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<東京怪談ノベル(シングル)>


甘き刃は闇を屠れず 4


 一発、二発、三発。
 その度に、世界が回るほどの目眩がする。拳を浴びたのは頭と胸と腹だったが、そのどれもが恐ろしく重たい。琴美は瞼の上に熱が滲み、目に刺激物を伴う液体が入り、目を閉じずにはいられなくなった。鬼鮫から打撃が加わるたびに、場違いな色気を零す乳房が揺れ、乱れた髪の隙間からは甘ったるい女の匂いが零れる。理性の端の残った羞恥心で襟元を掻き寄せたかったが、そんな暇があるはずもなく、琴美は懸命に拳を固めた。鬼鮫の追撃が届く前に腰を落とし、まだ自由が利く足で中段の蹴りを繰り出した。
「おっと」
 だが、鬼鮫は事もなさげに琴美の蹴りを腕で受け止め、逆にその足を掴んで捻った。
「あうっ!」
 床の上で一回転した後、琴美は放り投げられて転げた。鬼鮫は琴美が顔を上げるのを待たずに低い位置から足を振り出し、琴美の半身に喰らわせて薙ぎ払ってから、露出した太股をぐいっと踏み締めた。
「躾のなっていない足だな」
「うぐっ……」
 琴美はその足を持ち上げようと踏ん張るが、鬼鮫の体重に勝てる腕力は微塵もなかった。それどころか、鬼鮫は体重を掛けて琴美の柔らかな太股を潰しに掛かってくる。靴底が骨に当たる違和感が神経を伝って脳に届き、足を折られまいと琴美は鬼鮫の足を懸命に引き剥がそうとした。手首の骨が折れそうなほどに重量が掛かり、痛めた肩が悲鳴を上げ続け、細腕は小刻みに震えていた。
「それはそうかもしれませんわね!」
 琴美は気合いを入れるために声を上げ、もう一方の足を鬼鮫の空いている足に絡み付けた。鬼鮫の太股にかかとを引っ掛けて琴美の膝を曲げ、片足の重心を崩した状態で自分の体重を載せて体を捻り、鬼鮫のバランスを崩させた。思い掛けない攻撃を食らった鬼鮫はよろけたが、またも転びもせずに踏み止まった。素早く足を引き抜いた琴美は鬼鮫の足跡がくっきりと残る太股を気にしながらも、上体を起こした。
「これで勝ったと思わないで頂けますこと?」
 鬼鮫が不用意に近付いてきてくれれば、琴美にも僅かながら勝機が残されている。足も腰もまともに立たない状態だが、鬼鮫の体重を載せても堪えられる。地下室の中でも外でも投げ飛ばせれば、こっちのものだ。鬼鮫は琴美の太股を踏み締めた甘やかな感触が残る右足で、琴美の声を掻き消すかのように壁を力強く蹴り付けた。灰色のコンクリート製の壁にクモの巣状のヒビ割れが走り、頭上からはぱらぱらと乾いた埃が降ってきた。あの馬鹿力も、受け流してしまえば大した問題ではない。真正面から受け止めてしまったから、こうなってしまっただけだ。もっと早くに作戦を切り替えるべきだった。
 鬼鮫が、一歩、また一歩と近付いてくる。琴美が散らした涙や血の雫を無情に踏み付け、使い込まれているが厚さを保っている硬い靴底がやってくる。琴美は呼吸を細く整え、体術を繰り出す用意をしているように見せかけないために両手を垂らした。鬼鮫の血の匂いが濃くなっているように感じるのは、琴美自身が発する血の匂いと混じっているからだろう。後でシャワーでも浴びて、頭からつま先まで綺麗にしよう。傷の手当てをするのはその後でもいいはずだ。鬼鮫のスラックスを履いた足が視界に入り、それが琴美の射程範囲に入る。かと思いきや、鬼鮫はその場から動かずに長身に見合った長さの足を振り翳し、琴美を薙ぎ払った。
