鎖空間での立ち回りなら、琴美の方が断然上だ。
 無駄に体格の大きい鬼鮫よりも数倍俊敏に動けるし、これまで培ってきた経験が違う。鬼鮫が繰り出してきた拳は琴美の頭に狙いを付けていたが、それが届くよりも早く、琴美は身を屈めて回避した。頭上で空しく空を切る太い腕を一瞥してから、琴美は
片足を軸にして長い足を振った。だが、鬼鮫は足払いを受けずに後退して体制を立て直した。一撃で仕留められなかったのは悔しいが、まだまだチャンスはある。銃でも使えば手っ取り早いのだろうが派手に暴れては屋敷にいる組織の人間に見つかってしまうし、琴美自身のプライドにも関わる。忍者の家系として生まれ、早くからくノ一として鍛え上げられた経験が、暗殺に対する美学を作り出していた。鋭く、素早く、確実に、鬼鮫を仕留めてしまえばいいのだから。
「威勢だけは良いが、それだけだ」
 鬼鮫は数歩後退り、ドアを閉めた。
「そんなことをしてもよろしいのかしら? あなたが逃げられなくなってしまいますわ」
 琴美は立ち上がり、鬼鮫と対峙する。鬼鮫は頬を歪ませたようだったが、部屋の暗さのせいもあってよく見えなかった。
「お喋りが過ぎるな。いい加減に黙らせてやる」
「あら、それは失礼ですわね!」
 琴美は太股のベルトからナイフを抜き、鬼鮫の額に正確な狙いを据えて投げた。文字通り空を切った刃が突き刺さったのは、鬼鮫ではなく背後のドアだった。かっ、と硬い音が高く鳴って地下室に反響し、木屑が散った。
「やかましい、っつってんだろうが」
 鬼鮫はナイフに目もくれず、大股に歩み寄ってきた。図らずも挑発が成功したらしい。琴美は内心で笑みを零しつつ、鬼鮫を迎え撃つために二本目のナイフに指を掛けた。だが、それを引き抜く前に鬼鮫との距離が狭まり、琴美はすぐさま後退して壁際まで下がった。予想よりもかなり狭い地下室で、がらんどうなので遮蔽物も何もない。その間にも鬼鮫は歩み寄ってくる。しかし、これは危機でも何でもない。鬼鮫の荒々しい拳が砲弾の如く放たれると、琴美は壁に手を添えて両足を揃えて放ち、鬼鮫の胸と腹に強烈な蹴りを食らわせた。呻きを漏らして後退る鬼鮫に、琴美は追撃を仕掛けた。
「私を黙らせたければ、あなたが黙ればいいことですわ!」
 手刀を頸動脈に強く叩き付けて先程痛め付けた頸椎ごと頭蓋骨を揺さぶり、続いてだらしなく垂れた腕を捻り上げて関節を外し、そのまま背負い投げの態勢に入った。ブーツの靴底がぎゅいっと床に擦れ、華奢な腰には鬼鮫の体重が載った。次の瞬間には、大柄な男は強かにコンクリート製の床に打ち付けられていた。鈍い震動と共にうっすらと埃が舞い上がり、琴美は手を払った。
「御掃除完了ですわ」
 鬼鮫は身動きしなかった。当然だろう、あれだけの攻撃を受けて無事でいられる人間はまずいない。琴美が最初の膝蹴りで痛め付けた首は手刀で完全に腫れ上がり、頸椎がずれているらしく首の位置が変だ。見るからに重たげな打撃を放ってきた右腕も肘と肩の関節が外れておかしな方向に曲がり、半開きの右手はひくついている。外れかけたサングラスの下から覗く猛禽類を思わせる双眸は瞳孔が開き、今し方までの威圧感が損なわれていた。
「後は、始末するだけですわ」
