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<東京怪談ノベル(シングル)>


純潔のエレジー【4】


 ――怖い。
 怖い、怖い、怖い。
 これが恐怖というものか――。
 瑞科は内に流れる違和に震えた。これまでどの敵にも抱いたことのない感情。日常生活において抱くあらゆる恐怖とはまったく違う。
 ふと、思い出す。
 出撃前に髪を乾かし忘れたことを。奇妙な動悸を感じていたことを。
 あの時、自分は鬼鮫に対する恐怖を否定したが――今は否定のしようがない。
 明らかに、これは恐怖だ。鬼鮫に対する、底知れぬどろどろとした感情。
 今も髪は濡れている。水ではなく、頭部から流れる血で。一部は既に渇きかけ、サラサラだった髪は硬い手触りに変わってしまった。
 ――怖い。だけれど……わたくしは任務を遂行しなければなりませんわ。
 そう、鬼鮫を野放しにすることはできない。今、自分が倒れてしまったら、これから先どれほどの数の超常能力者達が犠牲になることだろう。
 自分が止めなければならないのだ。この任務を、鬼鮫の暗殺を、成し遂げなければならない。
 だが、もう体に力が入らない。立ち上がろうにも、両足は体を支えることさえ難しいだろう。敗北を予感しつつ、瑞科はそれでも自身の内に少しだけ残る責任感を総動員させる。
 自分が、自分が、自分が。
「わたくし、が……、やら、なけ……れ、ば……っ」
 震える手を伸ばし、剣を掴む。そして剣を杖代わりにして、よろよろと立ち上がった。
 一瞬でも気を抜けば、意識を失ってしまうだろう。ぜえぜえと肩で呼吸を続ける。
「まだ立てるのか」
 鬼鮫の低い声が鼓膜に響く。小さな音さえ、瑞科には強い衝撃波のように感じる。
 圧倒されるほど強いオーラに、今にも呑み込まれてしまいそうだ。
 しかし、瑞科は両手で剣を構える。既に片手で振るうほどの力は残されていない。いつもの数倍以上は重く感じる剣をのそりと持ち上げれば、その重みに負けて倒れてしまいそうだ。
 それでも、鬼鮫に向けて振り下ろす。
 これまでのようなキレはない。空を切る音さえ立てずに、重力に任せるままに刀身が落ちていく。そのまま瑞科の体も重みに引き摺られ、前のめりになる。
 がら空きになった胸部に鬼鮫の掌底が撃ち込まれる。その勢いで上体が逸れた横っ面に、今度はハイキック。
 辛うじて剣を抱えたまま横に吹っ飛ばされた瑞科を鬼鮫は追いかけ、彼女が地に落下する前に襟首を掴んで強引に立ち上がらせ、腹部に膝をねじこんでいく。
 鬼鮫に後ろから襟首を掴まれ、喉が詰まる。剣を横に薙ぎ、その遠心力に身を任せて振り返ることで鬼鮫の手を振り解く。
 再びよろよろと剣を下段から振り上げるも、ほとんど持ち上がることなく切っ先は地に落ちた。
「そんな攻撃じゃ、かすりもしないな」
 鬼鮫はそう言って、瑞科の両肩に拳を突き当てた。
 ずん、という低い音が聞こえた瞬間は、瑞科は自分に何が起こっているのかわからなかった。
 直後、腹部にのしかかる重みで「ああ、そうか」と思う。
 後ろに突き倒された自分の腹の上に、剣が倒れこんできたのだ。幸いにもそれによって傷がつくことはなかったが、剣に腹を圧迫されて呼吸が辛い。
 これくらいで呼吸が辛くなるような瑞科ではない。ただ単に、これまでの戦闘で蓄積したダメージによって、腹筋に力が入らなくなっているのだ。
 その間にも、鬼鮫の攻撃は続く。
 硬い靴先が、拳が、瑞科を痛めつけていく。蹴り上げられ、体が転がる。何かにぶつかって停止するが――その「何か」をぼんやりと見て、瑞科は泣きじゃくり始めた。
