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いつだって全速力
子供の頃、こんな言葉を聞いたことがある。
「人生は山あり谷ありでなければ退屈だ」
誰が言ったのか憶えていないけど、その人はよっぽど平坦な人生を送って来たに違いない。谷と言えば等々力渓谷、山と言えば高尾山くらいの感覚の持ち主なんだろう。
人生には怪物の口の中みたいな谷もあれば、天国に届くほど高い山もある。一度そのアトラクションに放り込まれたら、もう逃げることは叶わない。毎瞬毎瞬、生きるか、死ぬか。そんな人生、体験してみたいと思う?
――思っちゃうんだろうな、雫なら。
「ね〜、ね〜、マスター! 今日は誰が来るかな〜?」
怪奇現象の情報サイト管理人、瀬名雫は窓を眺めながら目を輝かせていた。この童顔の少女の頭の中には大きなおもちゃ箱がひっくり返っているらしく、三十秒だって黙っていられないのだ。
いくら駅から近く若者の多いカフェとは言え、雫の声はよく通る。周りからすれば煩そうなものだが、他の客から苦情が届いたことはなかった。雫はこのカフェでは有名人で、頻繁にやって来てはその場にいる客から奇妙な話を聞きたがったリ、自分のサイトに書きこまれた怪奇事件の調査に客を巻き込んでいた。
結果、このカフェには好奇心の強い人々が集まるようになった。ただお茶をしているだけの客も、雫たちの会話に耳をそば立てている。それを面白がったマスターは、ある映画のキャッチコピーを真似て、入り口のドアにこんな張り紙をした。
――人生はおもちゃの箱のようなもの。全てを取りだして遊んでみなければ愉しめない。好奇心の無い方、お断り――
「あ、玲奈発見☆」
タン。
と勢い良く店のドアを開けた雫は、歩道に向かって声を出した。
「ね、玲奈、今帰りなの? お茶して行かない?」
雫の言葉に、制服姿の少女がスッと振りかえる。
スカートとロングヘアが軽やかに揺れた後、紫の瞳と黒い瞳がこちらを向いた。
「うん、いいわよ」
「やった☆ 玲奈を確保しました!」
「わっかんないわよ〜。あたしが雫を捕まえたのかもしれないんだから」
冗談を言いながら二人が店内に入ると、他の客たちの視線が玲奈に集中した。
――三島玲奈は美少女だった。そしてミステリアスだった。
玲奈のオッドアイは店内のライトを浴びて、潤んだようにも凛としたようにも見えた。
ふっくらした唇から発せられる声には品があったが、話している内容はサッパリとして思い切りが良い。
時折肩にかかったロングヘアを払う動作をする玲奈だったが、決して耳は見せない。
――客たちは玲奈から溢れている謎を解明しようと、時にひっそりと、時に無遠慮に彼女を眺めていた。
玲奈はそんな客の視線を薙ぎ払うように、あるいは挑発して煙に巻くように、テンポ良く雫と話し込んだ。
「あ、そーだ☆ 今から『THE UMA』が始まるんだった〜。玲奈は観てる?」
「あのいっつも作り物っぽい変な番組ね? あたしはたまに観るくらいかな」
「一緒に観ようよ〜。ほら、今ケータイで……」
と、携帯を取り出した雫――、
が、急に黙り込んだ。
「……………………」
「どうしたの? ワンセグ入らない?」
「……………………」
「…………雫?」
十秒近い沈黙。
これだけ雫が大人しくなるなんて、タダゴトではない。
玲奈がそう考えていると、雫が不思議そうに訊いて来た。
「最近子供産んだ?」
予想外の質問に、玲奈はカモミールティーをむせそうになった。
……じょーだんじゃない。そんな発想、どこから来るのよ!
「う、産む訳ないわよっ。身に覚えもないんだから!」
「じゃあ、離婚?」
「あたしはまだ結婚もしてないのっ」
「じゃあ、婚約?」
「してないったら!」
「じゃあ、暴れたりした?」
「え? えーっと……」
さっきまで即否定していた玲奈が、しばし言い淀む。頭の中でつい最近の出来ごとをアレコレ思い出してみるが――。
……暴れるって、抽象的な表現よね。捉え方って人それぞれだし。客観性に欠けた表現っていうか。
(えーと、うん、してない。してない筈。してないよね、あたし。シテナイ。それで決まり!)
