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<東京怪談ノベル(シングル)>


闇を泳ぐサカナ 3

鬼鮫はまったく不機嫌に瑞科を見下ろしていた。
「どこの組織だ。……IO2か?」
 鬼鮫は自分が暗殺の対象にされたことに気づき、それに対する腹立ちを瑞科に向けていた。
自身が所属するIO2が、近日自分の取扱いをもてあまし気味なことにも気づいていたのだ。
「……わたくしはそのような組織に仕えたことはございませんわ」
 瑞科は、立て続けに与えられたダメージと屈辱からなんとか頭を持ち上げて、薄く笑った。
無表情なまま、鬼鮫が瑞科との距離を一歩縮める。
「だろうな。おまえは俺の能力を知らなかった。いくらIO2のクソ共でもそんな抜けたことはしねぇ」
 ひどくゆっくりとした鬼鮫の動作は、優劣の逆転した状態で瑞科に強い精神的負荷をかける。
体のダメージはこの際忘れるしかない。
(骨まではまだイっていませんわね…)
自分の体を冷静に診断して、瑞科は任務に意識を引き戻した。
「わたくしが仕えるのは神のみですわっ」
 まるで自由な動作で、瑞科は跳ねるように起き上がり、剣を正面の鬼鮫に突き立てた。
鬼鮫は、眉一つ動かさず、自分の左腕をその剣の前にかざす。
鈍い感触が瑞科に伝わり、切れ味の鋭い諸刃の剣は鬼鮫の左腕を貫通し、その体に届く前でとまった。
 瑞科は、二撃目のために剣を引き抜こうとした。が、叶わなかった。左腕を犠牲に鬼鮫は瑞科の剣を逆にとらえたのだ。貫通した剣の痛みを全く気にしていないような鬼鮫はそのまま左腕に強く力をこめて、その筋肉で瑞科の剣の自由を奪ってしまった。
 剣は瑞科の力で引いてもびくとも動かない。
そして、その次の一瞬までもそれを続けていようものなら鬼鮫の強脚が瑞科を狙うのが見えていた。
ちっ、と瑞科はめったにしない舌打ちで思わず感情をあらわにする。
(しくじりましたわ)
 剣の柄から手を放し、風に流れるように優雅な動きで背後に数歩退いた。
自分の武器をなくしてしまっただけではなく、剣と刀という形状の違いはあれど、相手のもっとも得意とする獲物を与えることになってしまった。
 瑞科はこの任務の達成が非常に困難になってしまったことに気付いた。が、逃げるという選択肢は持っていない。
立ち向かうしかないのだ。
『神業』とまで謳われた鬼鮫の剣技に対抗するための有効な手立てがあるわけではないが、瑞科にはこれまでの任務達成と自身の能力にたいする誇りがある。
 腕に刺さった剣を右手でやすやすと引き抜いている鬼鮫を見ながら、瑞科はごくりと喉をならした。ひどく、口内が乾いていた。

 ひゅ、と鬼鮫が刀を振るった。
 その剣先の動きを目でとらえることができなかった瑞科は、純白のケープがはらりと肩から落ちても瞬間何が起こったのか気付けなかった。その下の修道服にはなんのダメージもない。が、落ちたケープはすっぱりと刃で縦に切られている。
ぞくり、と瑞科の背中を初めて恐怖が伝った。
 これまでの瑞科を支えていた誇りと自信が夢の中の霧のように跡形もなく散らされる。
「おまえは、俺を殺しに来たんだったか?」
 月の光に照らし出された鬼鮫の表情は、冷たく、固く、そして残忍さを露わにしたまさに『鬼』の形相であった。
カチャン、と鬼鮫は持っていた剣を地面に落した。何気ない動きで右足がその剣を背後の闇にむかって蹴る。
瑞科が回収することも困難であるが、鬼鮫がその剣を使う意思がないということも理解した。
「なぜ…」
 口をついて出た問いに、鬼鮫はニヤリと笑った。
「いらねぇだろう。しかも、面白くねぇ」
 瑞科をなぶるつもりなのだ、と。
「…見くびると後悔しますわよ」
 瑞科は内股から残っていた短剣を引き抜くと鬼鮫の心臓をめがけて投げつける。同時にそれを追うように自身も鬼鮫に向かった。だが、短剣は鬼鮫の手刀で振り払われ、繰り出した瑞科の蹴りはその鬼鮫の手に捉えられた。
ブーツの上からでも掴まれた足首が締まるほどの強さで掴まれる。瑞科はその固定を逆手にとり左足をも蹴りあげたがその瞬間につかまっていた脚を剛腕に振られ、全身が宙に投げ出された。
「あ…っ」
反射的に受け身をとって膝をつき、体勢を整えようとするが、鬼鮫はそれを待たずに瑞科に向けて大きく素早い蹴りを放った。
両腕を上げて防御をする。
ガツ、とぶつかりあった衝撃は瑞科には受け止めきれず防御の姿勢のまま地面に叩きつけられ、ヴェールが地面を擦った。
広がったスカートの裾を、鬼鮫が踏みつける。もう片足を瑞科の腹部に遠慮なく乗せて、鬼鮫は純白のヴェールを乱暴に引き剥いだ。
 長い髪がさらりと流れる。月の光の下で瑞科の茶色の髪はより金に近く輝いている。尚も強い力を湛えた青い瞳はまっすぐに鬼鮫を見ていた。
「見くびってはいねぇ……力量の差は現実だろぅが。この業界も人手不足か?なぁ…このきれいなお顔を血まみれにするより、この体を使って他にすることがあるんじゃねぇのか」
 裾を抑えられ、体を踏みつけられた状態で間近から見下ろされる。相手の言葉の意味するところを正確に読み取って瑞科は顔に朱を走らせた。屈辱であり、怒りでもある。
瑞科は手首をひねって軽い動作でグローブの内側に仕込んだ鉄の爪を引きだす。それで鬼鮫の顔面と体に乗った足を狙った。
「おっと」
 ひょい、と鬼鮫はその爪をかわす。左足は瑞科のスカートを踏みつけたままだ。
 そのスカートの裾を瑞科は自分で切り裂いて立ちあがった。
しかし、瑞科がほっとする間を鬼鮫は与える気がない。立ち上がってもまだ足元の定まらない瑞科に打撃を繰り出す。
瑞科の防御は軽く、またもともとの素早さが失われつつあるために避けることもできず、鬼鮫の連続した打撃に瑞科の体力は確実に削られていく。
何度目かの大きく左の脇を攻めてきたこぶしを防げず、瑞科は体を捩って悲鳴を上げた。
「ぁあっ」
 次の瞬間には防御をなくした体の反対側から蹴り倒される。
 白い頬が地面をすり、口の中には血と土の味が充満した。
「はっ…んっ」
意識が体を起こそうとしても、きしむ体がそれを許さない。
打たれたり、打ちつけられたりした痛みはもはや全身に及び、体中が心臓になったかのように全身が脈打っている。
「惨めなもんだな。おじょうさんよ」
じゃり、と近寄ってくる鬼鮫の気配を感じても顔を持ち上げるのが精いっぱいだ。

 その殺意と怒り。

全身にそれを浴びて、瑞科の体は芯まで冷え切っていた。

細い月はそれでも静かに世界を照らしていた。