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<東京怪談ノベル(シングル)>


潜入する自信

 一見すれば、そこは一般的な富豪の所有物にありがちな、豪奢な屋敷であった。
 無駄ともいえよう広大な敷地に佇むそれは、成金とはまた少し違う、品の良さをも窺わせる調度が居並び、同じく品の良い雰囲気を漂わせた使用人によって、隅々まで整備されている様子である。
 そんな屋敷の、一室。小部屋といえばその通りなのだが、それにしては随分と広々とした造りの部屋に、彼女、水嶋琴美は居た。
 しっとりと柔らかく、白い肌に優しく張り付いた漆黒の髪を両手で掬い、ふわり、静謐な部屋の空気にたなびかせ、琴美はベッドの上に広げた服に手を伸ばした。
 被るように着込み、体に良く合った――かすかに、窮屈な胸元のボタンを留め、短めに作られたスカートの丈を、両手で緩く引っ張り、申し訳程度に下げる。
 黒を基調とした中に、清楚な白の襟。赤いリボンで胸元を可愛らしく彩り、一度、姿見に己の姿を映す。
 豊満で肉感的な琴美の体を纏うそれは、屋敷の雰囲気に似つかわしい、気品に溢れた黒の装束。同じようにベッドに広げられたふりふりのエプロンと重ね合わせれば、その正体は自ずと見える。
 それはいわゆるメイド服というもの。富豪の屋敷で働く者ために設えられた、制服だ。
 何ゆえに琴美がそのようなものを身に付けているかと問われれば、答えは簡単なこと。仕事、の一言に尽きる。
 この屋敷には、性格には、屋敷の地下には、琴美らと敵対する組織の基地が存在しているのだ。そこを纏める鬼鮫という名の男が、今回のターゲット。
 ふわり、靡くスカートを翻しながら背を向けたベッドに、すとん、と腰を下ろした琴美の細い指先が、白のニーソックスを摘み上げ、傷一つない珠の肌にするすると履かせていく。
 怜悧な表情を湛えた琴美の脳裏には、組織から与えられた鬼鮫の情報が過ぎる。
 冷酷な殺戮者。淡々としていながらも、あまり言い顔をしていなかった上司の様子から察するに、余程非道な殺戮を繰り返してきていたのだろう。
 それが今も野放しのままで居るということは、即ち、相応の力を持つと、言うことだ。
 ぱちん、と。小気味のいい音を立て、ガーターベルトで固定すると、そのまま指でスカートをほんの少したくし上げ、柔肌に食い込んだベルトを指でなぞる。
 ふと、笑みの浮かぶ唇。それは、琴美の自信の表れだ。
「相手が、何者だろうと。私のすることは変わりませんわ」
 囁くほどの声が、琴美の昂揚を掻き立てる。彼女は、与えられたどんな情報にも、臆する感情を持ち合わせていなかった。
 それはただ純粋に、琴美自身が何者にも臆することをしない、ため。
 指先に触れる黒の装束は、形こそどこにでもある……若干特異な衣装ではあるが、今回の任務のために組織が用意した、特殊素材の戦闘服だ。
 素人の放つような生半可な攻撃は、衣服を貫くことさえありえない。軽く、強い、鎧のようなもの。
 だが、そんなものがなくとも、琴美の自身は変わらないのだ。
 そんなものがなくとも、彼女は己の腕一つで任務をこなす自信があった。過去、多くの実績を残してきた現実が、その自信をより確かなものにしている。
 相手が何者だろうと。琴美は、いつも通り、その息の根を止めることだけを考えて行動すれば、いいのだ。
「それにしても、メイド服というのは、意外と動きにくいデザインですのね」
 伸縮性に富んだ素材で作られたこの服ならば、もう少し肌に密着していた方がいい。格闘技を軸とした派手なアクションには、少し不向きだ。
 もっとも、その程度の事柄、琴美にとっては何のマイナスにもなりえないのだが。
 ロングブーツで足元を覆い、すくと立ち上がった琴美は、緩く吊り上がる口許を隠すことなく、部屋を出た。
 暗殺対象の鬼鮫は、自らが狙われていることも知らず、いつも通りに過ごしていた。
 気配を殺して身を潜め、時折メイドとして振舞いつつ、その後を辛抱強く追い続けていると、やがて鬼鮫は、人気のないを確かめるようにしながら、地下への扉を開いた。
 敵対組織の基地への入り口。確信した琴美は、己の手にグローブを嵌めると、小走りに後を追った。
 余程隠しておきたいものがあるのだろうか。長い階段を下りた先には、また、長い廊下。表の豪奢な雰囲気とは一転した殺伐と薄暗い雰囲気は、なるほど秘密基地の何相応しい。
 ここにも多くの情報が在るのだろう。思いはしたが、それは琴美の仕事ではない。彼女の仕事は、後に繋げるために、障害たる存在を排除すること、ただそれだけだ。
 やがて至った広々とした無人の地下室、にて。床を打つブーツの音に、気が付き振り返った鬼鮫の眼前に、琴美は軽い跳躍から繰り出した鋭い蹴りを放つ。
 驚愕したように一瞬だけ目を剥いて、体を逸らして交わした鬼鮫に、琴美は「あら」と小さく呟き、くるり、中空で一回転しながら地に舞い戻ると、たおやかな笑みを浮かべて鬼鮫を見つめる。
「今のをかわすなんて、なかなかやりますわね」
 くすり、と。余裕を窺わせる調子で囁かれた台詞は、鬼鮫でなくとも、対峙した者の怒りを煽るには十分すぎるもので。
 ひくりと頬を引き攣らせた鬼鮫は、ふぅ、と小さく己を諌めるような吐息を零すと、細めた瞳で琴美を見据えた。
「お前、何者だ」
 当然の問いかけに、琴美は優雅な姿勢で立ち直し、両手を太ももの前で重ね合わせて、丁寧な礼をした。
 殺伐とした、薄暗い空気の中でありながら、その振る舞いはさながら可憐に咲く花の如く映え、たちまちの内に彼女の周囲を華やかに変える。
「メイドでございますわ、ご主人様」
 静寂の中に響く、涼やかな声。
 噛みあわない会話に、鬼鮫は今度こそ激昂して、戦闘態勢へと移った――。