「うぐぁあああっ!」
 なぜ解った。琴美は露出している素肌をもろにコンクリートに引き摺りながら、何度か回った後に俯せに倒れた。
「俺を馬鹿にするのも大概にしやがれ。お前みたいにろくな武器を持たない奴は、下手に近付いたらぶん投げられるって相場は決まってんだよ。俺がどれだけの修羅場を潜ってきたかも、逐一調べてから襲ってこい。もっとも、そんな機会は二度とないが」
「う、うぁあぁ……」
 琴美はか細く呻きを零し、ぐにゃりと唇を曲げた。今まで辛うじて堪えていた涙が目頭を熱くさせ、灰色で霞んだ視界が歪んできた。それが次第に陰り始め、鬼鮫の声すらも遠くなっていく。まだダメ、まだだ、と必死に自分に言い聞かせるも、細胞の一つ一つまでが痛む体は主である琴美の意志に答えられなくなっていた。そして、ついに視界は闇に塞がれ、手足の感覚が失せ、涙の熱も遠のいた。鬼鮫は琴美を蹴り飛ばした足を下ろしてつま先を床に打ち付け、靴の位置を整えてからサングラスの位置を直し、苛立ち紛れに毒突いた。
「これからって時に、気を失いやがった」
 鬼鮫は琴美の肩を蹴って仰向けにさせ、その醜態を眺めた。黒のメイド服は、鬼鮫の怪力の前では戦闘用強化素材であろうとも用を成さず、襟元から始まって胸元から腹部までびりびりに破けていた。ブラジャーは斜めにずれて左の乳房の下半分が覗いていたが、外れてはいない。純白だった頃の影の形もなくなったエプロンはフリルが全て潰れ、メイド服と同様に破れ、腰の紐が緩んで外れかけていた。スカートとペチコートはなんとか原形を保っていたが、どちらもずり上がっていた。四本のストラップが全て壊れたガーターベルトは、ストッキングを引き上げておく力はなく、両足を覆っていた黒い布地も床との摩擦で膝まで下がっていて、太股に巻いていたベルトは緩んでナイフごと床に落ちていた。綺麗なのは両足を守るロングブーツぐらいなもので、黒く艶やかな髪も澄んだ肌色も汚れ切り、完膚無きまでの敗北を彩る化粧に相応しかった。悔しげに眉根を曲げながら閉じた目元に並ぶ驚くほど長い睫毛は涙に濡れ、半開きになっている唇は意地でも負けを認めない言葉を吐き捨てるかのような形で硬直していた。
「余計な手間と時間を掛けさせやがって。この礼は、奥で返してやる」
 鬼鮫は地下室の一番奥の壁に向かうと、手で壁をなぞっていった。明かりがないので見辛いが、触っていけば感触の異なる部分がある。手を添えて右側に十歩ほど歩くと、コンクリートの強張りとは懸け離れた柔らかな手応えが返ってきた。鬼鮫がコンクリートの壁に偽装したゴムカバーを剥がすと、暗証番号を記入するタッチパネルが現れた。液晶画面が漏らす白い光を受けながら、鬼鮫はこの屋敷の主である組織のボスから教えられた暗証番号を記入した後、ゴムカバーを元に戻した。がこ、と壁の内側で錠が外れ、モーターの唸りが足の裏を震わせて響いてきた。一番奥の壁がスライドしていくと、地下に似付かわしくない明るさが差し、蛍光灯が一列に並んだ通路が出迎えた。その先には、更なる地下室が待ち受けている。鬼鮫は荒々しく弄ばれた人形のような琴美の片足を掴むと、素肌が擦れて傷付くことに一切構わずに奥へと引き摺っていった。鬼鮫が琴美を連れて入ってから間もなく、ごと、と再び壁が動き、本来あるべき場所に填った。地下室は冷ややかで殺風景な本来あるべき姿を取り戻し、豪奢な屋敷には静寂が蘇った。
 二度と、物音はしなかった。


 終