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<東京怪談ノベル(シングル)>


清き十字架は剣と成らず 3
 
 自分の足で立ち上がれていたのは、ほんの数秒だけだった。
 白鳥・瑞科は、頭蓋骨を激しく揺さぶられて視界が乱れた。ヴェールが歪んでその下でまとめていた髪がほつれたが、そんなことを気にしている余裕は欠片も残っていなかった。続いて胸を突かれ、腹を殴られ、足を払われた。あっという間に壁際まで追い詰められた瑞科は、腫れぼったい目を上げて状況の確認に努めた。自身の血と瑞科の血で汚れたグローブを見せつけるように、鬼鮫は拳を掲げていた。剣は辛うじて手中にあったが、あんなに凄まじい打撃を喰らい続ければ、握力も持たなくなってしまうだろう。
「たぁっ!」
 一撃でも喰らわせられれば、と、瑞科は思い切って剣を突き出すが、鬼鮫はその突きを難なく回避したどころか、瑞科の腕を掴んできた。瑞科の腕には筋肉などないかのように骨を握り締め、肘関節を強引にねじり上げながら剣を奪い取った。
「このまま折るのは簡単だが、それじゃつまらんな」
「や、やぁっ」
 鬼鮫に高々と引っ張り上げられ、瑞科は片足が浮いてしまった。その浮いた足で反撃しようとばたつかせるが、鬼鮫は腕を伸ばして瑞科の足が届かない距離まで広げていた。強く握られすぎて鬱血し始めたのか、次第に右手首から先の感覚が鈍っていった。鬼鮫の肩が上がると、不意に右腕の凄まじい圧迫感が解けた。かと思った次の瞬間、瑞科の体は天井目掛けて投げ飛ばされていた。ほんの僅かな空中遊泳の後、待ち構えていた鬼鮫が拳を真下から突き上げた。暴力そのものの拳は、コルセットのカーボンファイバーをも貫いてしまい、恐ろしく重たい打撃が瑞科に全て襲い掛かった。浮いていたために運動エネルギーを逃す術はなく、そのためにもう一度浮かび上がってしまった。鈍角の弧を描いて落下した瑞科は階段に突っ込み、数段転げ落ちた。あらゆる部分が痛みすぎて、どこが一番ひどいのかすら解りかねた。せめて息をしようと咳き込んでいると、鬼鮫が大股に階段を昇ってきた。
「おい」
「こんなことで、わたくしが負けるとでも思いまして?」
 瑞科がせめてもの強がりを言うと、鬼鮫はほとんど表情を変えずに瑞科を引き摺り下ろした。
「殺してやりたいところだが、捕まえた方が他の奴らに喜ばれるんでな。殺しはしない、が、手加減もしない」
「いやぁああああっ!」
 階段に背中を引き摺って落ちた瑞科は、ごどん、と最後に頭から石造りの床に突っ込んだ。ヴェールとケープに生温い染みがじわりと広がる感触があり、頭のどこかを切ったのだと悟った。鬼鮫の姿は階段の中程にあり、近付いてくるまでにはまだ少しの間がある。瑞科は手探りで剣を掴み、鬼鮫に電撃を放とうと精神を集中させた。だが、力が高まる余地は与えられなかった。階段から飛び降りてきた鬼鮫の膝が、まともに瑞科の顔に入ったからだった。
「うぁあああああっ!」
 背中と切ったばかりの後頭部を削るように倒れ込んだ瑞科は、鬼鮫によって剣を毟り取られて遠くに投げ捨てられた。ぼやける視界を上げると、鬼鮫の輪郭は見えたが、細部まではよく見えなくなっていた。脳震盪と負傷によるものだとは解っているが、不安に駆られる。鼻は折れていないようだったが、鼻血が止まらずにだくだくと溢れ、純白のケープが赤黒く染まっていった。
「そら、どうした!」
 顔を守ろうとした手を鬼鮫の革靴に蹴られ、薙ぎ払われる。
「んぁあっ!」
「負ける気がないんなら、もう少し踏ん張って見せろよ!」
 鬼鮫は瑞科の胸倉を掴んで無理矢理立たせると、散々痛め付けてきた腹部にもう一度膝蹴りを打ち込んだ。
「ぐぇあうっ!」
 なんてひどい声だろう、と自嘲しながら、瑞科は歯を食い縛った。鬼鮫の手を振り払うべく手刀を打ち込もうとすると、鬼鮫はそれが届く前に瑞科の胸倉から手を外して後退した。ようやく自由を取り戻した瑞科は、これまでの仕返しだと言わんばかりに鬼鮫目掛けて拳を繰り出した。力の入らない足腰を出来る限り据えて、伸ばすたびに針が突き刺さるように筋が痛む腕を思い切り伸ばして、足を出来る限り高く上げて、鬼鮫に一撃でも喰らわせようと死に物狂いで立ち回った。だが、いずれの攻撃も鬼鮫には入らず、それどころか鬼鮫は児戯を相手にしているかのようににやけている。瑞科が必死になればなるほど、鬼鮫の嘲笑は濃さを増していくばかりだった。瑞科自身も、下手くそなダンスを踊っているようだと頭のどこかで自分を客観視していた。人道を外れた殺人鬼と、それを倒すべく差し向けられた聖職者。ちぐはぐなダンスはいつまでも続くかと思われたが、瑞科が振り翳した拳の端が掠ると鬼鮫の表情が曇った。掠ったは顔でも傷口でもなくコートの裾だったが、鬼鮫の機嫌を大いに損ねたようだった。鬼鮫は踊り狂っていた瑞科の華奢な肩を骨張った手で掴むと、迷いなく膝蹴りを叩き込んだ。
「……っ!」
 腰をくの字に折り曲げて呻いた瑞科は、胸倉を掴む鬼鮫の手に爪を立てる余力すら奪われた。肺に空気を入れることですらも痛みが生じ、睨み付けるために必要な顔の筋肉も腫れぼったいせいで上手く動かせなかった。鬼鮫は瑞科を素っ気なく投げ捨てると、瑞科は右肩を擦りながら床に落ち、仰向けになってかすかな呼吸を繰り返した。
 神に仕える者だけが身に付けることを許されたヴェールは、穢し尽くされていた。瑞科の血と砂と土がまだらに布地を染め上げ、ケープも同様だった。襟元が外れかけたケープの下からは、鬼鮫の怪力の前では最新技術も役に立たないことを示すかのように破れたシスター服が垣間見えていた。胸元を丸く押し上げていた双丘が零れ、深い谷間が数滴の血に汚れていた。コルセットはカーボンファイバーが破れてただの布以下と化していたが、腰回りのしなやかな曲線は守り通していた。スリットは一つではなくなり、ニーソックスと同様にびりびりに破けており、その下の肌にはくまなく傷が付いていた。ロングブーツも傷だらけで、きっちりと結んだ紐が解けかけていた。長い睫毛に縁取られた虚ろな目は独りでに滲んできた涙でぼやけ、焦点となる鬼鮫を探していたが、すぐには定まらなかった。艶やかな唇の間から零れる舌先は言葉を発する形になっていたが、喉から空気が押し出されないので動かなかった。
 鬼鮫は瑞科の今にも途切れそうな呼吸音を聞き取ってから、汚らしそうにロングコートの裾を払った。
「早く起きろよ。お前が自由を味わえるのは、ここまでなんだからな」


 続く