「あたしは無実よ! 何で突然そんなこと言うの?」
テーブル越しに雫へ顔を近づける玲奈。
それに対して、雫は携帯の画面をこちらへ向けて来た。
雫が観ていたのは夕方のニュースのようだ。丁度やっていたのは主婦向けのワイドショーネタだが、そこには驚くべき見出しが出ていた。
『一瞬の笑顔――三島玲奈さんの表情に迫る!』
……何よ、これ。
目を丸くしている玲奈だが、スタジオ内のキャスターたちはにこやかに話を進めている。
「本日の午後四時頃、無事に授業を終えた三島玲奈さんは笑顔で下校しました」
画面に大写しされる、下校途中の玲奈。
「この映像では、玲奈さんは笑顔ではないようですが?」
コメンテーターの言葉に、芸能リポータ―が大きく頷く。
「ええ、視聴者の方々も同じ疑問を持たれていると思います。この玲奈さんは少しお澄ましした顔に見えますからね。私も最初はそう思いました」
「でも違う、と。この表情には裏がある……そういう訳ですか」
「ええ、ええ。詳しいことは三島玲奈深層心理研究家の○○さんからご説明を」
「どうも、三島玲奈深層心理研究家の○○です。みなさん、この玲奈さまは笑顔じゃないじゃないかって思われてるみたいですケドね、こうすると分かりますよ」
そう言って、○○は映像をコマ送りにした。
「あ、一瞬、笑顔になりましたね!」
「でしょう? でも次の瞬間はまた澄まし顔です。そして次の瞬間には――、」
「また笑顔になりましたね!」
「そうなんです。玲奈さまはですね、0.12秒ごとに表情を切り替えているんです。つまりですね、澄まし顔は、無事授業を終えた喜びを我々に悟られまいとするためのフェイクなんですよ……! サブリミナル・フェイク……!」
「オオ〜! さすが……!」
「視聴者の方々は素人ですから、細かい説明をしますね。最初ね、玲奈さまは澄まし顔を作って校舎から出てきた訳です。ところがですね、気が緩んだんでしょう、つい一瞬笑顔になってしまった。玲奈さまはすぐその失敗に気付いた訳です。だから澄まし顔に表情を戻した」
「わからないのはそこからです。何故玲奈さんはそのまま澄まし顔のみでいなかったのでしょうか」
「それは素人考えです。プロはこの一瞬の笑顔に気付かれた場合の対処も考える。普通、一瞬だけ出てくる表情というのは“本音”の部分な訳です。このままでは、笑顔が玲奈さまの今の素の表情だと周りに読まれてしまう。そこで何度も澄まし顔の隙間から笑顔を出し入れして、“これはただの遊びなの、あたしは嬉しい訳じゃないのよ”とアピールする訳ですね」
「深い! いやあ、抹茶のような渋みがありますねぇ〜」
「それだけじゃないですよ。みなさん気付きました? このただ歩いているだけに見える三島玲奈さまの指先の動きをよく見て下さい」
「ええと……、ああ、微妙に動いていますね。つつーと。」
「この動きがですね、モールス信号になっているんです。表情を読まれまいとしつつも、指先では素直に胸の内を打ち明ける。乙女ですな。では読みますよ。“あたし・シュッサン・リコン・コンヤク・アバれちゃったの”です」
「Sooooo amazing!」
「ではみなさん、また明日お会いしましょう」
あまりの内容に、玲奈は携帯を持つ手をプルプルと震わせていた。
「で、電波……。何なの、これ。狂ってるわ!」
「事件発見☆ 玲奈、力になるからね!」
その弾んだ声に目を向けてみれば、そこには瞳を輝かせている雫の姿が。
(そっか、メディアが相手なら、雫の情報網が頼りになるかもしれないわね)
ニュースで流されてしまった以上、人の目が気になる。情報を探るのは雫にまかせて、話題がこれ以上大きくならないうちに玲奈は帰宅することにした。
――なのに。
「もー、何なのよ〜!」
玲奈が思わず声を上げてしまったくらい、世の中はひどいことになっていた。
電車内の中吊り広告にまで玲奈のことが書いてあるのだ!
