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<東京怪談ノベル(シングル)>


純潔のエレジー【3】


「第二ラウンドを開始したいんだが、早く立ってくれないか。まさか……これで終わりってことはねえよな?」
 鬼鮫は頬をいやらしく歪ませ、手に持っていた瑞科の剣を床に軽く転がした。
「俺の暗殺とは、よく考えたもんだ。誰の差し金だ? もっとも……こんな小娘を寄越すくらいだから、大した組織じゃないのだろう」
「……その言葉、聞き捨てなりませんわ……っ!」
 大した組織じゃないなどと言われ、瑞科の腸は煮えくりかえった。
 痛む足に力を込めて立ち上がろうとすると。先程鬼鮫に捻られた箇所がひどく疼く。腫れてきているのだろう、ブーツを内側から押してしまってバランスが崩れる。瑞科はナイフでブーツの紐を断ち切り、ニーソックスだけになった。
 ひんやりとした床の感触が足の裏に伝わる。戦闘服のスリットに沿ってぞくぞくと這い上がってくる冷気。
 たん、たん。
 軽くステップを踏んでみる。足首は痛むが、ブーツから解放されて自由になった分、楽になった。――本当ならば、ブーツで固定していたほうが負担は少ないのだろうが。
 殴られた左頬はきっと無様に腫れ上がっているだろう。背中に走る激痛が消えることもない。こんな屈辱は初めてだ。だが、これくらいで倒れているわけにはいかない。
 足元に転がるナイフや剣を拾い上げると、瑞科は真っ直ぐに鬼鮫を見据えた。サングラスの奥に隠れた眼差しを一瞬だけ捉えた気がする。
「絶対に……負けませんわ」
「そう言ってられるのも今のうちだけだ」
 そう言うや否や、鬼鮫は体勢を低くして瑞科へと突撃を仕掛けた。
「――速い!」
 一瞬で鬼鮫の顔が目の前に現れる。考える間もなく懐に入り込まれた。瑞科は小さく舌打ちをし、剣を捨てる。この間合いでは使えない。恐ろしいまでの俊敏さと間合い確保の巧みさに、鬼鮫の内に脈動する魔物の遺伝子を感じた。
 喉を切り裂こうと右手でナイフを薙げば、それをさも当然のように喉で受け止める鬼鮫。
「しまった……っ!」
 鬼鮫の喉は瑞科のナイフを「握り」しめる。一瞬だけ自由を奪われた右手は鬼鮫の腕に絡め取られ、有り得ない方向へと捻られる。咄嗟にナイフを手放し、捻る方向へと流れるままに身を反転、そのままふわりと左足を振り上げ、鬼鮫の臀部へと膝を撃ち込んでいく。
 だが、膝が届く直前に鬼鮫は瑞科の腕を捉えたまま跳躍し、空を蹴った膝へと全体重をかけて着地した。倒れゆく瑞科の全身には、容赦なく拳が撃ち込まれる。
「……、ひぁああ……っ!」
 意識せずとも悲鳴が漏れる。地に打ち付けられ、鬼鮫の体の下敷きとなった左足は、ずりずりと嫌な音を立てて擦れた。ニーソックスが裂け、膝頭が露出する。それを見た鬼鮫は、瑞科の戦闘服の裾を踏みつけ、軽く引き摺ってみた。
「な、何をするのです……っ」
「こんなヒラヒラした格好で今まで戦ってきたのか?」
 露わになった瑞科の脚部に、鬼鮫は呆れかえった視線を落とした。
「強い生地だ。破れるか?」
 鬼鮫は身を屈め、スリットの上部を掴んで力任せに引き裂いた。この時点で、鬼鮫の喉の傷は塞がってしまっている。
「ふむ、何とかなったか」
 裂いた布地をしげしげと眺める。右側後部の布地を失った戦闘服は、瑞科の右足を情けなく曝す。
「……く……っ、隙だらけですわ!」
 屈辱から這い上がるように、瑞科は立ち上がる。そして両手にナイフを構えて舞った。下段から上段へ、上段から中段へ、左翼が右翼を掠め、刃の軌跡が鬼鮫へと絡みつく。
