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<東京怪談ノベル(シングル)>


氷雪の龍神湖。


 合宿所の目の前に広がる湖は、見渡す限り完全に凍っているようだった。新体操部の強化合宿と称してはるばるやって来た三島・玲奈(みしま・れいな)は、白銀の世界に「うわぁ‥‥ッ!」と歓声を上げる。
 冬のこの時期、新体操部は部員の少ないスケート部を兼ねて一緒に練習をする事になっていた。だが玲奈がやって来た理由はもう少し即物的で。

「もう着てたの?」
「あったりまえじゃん。その為に来たんだから」

 呆れたような鍵屋・智子の言葉に胸を張る玲奈の姿は、フィギュアスケートでよく見るひらひらの衣装。と言うかまさにフィギュアの衣装そのもの。玲奈は智子に、スケート部の合宿に参加すればフィギュアの衣装を着せてやろうと言われ、二つ返事で参加したのだった。
 だからもちろん、合宿所に向かうバスに乗る前から玲奈の格好は、ビキニの上にレオタードとひらひらのフィギュアのスカート衣装を重ねた姿。その上からさらに体操着を着込んで防寒もばっちりだ――とは言え玲奈の場合、プランと揺れる尻尾が邪魔でジャージが履けないので、下は制服のスカートだったのだけれども。
 そんなこんなでようやく到着した温泉付きの合宿所に飛び込むと、玲奈は待ちきれないように体操服と制服のスカートを脱ぎ捨て、スケート靴を履いて氷上へと飛び出した。カツカツと氷を鳴らしながら歩み出て、スケートの歯で思い切りよく氷を蹴る。
 すい、と玲奈の身体が氷上を滑りだした。バランスを取りながら交互に足を動かし、歯で氷を蹴って、自由気ままに滑り回る。
 けれども時折、玲奈の邪魔をするものが居た。いわずとしれた彼女の尻尾だ。思わぬ動きで玲奈自身を翻弄し、あっと言う間にバランスを崩してしまう。

「いッ‥‥たぁ〜」

 したたかお尻を氷に打ちつけて、少し涙目になりながらよろよろと氷の上に立ち上がった玲奈に、にっこりと智子の微笑みが向けられた。何故か、ぞくりと背筋が震えるような微笑みだ。
 「まだまだ改良の余地があるわね」と唇だけで呟くやいなや、智子はすいと玲奈に滑り寄り、あっと言う間に何かを注射した。途端、玲奈の下半身が棒の様になってレオタードが落ち、フィギュアのスカート衣装だけになる。
 背中からは翼。内側から生えたそれは、あっと言う間に服を破いて、背中が丸出しになる。
 ヒヤリと背中を撫でる空気に、玲奈はジトッと智子を見た。

「また何かしたでしょ?」
「丹頂鶴よ」

 ふふ、と悪びれなく微笑んで、智子はあっさり告白した。なるほど、この羽は丹頂鶴なのか。
 獣化してしまったものは仕方ないと、玲奈は丹頂鶴の翼を羽ばたかせた。そうして凍り付いた湖の上空を舞っていると、眼下にふと怪しい影がある。

(‥‥何?)

 それは上空からだと、湖の氷に張り付くように見えた。それを智子に伝えると「そう、睨んだ通りだわ」と先よりもよほど怪しく、背筋がぞくぞくする微笑が返ってくる。

「睨んだ通り、って‥‥」
「玲奈、そこに向かってくれる」

 思わず呟いた玲奈に構わずそう言った智子に、どうやらこれは智子が企んだ事らしい、とおぼろげに玲奈は悟った。どこまでが――或いはこの合宿そのものが、玲奈が見た怪しい影を見つけるための計画だったのだろう。
 玲奈は大人しく獣化を解き、その影を見つけた湖の辺りに下りた。途端、一瞬で凍り付いてしまいそうな寒さが玲奈の全身を襲う。そんな寒さを堪えながら彼女が見たものは、信じられないものだった。

「‥‥おや。そなたも修行に? 感心、感心」
「‥‥ッて」

 飛び散った飛沫も凍りつくような寒さの中、とうとうと流れ落ちる滝に打たれて行をしていたのは、1人の僧侶だった。玲奈の姿を見て穏やかな様子でにっこり笑う。
 修行、と呟いて玲奈は自分自身の姿を見下ろした。‥‥色々ぼろぼろの姿が、苦行中に見えたのだろうか?
 悩む玲奈を、僧侶は滝の中から手招きした。そうして見ている方が寒そうな滝行を続けたまま、ご褒美を授けてやろう、と微笑む。