 琴美は蹴りを繰り出した際に捲り上がりかけたスカートとペチコートを整えてから、裾を少し持ち上げ、黒いストッキングとガーターベルトに挟まれている白く豊かな太股を戒めるベルトから、二本目のナイフを抜いた。鏡のように滑らかな刃には勝利を確信して笑みを浮かべた琴美と無惨に倒された鬼鮫が映っていたが、琴美がナイフを返すと薄い光が撥ね、二人の姿は消え失せた。手のひらに収まるほど小さいが殺傷能力は確かな凶器の切っ先は、頸椎が折れた影響で気道が詰まったのか、力のない浅い呼吸を繰り返す鬼鮫の胸元に据えられた。襟元が緩みかけたワイシャツに覆われた厚い胸板と腹筋の境目を、心臓の位置を捉え、琴美は細く息を吐いてから右腕を振り下ろした。
「はっ!」
 厚い皮膚も硬い筋肉も難なく裂いたナイフは、主の意志に従って心臓を見事に貫いた。その瞬間、鬼鮫の体はびくんと跳ね、手足が痙攣した。鉄臭い匂いが迸るに連れて痙攣も収まっていき、呼吸も弱くなっていく。隙間風のように耳障りだった吐息はついに途切れ、心臓を破ったナイフをブーツのつま先で蹴り飛ばすと、喉の奥に溜まった血がごぼりと泡立ったが怒声は飛んでこなかった。ついでにサングラスを押し上げると、瞳孔も完全に開き切っていた。これで息を吹き返せる人間がいるとしたら、それは人間ではなく化け物だろう。だが、鬼鮫についてはそういった情報は入ってきていない。エプロンにもワンピースにも返り血が付いていなければいいのだが、この暗さではよく見えない。ナイフを回収した琴美は鬼鮫の衣服で血を拭い去ってから、太股に巻いたベルトに収め、ドアに刺さったナイフも抜いてベルトに収めた。後は近隣で待機している仲間と連絡を取って、この屋敷から退散すれば任務終了だ。大立ち回りで乱れたであろう髪に軽く指を通してから、ドアに手を掛けた。
「掃除されるのはお前の方だ、ドブネズミ!」
 血の泡で濁った声が襲い掛かり、琴美が振り返りかけたが反応するのが遅すぎた。折れていない左腕を力任せに突き出してきた鬼鮫は、琴美の脇腹に拳を抉り込ませた。開きかけたドアに背中から激突した琴美は、激しく咳き込んでしまい、痛みのあまりに目が潤んできたが必死に両目を見開いた。
 血にまみれた鬼鮫は、立ち上がっていた。心臓には穴が空いていたが、みぢ、と膨らんだ筋肉と血管が絡み付いて縦長の穴が塞がり、穴の奥で脈打ち始めた。それを隠すように皮膚が広がって傷口を塞ぎ、鬼鮫が左手でごきりと首を元に戻すと腫れていた首も治り、頸椎も繋がり、鬼鮫は凝りを解すような仕草で首を一回転させた。関節を全て外された右腕も一振りして強引に元に戻し、力の戻り具合を確かめるように右手を大きく開閉させてから、赤黒い血の塊を吐き捨て、血染めのネクタイを緩めた。
「そのツラだと、俺について何も知らないようだな。つまらん組織のつまらん小娘らしいよ」
「あ……あなた、一体、何なんですの……?」
 琴美は脇腹を押さえながら立ち上がると、鬼鮫は手の甲で汚れた口元を拭った。
「いちいち説明するのも面倒だが、ジーンキャリアだ。どうせ、お前はもう仲間のところには戻れないんだ、教えたってこの先どうにかなるわけじゃないからな」
「戯言を抜かさないで頂けますこと? 私はあなたを暗殺してみせますわよ」
 琴美は意地で踏ん張るが、鬼鮫の声色は静かに怒りを宿していた。
「この俺を暗殺だと? 冗談にしちゃ、趣味が悪すぎる!」
 治ったばかりの右腕が唸りを上げ、琴美に迫る。琴美は目は開いていて相手の動きも見えていたが、全身の残る痛みが反射神経の反応を許してくれなかった。今度はまともに頭に喰らい、重量に耐えきれなくなったドアが開いた途端に琴美は外に転げ出た。床に擦れた半身に無理を言わせながら起き上がると、鬼鮫が硬質な殺意を込めた目で琴美を見下ろしていた。
「最後まで付き合えよ。お前が仕掛けてきたんだろうが」


 続く