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<東京怪談ノベル(シングル)>


悠々たる

 静かで、殺風景な地下室にて。対峙するは男と女。
 男は表情に明確な怒りを湛え、女を睨みつけている。
 対する女は、たっぷりの余裕を笑みに換え、たおやかな仕草で己の髪を梳く。指先から零れる漆黒の髪の流れに合わせ、腰にあてがわれていた手が、するすると太ももを滑り、丈の短いスカートの裾に触れた。
 柔らかなフリルを微かにたくし上げる所作は、誘惑するかのようにも見える。女の――琴美の持つ肉感的な体躯と併せれば、なお。
 だが、対する男、鬼鮫は、ちらと視線をやることさえせず、琴美の挙動を警戒している風な視線を投げつけるばかり。
 くすり、と、微笑んだ桃色の唇を薄く開き、囀るような声で、琴美は紡ぐ。
「恨みはありませんが、ここで、死んでいただきますわ」
 きり、と引き締めた眼差しで射抜くや、琴美は強く地を蹴った。ブーツの踵が乾いた音を一つ立て、先ほど奇襲に見舞った強烈な蹴りと同等、それ以上の威力を持った蹴りを放つ。
 腕を盾のように翳し、真正面から受け止めた鬼鮫の表情が唸るように歪められるのを見とめ、くるり、フリルを翻しながら体を旋回させた琴美は、対の足をも繰り出し、鬼鮫の首筋に絡める。
「一思いに、へし折って差し上げますわ」
「ちっ……舐めんじゃねぇぞ、ガキが!」
 艶やかな白い肌に首の芯を捕らえさせまいと、鬼鮫は一度防いだ琴美の足を掴み、放り投げるようにして引き剥がす。
 そのまま、中空に投げ出された琴美の無防備な背に向けて鋭い突きを放つが、柳に触れるかのように、するり、それは交わされた。
 すたんっ、たん、たん――。間合いを推し量るように一旦距離を置いた琴美の口許に浮かぶのは、相変わらずの、笑み。
 悠々としたそれは、彼女の自信に併せて深まっていった。
(たいしたこともありませんわね)
 組織から与えられた情報は、暗殺対象たる鬼鮫の名前と容姿、残虐と称される性格のみ。どのような戦闘を行い、どのような能力を持つとは聞いていなかったが、今の数手で把握できたようなもの。
 なるほど今まで数多くの殺戮を犯しながら今日まで生き延びてきただけはある。強い腕力、攻撃に対する反射の高さも侮れはしない。一撃食らえば、大きなダメージは避けられまい。
 だが、自分の敵ではない。
 にぃ、と、ほんの微かに鋭利さを孕んだ笑み。それを潜めるように唇を引き結んで、琴美は再び、常人には捉えられようもない速度で間合いを詰めた。
「馬鹿の一つ覚えみてぇに突っ込んできてんじゃねぇぞ!」
 怒りか、憤りか。声を荒げた鬼鮫は、カウンターの構えを取るが、不意に何かを気取ったように目を剥き、構えた腕を、自身を庇う形に切り替えた。
 ひゅん――!
 刹那、空気を裂いたのは、小型のナイフ。
 翳した腕に深々と突き刺さるそれは、惜しげもなく晒された琴美の太腿に巻きつけられたベルトに提げられているのと同じもの。
 きゅ、と肌に食い込むベルトを確かめるように指でなぞり、その柔らかさとはあまりに不釣合いな鋭どさを持つナイフを数本引き抜くと、琴美は次々に放つ。
「ぐっ……」
 それは真っ直ぐに、さながら吸い込まれるかのように鬼鮫へと至り、彼の腕や足の行動を妨げ、胴を抉ってダメージを与えた。
 潜入からの任務で、銃火器類を持ち込めなかったための武器ではあったが、元来忍者の末裔としてくないを主に扱う琴美にとって、軽く手に納まるその刃は、余程手に馴染む代物だった。
「がら空きでしてよ」
 整った弧を描き、横に薙がれたブーツが、鬼鮫の足を払う。立て続けの投擲に意識をやられていた鬼鮫は、ぐらりと傾ぎ、舌打ちをしながらも、腕に刺さったナイフを引き抜いて振り上げる。
 美しい黒髪を掠めて振り抜かれたそれを手刀で弾き落とし、無防備な腹に膝をめり込ませると、そのまま体重をかけ、屈強な鬼鮫の体躯を床に押し倒した。
 跨るような姿勢で、鬼鮫の肘を両足で制し、琴美は頭上に高く掲げたナイフを煌かせる。
 一瞬、後に。軟く、あるいは酷く硬いものを抉る感触が指先に伝わり、引き絞ったような呻きが短く迸るや、鬼鮫は喉に突き刺されたナイフに一度体を跳ねさせてから、力を抜いた。
 急所への一撃は、琴美の常勝の手。狙い済ました一撃をしくじったことはない。
 ふぅ、と、昂揚を抑えるような吐息を零し、琴美は鬼鮫の上から離れ、落ちていたナイフを拾い上げた。
「暗殺なんて、あっけないものですわね」
 刃先に滲んだ血を指先で拭い、ベルトに戻しながら、琴美は小さく囁いた。
 人の命の儚さを憂うような、己の仕事の無常さを嘆くような、どことなく寂しげな呟きだが、そこに情はない。
 彼女にあるものは、自信。今まで全ての任務を完璧にこなし、一つの苦労を覚えることもしなかった己の能力に対する絶対的な信頼。
 即ち――過信。

 どす――。

 何かを、突き刺すのに良く似た……それほどの、鋭利な感触が、背中に伝わった。
 けれどそれは真実何かを突き刺したものではなく。背の一端から拡散した衝撃は、何かを、叩きつける、それだった。
「え……」
 動揺は一瞬。次の瞬間には、派手に吹き飛んだ体が地下室の良く判らない備品に突っ込んでいた。
「あ…がは、はっ……」
 息が詰まる。悲鳴を上げることもできないほどに。
 ずるずると這い出すように備品の山から逃れた琴美は、喉の奥からこみ上げるような感覚のまま、激しく咳き込んだ。
 自分の中から吐き出された血の滲む唇。鮮烈なほどの赤は、清純な少女の薄桃色だった唇を、妖艶に塗り替える。
 皮肉、にも。琴美の持つ生来の美貌を引き立てるかのように。
 何が起きたのか認識できないまま、くず折れ蹲った琴美の前に立ったのは、己の喉からナイフを引き抜き、こきこきと慣らすように音を立てた、鬼鮫。
 刃物で深く貫かれたはずのそこは、驚愕に目を剥いた琴美が瞬きをするほどの一瞬の間に、何事もなかったかのように塞がっていた。