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<東京怪談ノベル(シングル)>


届かぬ力

 彼女は豪奢な屋敷のメイドとして潜入していた。その裏に存在する、敵対勢力の打倒のために。
 自分の能力を持ってすれば、特別何の苦労も弊害も無く全てが万事上手く終わるはずだった。
 はず、だった。
 ぐしゃり、と。何かがひしゃげるような音。それは既に何度と無く聞きとめた音であり、己の肉体から発せられているものだった。
「くあぁっ!」
 迸る悲鳴は、少し、掠れて聞こえる。打撃を受ける度に、琴美の体はその衝撃のままに吹き飛び、壁や床に叩きつけられる。
 美しく、さらりと靡いてはほの甘い香りを漂わせていた黒髪は、血や汗でぐしゃぐしゃに汚れ、振り乱されるばかり。
 伏しては立ち上がるべく床を引っ掻く爪は、マニキュアなど塗らずともきらきらと澄んだ輝きを放っていたはずなのに。今では一様に罅割れ、あるいは欠け飛び、血色の装飾が施されている。
 佇むだけで見るものを魅了する程に豊満で肉感的な肢体は、立て続けの打撃に肌を裂かれ、どす黒く色を変えながら、見る影もないほどに破壊されていく。
 圧倒的だった。琴美は、暗殺対称だったはずの鬼鮫に、特別何の苦労も弊害も無く仕留められるはずだった男に、殆ど殺されかけていた。
「く、うう、うぅ……」
 最後に言葉らしいものを紡いだのはいつだっただろう。呻くことしかできないほどに消耗した体力で、それでも立ち上がろうとする姿は、情に溢れたものならば哀れに泣くだろうし、激情を宿すものならば感動に胸を打ち震わせただろう。
 だが、鬼鮫にはそのいずれもが、ない。
 むしろ楽しんでいるかのように見えるほど容赦なく、やっとの思いで立ち上がった琴美を、その度に再び叩き伏せていた。
 さして広さを持たない地下室。地上の屋敷とは一転して簡素な造りのそこは、雑多な備品が乱雑に置かれただけの、殺風景な場所だった。
 けれど今では。備品はことごとく崩れ、あるいは破損し、瓦礫の山と化している。それを取り囲む壁は、床は、赤い壁紙と絨毯をあしらったかのように、鮮烈なほどに赤い血で染め上げられていた。
 殺風景なだけの地下室は、いつの間にか、拷問部屋などの雰囲気に良く似た薄気味悪さをも有していた。
 その空気を作り出している、多大なまでの鮮やかな……あるいは、既に色を変えた、血。
 それを吐き出し続ける仕打ちを受けながらも、琴美は抵抗する気概だけは失わなかった。
 体を穿つ衝撃に対する、反射的に近い、がむしゃらな腕。ただ振られただけの腕は、鬼鮫の体に届きこそすれ、攻撃とはまるでかけ離れていた。
 例えるなら縋りつくような。そんな、無様な姿だった。
 余裕たっぷりに、全てを完璧にこなすことを心情としてきた琴美が気づけば、生きることを放棄したいほどのレベルだ。
 己を省みているほどの余裕の無さは、ある、意味で。琴美にとっては救いであった。
 もっとも、心が救われたからと言って、何が変わるわけでもないのだけれど。
「おいおい……笑わせんなよ」
 言葉とは裏腹に、冷め切った無表情をかすかに歪め、鬼鮫は琴美の髪を掴みながら、腹を膝で蹴り上げた。
 ふわりと、一瞬だけ琴美の体が浮き上がり、がくん、と膝から崩れ、掴まれた髪からぶら下がるように、だらりと項垂れる。
 聞こえてくるのは空気が抜けるような音だけ。悲鳴すらも、途切れ途切れにしか聞こえなくなっていたが、鬼鮫はその現実に、ようやく静かになったかと嘆息するだけだ。
 鬼鮫とて、一方的な仕打ちに愉悦を覚える性質ではない。甚振るくらいなら一思いに殺してしまうことの方が多い。
 琴美があまりにも長く、理不尽に嬲られているのは、戦う者として鍛え上げられた肉体と、決して屈しようとはしない精神のせいだった。
 普段ならば窮地を救うだろうそれらは、今、この状況下では皮肉にも琴美を苦しめる材料でしかなかった。
 音を紡がず、空気ばかりを吐き出す唇は、たどたどしくも、しきりに繰り返す。
 負けない。
 私は負けない。
 とうに、負けているのだと。理解できていれば、苦しまずにすんだのに――。
「何とか言ったらどうなんだ」
 髪は、未だ掴んだまま。項垂れた体を吊るし上げるように持ち上げ、既に空ろな瞳を覗き込む。
 疲弊し、濁りきった瞳の中には、未だ、芯があった。
 呆れたものだ。この女は未だに自分を殺す気でいる。
 それが、無性に腹立たしかった。
 無造作に振り上げた拳で、殴る。同じように振り上げた足で、蹴る。
 抵抗一つ出来ないこと実の無力を知らしめるように、淡々と、同じような攻撃を続ける鬼鮫。
 繰り返す最中、ふと、ネットに入れてぶら下げたサッカーボールが、丁度これと良く似ていると、思案しながら。
 そうしている内に、やがて、抵抗どころか反応のひとつも返って来なくなった。覗き込んだ瞳は、焦点が合っていない。空ろに開かれているが、意識がそこにないことは明白だった。
 それでも、避けて血色の紅が滲んだ唇は、か細い、本当にささやかな吐息を零し続けている。
 ここまでして生きている者もまた、珍しい。
 なるほど、この娘ならば、自分を殺せると踏んだ者の考えは、あながち間違ってもいない。
 ――賞賛してやろう。
 意識を失った琴美の髪を手放し、ごとり、人形が倒れこむような音を立てて床に伏すのを見届けると、今度は投げ出された足を掴んで、ずるずる、引きずり始めた。
 この女を調べれば、きっと判るだろう。一体何者が、何の目的で、自分を暗殺しようなどと馬鹿げたことを目論んだのか。
 判ったならば、その浅慮な無能者の元へ赴き、この女を返してやろう。
 そうしてそのまま、皆殺しだ。
「ったく、面倒事が増えたな……」
 言葉とは、裏腹に。どこか愉悦にも似た表情がそこにはあった。憎悪にさえ摩り替わる怒りが、そうさせているのだろう。
 そんな鬼鮫の言葉も表情も、既に窺い知ることさえ出来ない琴美は、引きずられるまま、施設の奥へと消えていく。
 ずる、ずる、ずる――。
 足音に併せるかのように、琴美の全身から零れた血が、薄暗い廊下に摩り付けられる。
 何かを知らしめる印のようなそれを、けれど、誰一人、見つけることは叶わない。
 琴美の安否は誰にも悟れぬまま、ただ深い闇と静寂が、対比するほど豪奢な屋敷を覆っていた。