男性向け週刊誌の広告には大見出しで『女子高生・玲奈の生グラビア』だの『身も心も全て見せちゃう?! 女子高生・玲奈のマル秘プリクラ帳大公開』だの、当人には憶えのない恥ずかしい言葉が躍っている。
(さっさと家に帰らなきゃ! 今日はもう家から出ないんだから!)
ところが敵の方が素早かったらしい。
駅から出ると、待ち受けていた報道陣がワッと玲奈に群がってきたのだ。
「だーかーら、あたしは出産も離婚も婚約もしてないし、暴れてないったら!」
「勝手に写真撮らないで! おまけにそこのカメラ、何でローアングルなのよ?」
追い払っても追い払ってもマスコミの連中はついてくる。粘液ダラダラのナメクジだってこんなにしつこくないのに。気持ちが悪くて、玲奈は爆発しそうなくらい頭に来た。
(犯人に文句言いに行ってやる!)
一度決意すると玲奈の行動は早い。
「きゃーっ、何あれ!!!」
空を指差して、渾身の叫び声を上げる。
つられて空を見上げた報道陣は、次の瞬間口々に叫んだ。
「な、何だあれは?!」
「UFOか?!」
「スクープだ!」
「……おい、三島玲奈がいないぞ!」
「どこ行った?!」
「探せ、探せ!」
混乱する人々の間を縫って、一匹の犬が人通りのない裏通りへと逃げ込んで行った。
この駄犬こそ、玲奈である。
(何とか逃げ切れたみたいね)
ごみ箱の陰に隠れて辺りを見渡した玲奈は、パタパタと尻尾を振った。油断すると舌が口から出てしまうのが難点だが、今は犬のままでいる方が良いだろう。
背中に乗せていた鞄を落とし、携帯だけ取り出して器用に前足でボタンを押した。そうして雫に電話をかけると、玲奈は今いる場所を伝えてすぐ来るように頼んだ。
「いいよ! こっちも犯人の目星はついたから、会いたかったしね。今行くから☆」
「待ってる!」
さすがにこの姿で雫に会う訳にはいかないので、時間を読んで元の姿に戻っておいた。
駅から走ってきたのか――雫は肩で息をしながら、落ち着きなく喋った。
「探ってみたんだけど、情報源は鱒込新聞社だったよ。文字通りの幽霊会社だって噂もあったし」
「オッケー。悪霊なら倒しに行かなくっちゃ!」
「待って、そんな姿じゃすぐ報道陣に見つかっちゃうよ。ここは雫におまかせ☆」
と、雫が取り出したのはディスカウントストアで買って来たらしい探偵グッズ。
お洒落なんだかダサいんだか線引きの難しい大きなサングラス。
身体のラインを完全に隠すマント。
中に着るのは暗闇に混じり合う色のレオタード。
そして「ここで何を狩る気なんですか」と訊かずにはいられないハンチング帽子。
これらを身につければあら不思議、どう見ても変質者だ。しかも雫まで同じ格好をしているので、もうどうしようもない。
「どかんと派手にやっちゃおう!」
見事正体不明になった二人は、近づいて来る夜に溶け込んで行った――……。
こう書くと、ちょっとカッコいいではないか。
道中では特に通報されることもなかった。日本はそれでいいんだろうか。
「ここが鱒込新聞ね」
「うん、間違いないよ」
――夜空に漆黒の社旗がはためく。
「やっぱり黒幕はここね」
「まっくろだもんね!」
ベタなギャグで息を合わせた雫と玲奈だったが、入り口から入った途端、受付嬢に追い返された。
「そうだった〜、受付嬢がいるんだった〜。玲奈、どうする?」
「そーいうときにはコレよ」
自信満々に玲奈が取り出したのは……筆ペンである。
コートを脱ぎ、サングラスも外し帽子も脱いで、露出した肌に般若心経を書き込む。
これで悪霊から姿を隠せる……らしい。そうだよね? 耳なし芳一。
テンションの上がりきった二人は、色々とポーズを付けながら受付を通った。
受付嬢には二人が見えないらしく、お菓子を食べながら虚空を見つめている。
(大成功♪ あたしたちは透明少女よ)
ドラマやアニメなんかで透明人間になったキャラクターは必ずと言っていい程悪戯をするが、玲奈にはその気持ちがよく分かった。
自分はここにいるのに、相手は気付けない。
