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<東京怪談ノベル(シングル)>


清き十字架は剣と成らず 4

 だったら、その後はどうなるのだろう。
 白鳥・瑞科は、想像を巡らせるほどの気力もなくなっていた。早く立ち上がり、戦って、いつものように任務を果たさなければ。今までだってそうしてきた、だから、これからもそう出来る。出来ないわけがない。だが、全身は隅々まで痛みを流し込まれていて、何度も頭を殴られたからか、視界もぼやけていて音も心なしか遠くなっている。霞掛かった視界に入っている城の廃墟の天井は高く、遠く、後頭部の傷口から流れ出る血はヴェールが吸い取りきれずに石造りの床に雫を散らしていた。倒す相手を怖いと思ったのは、これが初めてだ。これまでの戦いでは、危機感なんて抱くほどの相手がいなかったからだ。だが、今にして思えばそれは幸運なことだったのだ。屈するわけにはいかない、立ち上がらなければ任務が、と、瑞科は己を奮い立たせようとするが、武器らしい武器は手元に何一つ残っていない。いや、まだ武器はある。厳しい訓練と数々の任務を乗り越えてきた、この肉体だ。肋骨は何本かやられているかもしれないが、手足はどちらも骨が繋がっている。筋肉も、かなり無理を言わせれば動かないこともない。
「お?」
 鬼鮫が、ほんの少し期待を覗かせた。瑞科は腰のベルトに残っていた剣の鞘を抜き、がしゅん、と石造りの床に突き立てた。鞘を握る手も震えていたが、握力は完全に失われたわけではない。何度か瞬きをして視界を晴らしてから、瑞科は素早く目を配らせた。壁際に投げられた剣までの距離を測り、今の自分が出せる脚力と比較する。大丈夫、体を思い切り伸ばせば、剣まで手が届くはずだ。剣さえ戻れば魔法も放てるようになる、勝ち目はまだ残っている。瑞科は鞘を使って体を前方に押し出すと、両足を思い切り伸ばして床とほぼ並行に跳躍した。視界の隅では鬼鮫が引き摺り倒そうと手を伸ばしているのが見えたが、その手がヴェールを掴むよりも早く、瑞科は壁際に到達した。ブーツの膝を擦りながら着地した瑞科は、剣の柄を支えにして立ち上がった。
「立てもしないのに、よくやるもんだ」
 鬼鮫は半笑いで感心し、瑞科の攻撃を待ち侘びていた。その余裕に満ちた態度が苛立ちを誘い、瑞科は唇を引き締めた。だが、ここで焦ってはいけない。確実に打撃を与え、ジーンキャリアと言えども膝を付くような、致命的な状態にまで追い詰めなければ。剣の切っ先の如く精神を尖らせて力を高ぶらせていくが、刃が電撃の光を纏う前に、鬼鮫は接近してきた。すぐさま瑞科は斬撃に切り替えようとしたが、鬼鮫の方が数段素早かった。鬼鮫は瑞科の手首ごと剣を踏み付け、ごぎ、と靴底で細い骨をにじった。
「あうっ!」
 右手ごと倒された瑞科からは剣が離れ、程なくして雷撃の光も消え失せた。もう少しで、というところまで高ぶらせていた魔法は集中力が途切れたために成せず、電流の残滓がぴりぴりと空気中の埃をくすぐっているだけだった。踏み締められていた右手首が、突然、ひっくり返された。鬼鮫は瑞科の右腕に自身の足を絡めて仰向けに倒してから、主の手を離れた剣を拾い上げた。
「お前と同じで、この剣はなまくらだな」
 鬼鮫の太い指が刃を挟み、特殊合金の柔軟性を見せつけるかのように弓形に曲げていった。緩やかなカーブを描いていた銀色の刃は、切っ先が柄に届く前に限界を迎え、真っ二つに折れた。細かな金属片が星屑のように散り、ベルの音にも似た澄んだ破砕音が消えると、鬼鮫は折れた剣を放り出した。瑞科は無意識に見開いた目で折れた剣を凝視していたが、震えが止まらなくなった。剣が折れてしまったら、最早以前のような力はない。武器としても、魔法を操る道具としても、価値を失っている。これまで瑞科が完璧に戦ってこられたのは、相棒とも言える剣が傍に在ったからだ。魔法を操れるようになったのも、剣が在ってこそだ。鬼鮫に叩きのめされても、立ち上がれると信じていたのは剣が在ったからだ。なのに、その剣は、今や単なる金属片に過ぎなくなった。全身の痛みを忘れるほどの虚脱感に襲われた瑞科が、折れた剣を拾おうと手を差し伸べると、その手の上には鬼鮫の足が降ってきた。
「どうした、もうグロッキーか?」
 鬼鮫がこれ見よがしに足首を捻ると、瑞科は苦痛のあまりに悲鳴にならない悲鳴を漏らした。
「神頼みでもしてみたらどうだ」
 神は頼るものではない、信じるものだ。僅かに残ったプライドで、瑞科は首を横に振った。剣を折られ、勝ち目はなくなってしまった。だが、せめてこの場を生き延びなければ。
「やめて下さいまし。わたくしの、負けですわぁ。ですから、もう、御許しになってぇ……」
 瑞科はきちんと喋ったつもりでいたが、凄まじい攻撃を受け続けたために呂律が回っていなかった。
「生憎、俺は神様じゃないんでな!」
 瑞科の切れ切れの言葉を掻き消すように、鬼鮫の怒声が轟いた。力なく震える喉に体重を載せた掌底が綺麗に入り、瑞科は頭を仰け反らせて吹き飛んだ。城全体を揺らがすほどの勢いで背中から壁に激突し、肺の中の空気を全て吐いた後、ずるりと座り込んだ。喉が詰まって一時的に窒息した上に頸椎から脳を揺さぶられた瑞科は、ついに気を失ってその場に倒れ伏した。
 腰を半端に捻って倒れた瑞科は、細切れの布を纏う人形に似ていた。血を吸い込んで赤黒く固まり始めていたヴェールは破れ、ケープは外れ、同様に元の色が思い出しづらいほどに汚れていた。コルセットはホックが壊れて外れ、紐もぶつ切りになっている。既に破れていたシスター服の胸元は大きく広がり、乳房だけでなく、赤と青が入り混じる痣が付いた腹部が露わになっている。スリットよりも遙かに派手に切れ目が入っているスカートは捲れ上がり、ニーソックスの太股のバインドも切れ、何度となく床に擦れた素肌が赤く腫れていた。靴紐が切れたブーツも脱げ掛けていて、膝から下だけが汚れが薄かったが、ブーツ自体にもいくつか破れ目が出来ていた。艶やかな茶色のロングヘアは嵐の後の如く乱され、唇に被さっていた。グローブに覆われた指先は、折られた剣を求めて曲がっていた。
「もう寝ちまいやがった」
 鬼鮫は瑞科の襟を掴んで顔を上げさせるが、瑞科は呻きもしなかった。
「神様ってやつは始末が悪いな。適当なことを宣って半端な奴を煽るくせに、自分じゃ何もしねぇんだからよ」
 ごつん、ごつん、と瑞科の肩や足が石造りの床の凹凸に当たるが、鬼鮫はそれを一切気にせずに外を目指した。強化素材の戦闘服だけあって、どれだけ引っ張られても破れることはなく、瑞科を解放してはくれなかった。鬼鮫は戦闘による高ぶりと苛立ちが収まりきらずに毒突きながら、身動き一つしなくなった瑞科をいずこへと運び去った。
 城の廃墟に残されたのは、一振りの折れた剣だけだった。


 終