「ご褒美?」
「ああ。この森の奥の秘密じゃ‥‥この森の奥には竜神の棲む池があってな、修行を極めた僧侶に智慧を授けて下さるといわれておる」
「竜神‥‥」

 何となく。智子の目的はそれだろうな、という予感が、玲奈の中にポツン、と湧いた。





 もちろんすぐにでも偵察に赴きたかったのだけれども、その日はあいにくタイムアウト。なら翌日にと考えた玲奈を阻んだのは、みっちり組まれた練習という障害だった。
 何しろ今日の練習は、フィギュアスケートの有名なプロ選手を招いてのレッスン。この合宿が智子の画策だろうと、合宿自体は本物なわけで、そうである以上玲奈には参加する義務があるわけで。
 じりじりしながら氷上に立ち、言われるままに滑り出した玲奈だったけれども、あいにく彼女の尻尾というハンデはまだ克服出来ていなかった。昨日は智子のおかげで空を飛んでいたのだから、そんな時間もなかったし。
 ドテンッ!
 今日も今日とて盛大に尻餅をつき、硬い氷にぶつけたお尻を涙目でさする玲奈を見てプロ選手は、はぁ、と大きなため息を吐いた。

「貴方。才能無いわ」
「な‥‥ッ」
「貴方ってば、氷を滑る気品の欠片も無いじゃないの。あそこでバタバタ走ってる連中の方がお似合いじゃない?」
「く‥‥ッ、言ったね!」

 自身がプロであると言う自信もあってか、かなり酷い事を『優雅に』指摘し、こき下ろしたプロ選手に、さすがの玲奈もプツンと切れた。確かに優雅とは言えない‥‥と言うか尻餅ついてみっともないかもしれないけれど、言って良い事と悪い事がある。
 勢いで玲奈はその場でフィギュアの衣装を破り捨てた。まッ、と真っ赤になって目を白黒させたプロ選手の前でビキニ姿になり、フン、と鼻息も荒く『あそこ』とプロ選手が指差していた方へと走り出す。
 そこには、丁度一緒に来ていた陸上部が居た。駅伝の練習をしているようで、その中に紛れ込んだ玲奈のビキニ姿はたちまち溶け込み、判らなくなってしまう。
 そうしてそのまま振り返らず、真面目に走り出した駅伝練習は、昨日、僧侶が教えてくれた森の前を通りかかった。これ幸い、と辺りを見回して誰も自分に注目していない事を確認し、素早く練習からリタイアして森の中へと足を踏み入れる。
 森の中にもやはり雪が積もり、凍えるような寒さが立ち込めていた。走るのを止めた玲奈の身体からたちまち熱が奪われそうになるのを、あちこちさすりながら竜神池を目指す。
 やがてぽっかりと開けた場所に、その池はあった。竜神池、と呼ぶには何だか普通の池のような、と玲奈が池の周りをぐるぐる回りながら考えていると、ポチャン、と水音がする。

「ん‥‥?」
『お前‥‥我と取引をせぬか‥‥』
「‥‥ッ!? まさか本当に本物の‥‥ッ?」

 水音に惹かれるように振り返った玲奈が見たのは、いかにも竜神と思しき緑の鱗に覆われた竜だった。キロリ、と見下ろしてくる瞳は、威厳――というよりは何か、別の感情に満たされている。
 取引、と言われた言葉を反芻した。それが解ったように、そうだ、と竜神が頷く。

『取引だ‥‥お前の遺伝子全てと、お前の同級生の命を交換せぬか‥‥』
「どういう意味?」
『ふ‥‥お前をここに来させたのが、一体誰だと思っている‥‥?』
「‥‥ッ」

 嘲った竜神の言葉に、とっさにひらめいたのは玲奈をこき下ろしたプロ選手だった。彼女に完膚なきまでにこき下ろされたから、玲奈は怒りに任せて練習を抜け出し、ここまでやって来たのだ。
 ならば。あれは罠、だった――?
 くる、と即座に湖に向かって駆け出した玲奈の背を、ずるりと池から抜け出した竜神が追いかけてきたのが解った。だが脇目も降らず森を駆け抜け、滝の傍を通り、湖へとまっしぐらに走り込む。
 そうして玲奈が見たものは、案の定、背後の竜神と同様の巨竜と化したプロ選手が、氷を叩き割らんばかりの勢いで湖で暴れている姿だった。その足元には幾人か、倒れている同級生が見える。
 チッ、と舌打ちをしたのと、逸早く避難した智子が気付いて振り返ったのは、同時。

「玲奈、遅いわよ!」
「うっさいな!」

 叫んだ智子に、叫び返して玲奈は迷わず智子の元へと向かった。心得た智子がすかさず注射器を取り出す。
 プス、と小さく鋭い痛みが走った。かと思うと次の瞬間、自分の身体がむくむくと膨れ始めたのを玲奈は感じる。たちまち地上が遠くなり、破れた服がそこかしこに散った。着替えは後で智子の服を奪い取ろう。
 そうして巨大な蟹へと変じた玲奈の姿に、2匹の竜神が同時に注目した。瞳に宿る光は、玲奈の身に宿る遺伝子を欲して、邪に輝いている。
 冗談じゃない、と玲奈は両手の巨大な鋏を振り上げた。

「さっさとおねんねしなさいッ!」

 バチン、と。凍りついた湖に、2つの鋏の音が同時に響き渡った。
 それは玲奈の鋏が2匹の竜神の首を、まるで玩具か何かのように断ち切った音。そうして彼女が、同級生の命を守った音だった。