 それは、磨き上げられた鉄板。そこに映っているのは、見たこともない顔をした女。
 自分が身につけている戦闘服によく似た、ボロボロの布きれ。
 コルセットはもうその意味を成しておらず、双丘が今にもこぼれ落ちそうだ。
 白かった肌もあちこち変色し、しかしどうして――こんなに、ボディラインだけは完璧なのだろう。完璧だからこそ、無様だ。
 腰のくびれは床との隙間を少し空け、そこに鬼鮫の靴先を誘導してしまう。鍛え上げられた大腿部は未だニーソックスに包まれ、そこにはあまりダメージを受けていないことを晒し上げる。鬼鮫が次に狙うとしたら、脚部だろう。
 自分の実力にも、そして肢体にも自信があった瑞科は、今の自分の状態を目の当たりにして何もかも耐えられなくなった。
 鉄板に映る自分を隠すべく、腕を伸ばして縋り付く。もうひとりの自分と抱き合うかのように。額が、鼻先が、唇が、胸先が、脚が――ひんやりと冷たい、平面の瑞科と絡み合って擦れる。
 もう、嫌だ。
 もう、戦えない。
 誰か助けて――。
 それは、瑞科にとって屈辱でしかない思考。
 敗北という言葉の意味を知らない瑞科が初めて味わうそれは、これ以上ないほどに無様なものだった。
 涙に任せるままに、鼻をすすり上げる。血の味が喉に広がるがそれさえどうだっていい。
 嗚咽が漏れ、涙と汗と血で顔はぐしゃぐしゃになる。
「……おれ……らい……、たす……ええ……。……ゆぅ……しぇ……」
 お願い、助けて……許して――。
 もうこれは本能だ。
 瑞科が考えるよりも先に、言葉が出た。
 吹っ飛ばされた時に舌を噛んでおり、呂律さえ回らない。だがもう、なりふり構っていられなかった。
 怖い、怖い、怖い。
 ここで、終わって……。
 平面の瑞科との抱擁を名残惜しげに終えると、全身を引き摺るように這い、鬼鮫の足に縋り付く。這った際に、辛うじて体に張り付いていた繊維はほとんど千切れてしまった。ニーソックスも、裂け――。
「……ご……」
 ごめんなさい――そう言いかけた瑞科は、言い終えることなく意識を失ってしまった。
 鬼鮫の足元に両腕を絡め、傷だらけの肢体を投げ出して。
「ごめんなさい、とでも言おうとしたってか? ふざけるな、その程度で許すと思うのか。俺の暗殺を企てたからには、それ相応の代価を払ってもらわないと気が済まない」
 鬼鮫は口の端を歪めて言う。一見すれば笑っているように見えるだろうが、しかしその内に燻る怒りは凄まじい。治まるどころか、さらに膨れあがり――。
「気を失うなんざ、逃げるのと同じだ。決して、逃がさないぜ」
 やや乱暴に瑞科の腕を蹴り上げて振り解くと、鬼鮫は視線を肢体の曲線にそって這わせた。
 そして行き着いた先――序盤でねじ上げた足首――に、手を伸ばして片脚を肩まで担ぎ上げる。そして、そのまま引き摺って歩き始めた。
 どこへ連れて行こうというのか。しかし鬼鮫は躊躇うことなく隅にある階段に向かい、光の差し込まない地下室へと瑞科を引きずり下ろしていく。
 がくんがくんと、段差に打ち付けられる瑞科の体。引き締まった筋肉も、豊かな丸みも、衝撃に抗うことなく揺れる。
「さあ、最終ラウンドを始めようか」
 鬼鮫はサングラスを外す。
 一瞬だけ意識を取り戻した瑞科は、彼の目がさも楽しげに笑っているのを見て、再び意識を失った。


 その後、瑞科の姿を見た者はいない。鬼鮫は相変わらず超常能力者達の殺戮を繰り返す。
「教会」は必死になって瑞科の行方を捜したが、発見できたのは戦闘服の残骸らしき布地と血痕、彼女の武器、そしてほとんど無傷のグローブだけだった――。



   了