「ハエみたいな音を立てるな」
 鬼鮫は絡みつく刃を拳で全て弾き返し、全ての攻撃を流し終えると左手で瑞科の胸ぐらを掴み上げた。
「……お前自身を色々調べる必要がありそうだ。こんな戦闘服だけじゃなくてな」
 にい、と笑い、先程の生地を瑞科の頬にぺちぺちと当てる。そして、胸ぐらを掴んだまま、右の拳を瑞科の腹部に捻り込んだ。
「きゃああぁぁぁ……っ!!」
 思い一撃に、思わず悲鳴が漏れる。後ろに吹っ飛ぼうにも、戦闘服を掴まれたままで飛ばされることさえできない体はがくがくと震えた。
「こ、のぉぉ……っ」
 震える腕で必死にナイフを振るい、足は鬼鮫のバランスを崩そうと膝を狙う。しかしそれらは全て鬼鮫にかわされてしまい、かすりさえしない。
「どうしてですの……っ!」
 相手の手は自分の胸ぐらを掴んでいる。互いの間合いに入り込んでいる形であり、こちらの攻撃が一切当たらないなど、有り得ない。
「ならば……っ!」
 瑞科は鬼鮫に両腕を伸ばし、抱き締めようとした。完全に絡め取ってしまえば、嫌でも攻撃は当たるだろう。鬼鮫の後ろに回した腕でナイフを繰れば、或いは――。
「甘い」
 呟き、鬼鮫は瑞科の胸ぐらから手を離し、彼女の腰を両腕で抱きすくめ――そして、ぎりぎりと絞め上げた。
 全身を貫く衝撃。鬼鮫の力はコルセットの形状を崩し、上半身を締めつけていく。
 悲鳴と共に、思わず息が詰まる。瑞科はそれでもナイフを振り上げた。そして足を鬼鮫に絡めて絞め返そうとする。
「俺を暗殺しようってのに、この程度か?」
 鬼鮫は腰に回した手を離し、瑞科の左腕を掴んでねじ上げれば、持っていたナイフが落ちる。辛うじて右手のナイフを握り治し、必死に鬼鮫を見据えた。
「そんな目をしていられるのも、これで終わりだ」
 再び胸ぐらを掴むと、先程と同じように反対の拳を腹部にねじ込んでいく。――だが、今度は鬼鮫のパワーは先程の比ではなかった。
 ぶちぶちと繊維の裂ける音。
 戦闘服は鬼鮫が掴んでいる部分から断裂し、胸部から下を露わにする形で瑞科を後ろに吹っ飛ばした。
 瑞科は壁面に強く打ち付けられる。そこには錆びた釘が何本も出ており、ずるりと落ちてくる瑞科の戦闘服の背面に引っ掛かって、引き裂いていく。
「……う……っ」
 地に伏した瑞科の戦闘服は原形を留めないほどにボロボロだ。肩や腕の部分に辛うじて張り付き、腰に絡みつき、布地というよりは繊維となって瑞科の体を締め付ける。
 豊かな胸の丸みは、変形したコルセットでへしゃげている。谷間から曲線に沿って流れる血が、瑞科の鼻から垂れるそれと混じり合ってどす黒さを増す。
 くたりと倒れた肢体は、その腰のくびれを強調する。そこから繋がる臀部やそれを包み込む布地、そして大腿部は埃で薄汚れ、陶器のような白さは失われていた。ニーソックスも裂けてはいるが、しかし大腿部を締め付ける部分だけは無事なようで、それが却って滑稽だ。
「……く……っ」
 激痛の渦の中で、瑞科は必死に立ち上がろうと体をくねらせる。その度に体を締め付けていくコルセットや繊維。
 瑞科は両手のグローブをはぎ取ると、露出した指先で全身を締め付ける繊維を数本だけ引きちぎる。
 そしてコルセットを締める紐を胸の間から抜き取ると、その締め付けを少しだけ緩めた。
 若干の自由を得てゆるむ筋肉と、たわむバスト。呼吸が楽になる。
「鬼、鮫……さ、ん……っ」
 全身をびくつかせ、床に転がった肢体を曝したまま鬼鮫に視線を投げた。
 負けるものか――どれほど無様な姿になろうとも……。
 瑞科のその眼差しを、鬼鮫は鼻で笑い飛ばした。
「まだやろうってのか?」
 上等だ――サングラスの奥の目が、そう告げた。