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<東京怪談ノベル(シングル)>


純潔のエレジー【2】


 その廃墟は工業地帯にあり、周囲を工場で囲まれていた。
 前を走る国道では大型貨物自動車ばかりが目に付き、それらが放つ轟音は全ての音を飲み込んでいく。この廃墟で誰かが戦っていても、そして悲鳴を上げていても――恐らく誰も気付かないのではないだろうか。
「戦いの場に相応しいかもしれませんわね」
 言いながら、瑞科は手首まである革製のグローブを軽く引っ張り、その感触を確かめた。細かな装飾が指先に心地よい。その下にある白い布製のロンググローブが微かに二の腕を擦る。
 これからこの白き布に、鬼鮫の血で新たな装飾が施されていくのだろう。瑞科は高い天井を見上げ、笑った。
 外の喧噪はこの廃墟内にも届いているが、しかし思ったより静かだ。瑞科の凛とした声が微かに響く。かつてこの廃墟で何が生産されていたのだろう。それを思わせる機械の類は一切残されていないが、その代わりに何らかの骨組みに使用されていたとみえる鉄パイプが散乱していた。
 壁面にはスプレーで落書きされた残酷な言葉や、卑猥な言葉。それから、そこかしこに落ちているのはロウソクや線香。肝試しのスポットになっているのかもしれない。確かに、外から届く喧噪は、深夜も続くだろう。ほんの少しだけ静かになった世界で響くそれは、地の底から這い上がってこようとする魑魅魍魎達の声に聞こえてもおかしくはない。
 現に、鬼鮫がここを隠れ家としているのなら、尚更――。
 もしかしたら、肝試しと称して来る者達の中に超常能力者がいる可能性も考えて、ここを根城にしているのかもしれない。蟻地獄のような場所だ。
「でも、それも今日で終わりですわ。なぜならあなたはわたくしの手に落ちるのですから。そうでしょう? 鬼鮫……いいえ、鬼鮫、さん?」
 瑞科は艶然と笑み、隅に積まれた廃材に腰掛けている男に視線を投げた。
「降伏するのなら、手荒な真似はいたしませんわ。そうでないのであれば……容赦はいたしません。あなたの命は、ここで果てるのです」
 言いながら、瑞科はブーツの踵を鳴らした。
 一歩、また一歩と、鬼鮫に近付く。
 数多もの超常能力者達を葬ってきた男。
 そこに罪悪というものは存在せず、ただ「狩る」ことを楽しんでいるような男。
「……さあ、どうなさいます。降伏いたしますか? それともわたくしの腕に抱かれて昇天いたしますか?」
 かつっ。
 鬼鮫との距離は数十センチ。瑞科の最後の一歩が、乾いた音を立てる。手に持った剣の鞘も、同時に床に打ち付けられた。
「――断る」
 口をほとんど動かさずに鬼鮫は言う。
「では……死んでいただきましょう。降伏しなかったことを地の底で後悔するといいですわ!」
 その言葉が終わるや否や、瑞科は抜刀して一閃。天窓から微かに差し込む光がそれを捉える。だが振り抜いたはずの刀身は、鈍い衝撃と共に弾き返された。
「やりますわね……」
 手に伝わる衝撃に目を細め、瑞科は鬼鮫を見据える。ぱんぱんと手を払い、鬼鮫はゆるりと立ち上がった。手の平には赤い筋。どうやら素手で剣を握りしめたようだ。その赤い筋を気にも留めずに拳を握ると、鬼鮫は瑞科の顔面に向けて振り降ろす。それを受け止める瑞科の剣、そしてその下を縫うように繰り出されるのは鬼鮫のローキック。
 瑞科はその軌道さえ完璧に読み、小さな跳躍で鬼鮫のローキックをかわす。しかし鬼鮫はかわされた脚をそのまま振り上げ、瑞科の頭上から叩き落とした。
 皮のグローブが、交差する。落ちてくる踵を両の手首で受け止める。その体勢で剣を持つ手首を反転させれば、鬼鮫の肩先に切っ先が抉りこむ。その刀身を再び握りしめ、鬼鮫は広い額を瑞科のそれへと突き落とした。
 しかし瑞科はその衝撃を受ける前に、空いた方の手でナイフを投擲し、鬼鮫の右耳を削ぎ落とす。
 鬼鮫のサングラスを掠めるように、黒髪が揺れた。再度振り抜かれたキックをグローブで受け止めて流した瑞科は、そのまま体を反転させて剣を下段から薙ぎ入れた。鬼鮫はそれを避けきれずに、脇腹でくわえ込む。ぱっくりと衣服が切れ、その下の肌も切れ――赤き血肉が剥き出しになる。
 鬼鮫はその傷口に触れ、ぬるりとした血の感触を確かめた。
「やるじゃないか、お嬢ちゃん?」
 そこで初めて、鬼鮫は瑞科を「見た」。微かに口の端を歪め、自身の血を舐め取り、一切の溜めすらなく拳を突き出す。その拳は瑞科の腹部に吸い込まれ、彼女の身体をくの字に折り曲げた。
 鬼鮫は拳をそのまま押し込もうとし――それがびくりとも動かないことに気付く。
「これくらいの攻撃で、わたくしにダメージを与えられるとでもお思いかしら?」
 くの字に項垂れたままの瑞科が、くすりと笑う。その刹那、鬼鮫の拳がぶるぶると震えだし――激しく突き返された。
