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<東京怪談ノベル(シングル)>


甘き刃は闇を屠れず 3
 
 ぞんざいに掴み上げられた襟首は、カーラーが破れて布地が千切れた。
 頭に付けていたヘッドドレスが外れて床に落ち、琴美は痺れに似た痛みが残る全身に苛立ちを感じていた。それさえなければ、今、この男の首をへし折って外してくれるものを。ジーンキャリアといえど、そうなってしまえば死ぬしかない。だが、今の琴美はただの人形も同然だった。鬼鮫は片腕だけで琴美を容易く持ち上げていて、ジーンキャリアの特徴である怪力を見せつけていた。琴美の両足は空しく宙に泳ぎ、脇腹の鈍い痛みと側頭部に残る打撃の余韻が熱を持ち、脈打つごとに新たな痛みを呼んでいた。
「なんだ、その目は」
 鬼鮫は琴美の戦意が失われない瞳に気付き、頬を引きつらせた。
「そうか、そんなに俺とやり合いたいのか!」
「すぐに傷が治るぐらいのことで、調子に乗らないで頂けますこと?」
 琴美は動揺を隠すために強気に出たが、それは余計に鬼鮫の神経を逆立てただけだった。
「それはお前の方だ!」
「やぁあっ!」
 琴美が悲鳴を上げられたのは、鬼鮫の骨張った手が襟首から外れた一瞬だけだった。ムチのように振り回された琴美は、次の瞬間には地下室に舞い戻っていた。狭い空間を飛んだのは一秒にも満たない時間であり、それが終わった時には更なる打撃が体の隅々まで揺さぶった。背中から壁に投げ付けられた琴美は、重力に従って壁からずり落ちるが、膝だけは立たせようと努力した。
「はぁ……あぁっ……」
「どうした、もうグロッキーか? 威勢だけで根性は欠片もないな」
 鬼鮫は琴美のヘッドドレスをわざとらしく踏みにじってから、地下室に戻ってきた。琴美は早く浅い呼吸をするだけで一苦労だったが、なんとか肺に空気を入れて脳に酸素を回し、震える膝を伸ばして壁伝いに立ち上がった。まだだ、まだ戦える。ダメージは受けたが、致命傷は受けていない。打撲はありとあらゆる場所にあるが、動けないほどでもない。琴美は脇腹の痛みを我慢して深呼吸すると、鬼鮫の血の匂いが襲い掛かってきた。それを力任せに飲み下し、再び身構えた。
「何を仰いますこと? こんなの、ケガの内に入りませんわ」
「減らす口が」
 鬼鮫は琴美の右肩をぐいと掴んで壁に押し付けると、壁に叩き付けられた際に痛めたのか、肩関節が痛んだ。
「うあぁっ!」
「甘っちょろいんだよ、どこもかしこも!」
 琴美のなだらかな腹部に凶器以外の何者でもない拳が埋まり、強烈な衝撃が骨を一つ残らず軋ませる。
「やぁあああっ!」
「それで終わりってことはないだろう、えぇ!?」
 呻き声も出せずにいる琴美を床に引き摺り倒し、鬼鮫はごぎりと両手の指の関節を鳴らした。冷たく薄汚れた床に倒れ込んだ琴美は、腹部を押さえて背を丸めることしか出来なかった。こんなことで攻撃を一つでも防げるとは思いがたかったが、声も出ないのだからそれ以外に術はない。鬼鮫の硬い革靴が視界の端に入ったかと思うと、琴美の痛めた方の肩が強く蹴り付けられ、悲鳴にならない悲鳴が引きつった喉の奥から漏れた。
「……っ!」
「次はどこがいい、言ってみろ」
 鬼鮫は怒りつつも、明らかに楽しんでいた。琴美の目尻から伝い落ちた涙が床に丸い染みが作り、吐息は埃を舞い上がらせるどころか吸うことすらなくなっていた。それでも、抵抗して生き延び、逆襲し、任務を果たさなければ、との思いが琴美を支えていた。痛みを誤魔化すために噛み締めすぎて唇の端が切れていたが、拭うための余力すら惜しい。琴美は息を詰めると、僅かな隙を衝いて鬼鮫の足首を握った。
「ん」
 振り払おうと足を揺らした鬼鮫に、琴美はその力を利用して膝の関節を捻った。だが、力が足りなかったのか、鬼鮫の片足は床に吸い付いたままで倒れもしなかった。ごき、と膝の関節を元に戻した鬼鮫は、琴美が握っている足を下ろした。
「そこまでして俺と戦いたいとは、お前も相当な好き者だな」
「あぐぅっ」
 ごり、と後頭部を踏み付けられて床に顔を押し付けられ、琴美は鬼鮫の足首を掴んでいた手が緩んだ。鬼鮫は靴に付いた泥でも払うように足を一振りして琴美の手を外させてから、琴美の肩を蹴って仰向けに転がした。
 乱れ髪に顔を半分隠された琴美は、無惨と言う他はなかった。カーラーが外れたことでメイド服の襟元が解け、細い首筋と鎖骨が脂汗でじっとりと湿っていた。だらしなく広がった胸元からはブラジャーに包まれた柔らかな乳房が零れていたが、白い肌には青黒い痣が散っていた。ガーターベルトはどちらも外れていて、ストッキングは所々破けて楕円型に素肌が見えていた。周囲の暗がりが濃いからか、尚更肌の白さが際立っていた。汗ばんだ太股を閉じる力すらないため、その奥に隠れていた黒いレースのショーツが露わになっていた。埃に汚れたペチコートはスカートごと捲れ上がっていて、最早意味を成していない。
「ぐ……」
 最後まで戦わなければ。琴美は髪も掻き上げずに震える腕を突っ張り、鉛と化した肉体に力を戻そうとした。痛みのないところは体のどこにもなかったが、手足は動く。頭も動く。目も動く。戦えないなんて言える状態ではない。このまま負けては、一生の汚点だ。負けることなど考えたくもないが、どうせ負けるにしても、最後の最後まで戦い抜いてからでなければ納得出来るわけがない。
「お前を差し向けてきた奴も、お前に暗殺を命じた奴も、とことん俺を馬鹿にしやがって」
 鬼鮫はどこか悠長な足取りで、最後の力を振り絞って起き上がろうとする琴美に近付いてきた。
「俺がどこの誰をどれだけ殺そうが、お前らには関係ない話だ。俺の問題だ。だが、俺を殺そうってんなら話は別だ。俺を殺そうってんなら、殺される覚悟を決めて掛かってこい。ふざけた格好をした口だけの女なんて、お呼びじゃないんだよ」
「ぎえぁっ!?」
 起き上がりかけていた琴美は、額を不意に蹴られて転がった。鬼鮫はその名の通りの凶相には馴染まない薄ら笑いを口の端に貼り付け、琴美を睨め回してきた。心から馬鹿にしているのだ。それを嫌でも感じ取らざるを得ず、琴美は鉄の味がする口中でぐっと奥歯を食い縛った。諦めるのは早すぎる、戦いはまだ終わっていない。
「……減らず口は、あなたですわ」
 琴美は壁の隅に手を当てて体を強引に立たせ、両足で立つが、よろけて膝が折れかけた。
「私はまだ、ほんの少しも負けておりませんわよ」
「そうかい」
 鬼鮫は、またも笑った。


 続く