 その勢いで派手に倒れこむ鬼鮫。瑞科は腹部に入る一瞬前に彼の拳を掴んでいたのだ。今度は瑞科の番だ。剣の柄を鬼鮫の腹部に押しつけ、ぐり、とねじる。手に伝わる肉の弾力に、鬼鮫の筋肉を感じた。
「あなたはこのまま地を這っているほうがお似合いですわ」
 戦闘は、圧倒的に瑞科の有利なように進んでいた。自分は傷ひとつ追ってはいない。そして鬼鮫は夥しい量の血を耳と脇腹から流して倒れている。悲鳴ひとつあげない、顔色ひとつ変えない。そのサングラスの奥の視線は未だどこを向いているかわからないが――しかし、瑞科の勝利は目前だった。
 柄をもう一度捻ると、ごりごりと嫌な音がして内臓が崩れるのがわかった。開いている方の手にナイフを持ち、鬼鮫のサングラスを覗き込む。
「あなたのように下等な存在の魂は、決して天に昇ることなく地の底に堕ちるのですわ」
 ひゅおん。
 瑞科の手から離れたナイフが、風の音を立てて鬼鮫の手首を貫く。
 ひゅおん、ひゅおん。
 二度、三度。手首だけではなく、脚の筋を断ち、片肺を肋骨の隙間から突く。
「わたくしの勝ち、ですわね。あっさりしていること。もっと……苦戦するかと思いましたわ」
 実際、そんなことはこれっぽっちも思っていないのだが――。瑞科は上から視線を落とし、鬼鮫の無様な姿を見下ろしている。その眼差しにはどこか侮蔑の色も込められ、見下ろすというよりは文字通り見下しているのだろう。
「声ひとつあげないことだけは、褒めて差し上げますわ。でも、苦しいでしょう? 今、わたくしが楽にしてさしあげますわ」
 聖母のような笑みを浮かべ、瑞科はブーツの踵を鬼鮫の喉に押し当て、剣を両手で握る。
「お眠りなさい、鬼鮫。奪った全ての命と罪を背負って逝くがいいですわ――!」
 ずん、と全体重をかけて、剣を鬼鮫の心臓に突き立てる。まるで悪魔の胸に銀の杭を打ち込むかのように。
 ぶちぶちと血管の切れる感触、心臓の持つ独特の弾力、それらを抱き込んでいく瑞科の剣。やはり声ひとつあげずに、しかし口からは大量の血を吐いて、ひゅぅひゅぅと呼吸を漏らす鬼鮫。
 もう、鬼鮫の命はあと数秒だろう。瑞科は勝利を確信し、押し込んだ時と同じように力任せに剣を引き抜いた。
 ぶしゅりと鬼鮫の血が胸から噴き出し、瑞科の太腿を濡らす。それを目に留めた瑞科の踵は、思わず鬼鮫の喉仏を踏み潰した。
「帰ったら、すぐにシャワーを浴びたいですわ……」
 ほぅと溜息を漏らし、瑞科は鬼鮫の喉から踵をどかそうとした。
 その、刹那――。
 がくんっ、瑞科の体がバランスを崩した。
「な……っ!」
 喉を踏みつけている踵が動かない。どれほどの力を込めても、ぴくりとも動かない。なぜ、なぜ――!
 瑞科が恐る恐る下を見ると、そこには鬼鮫の両手でしっかりと絡め取られた自身の足先があった。
「そんな……っ! もう、そんな力などないはずですわ! いいえ、生きているはずが――」
 ない、そう言おうとした瞬間、だんっ、と激しい音を立てて体が床に叩き付けられる。
「が、は……っ!」
 口の中に、血の味が広がる。
 これは、なに?
 瑞科は何が起こったのか把握できなかった。足を捻られ、背を殴りつけられたのだが。
 背中が熱い。足が、痛い。立ち上がろうとする意識とは裏腹に、体はびくりびくりと脈動し、地をのたうち回る。目の前の床がぐるぐると揺れる。口から迸る血が、模様を描く。
 これは、なに。
 これは、なに。
「なんなんですの……っ!!」
 血と共に吐き出した声はしかし、低くねばっこい笑い声にかき消された。
「はーはははははははははは、お嬢ちゃん、惜しかったなあ? だが、俺の能力を把握しきれなかったお前の負けだ」
 ごり。瑞科の後頭部に押しつけられているのは一体なんだろう。硬い感触、しかしよく知っている感触。
「これはお嬢ちゃんの剣の柄だ。どうだ、自分の剣に押さえつけられる感触は」
「返しなさい……っ!」
 瑞科は震える体を強引に突き動かし、必死に立ち上がる。だが――。
「……、……く、はぁああああああっ!!」
 鬼鮫の拳が、左頬に深く入り込んだ。そしてまた、無様にものたうちまわる。
「……な、なぜ……、なぜ……!」
 掠れる声を絞り出す瑞科。必死に目を開けて鬼鮫を見上げれば、彼の体には傷ひとつついていない。削ぎ落としたはずの耳も、再生して――。
 ――身体再生能力……!? まさか、こんな能力は資料にはありませんでしたわ……!
 瑞科はがくがくと打ち震える。「教会」は、鬼鮫の能力の全てを調べ上げることはできなかったのだ。
 瑞科は何度も立ち上がるが、その度に鬼鮫によって張り倒される。
 このままではいけない――このままでは、負ける。
 だが、負けるわけにはいかないのだ。
「まだ……これからですわ……」
 ぎり、と奥歯を噛み締めて鬼鮫を見上げれば、さも楽しげに鬼鮫は笑う。
「そうこなくてはな。第二ラウンドは……これからなのだから」