一方こちらでは思いのまま動けるのだから、まるで自転車に乗って立ち漕ぎの姿勢のまま坂道を下っていくような爽快感だ。
「そこまでだ、諸君!」
エレベーターの前で一人の中年が仁王立ちしていた。
「フははは、見える、見えるぞお。受付は騙せても、この慧眼を持つ編集長は騙せぬわ!」
「何ですって?!」
「書道二段の実力を見せてくれるわ。チェストオオオオオオ!」
編集長の赤ペンが空を切った。
玲奈と雫の腕に書いてあった“沸”の字に線が引かれ、そこに下手ではないが上手くもない字が被せられていた。
「“沸”ではなく“佛”じゃあ!」
「くっ……やるわね。今度はこっちの攻撃よ!」
玲奈は雫から受け取ったプリント紙を敵に投げつけた。
「こ、これはわが社に関するタレコミ……アア、我が社の信頼性がゼロにぃぃぃ……」
塩をかけられたナメクジのように、編集長は溶けて消えた。
(今の男は完全に消滅したわ。間違いない、ここは悪霊の巣窟なのね)
「さあ、雫! どんどん敵に塩まいていくわよ!」
「そうこなくっちゃ☆」
こうして二人は重役室に乗り込んだのである。
広い重役室では、社長たちが幾つものモニターを前にして弁当を食べていた。
「やはりゴールデンタイムになると、毒電波がバラエティー番組にかき消されてしまいますなァ」
「それではいかん。バラエティーには勝てんから、もっと雑誌にも力を入れろ」
「ああ、やっぱりタンメン頼めば良かったなァ」
立場の割にしょぼくれた重役たちへ、玲奈は高らかに宣言した。
「お前たちが悪の権化ね。デマばっかり流すなんて、許さないんだから!」
と同時に雫がプリント紙をばらまく。
「ヒッ」
声を震わせて逃げる社長を玲奈の霊剣が捉えた。クンッと風を切り、高くジャンプした玲奈は回転しながら敵を一刀両断した。
「玲奈、カッコイイ〜☆」
ぱちぱちと拍手する雫。
玲奈は照れ笑いを浮かべながらも、ちゃっかりとピースしてみせる。
が、次の瞬間玲奈は険しい表情を浮かべた。
「……雫、今から全速力で逃げて」
「どうして?」
「いいから早く!」
「う、うん。入り口の外で待ってるからね」
瞳に不安げな色を浮かべつつ、雫は非常階段から外に出て行った。
――玲奈はモニターに向き直った。
「黒幕はお前ね?」
その声に答えるように、モニターには大写しで玲奈が映し出された。
「我は滅びぬ。何故なら我はただ媒体を用いた流通者に過ぎぬからだ。全ての欲望は人間から生れしもの、それが例え虚構から成る醜聞であろうとも、求めているのは人間なのだ……。お主もそう思うだろう? どうだ、我と手を組まないか」
モニターは地響きのような声で――まるで神のごとく自信に満ちた口調で話していた。
だが玲奈には迷いがない。
「お断りよ」
冷たく言い放つと、玲奈は重役室ごと悪霊を爆破した。
外に出てみると、ビルは跡かたもなく消えていた。全てが虚構で出来ていたのだ。
翌日、玲奈は恐る恐るテレビをつけてみたが、そこにはいつものニュースがあるだけだった。ワイドショーはにぎやかだが、玲奈の“れ”の字も出てこない。
……それが当たり前なんだけどね。
「ね〜ね〜☆ あたしが外に出てから、玲奈は何やってたの〜?」
「もー、雫は何回聞けば気が済むのよ〜」
いつものカフェで、あたしと雫は昨日の話で盛り上がっていた。
きっとすぐに――もしかしたら明日には、もう鱒込新聞社のことなんて忘れているかもしれない。
だって雫は常に新しい怪奇事件で頭がいっぱいだし、あたしにはそんな過去のこと思い出している暇がない程、奇妙な出来事に出遭ってばっかりなんだから。
――あたしの人生は、ジェットコースターみたいだ。毎日が生きるか死ぬかの、強制アトラクションの連続。
普通の人なら、疲れて嫌になっちゃうかもね。絶望して、自分の人生に諦めた眼を向けちゃうかもしれない。
雫なら面白がるんだろう。あの子は普通じゃないから。
――あたしならどうするかって?
もっちろん、命を賭けて走り抜けるだけよ。
目の前に退かせない障害物があるなら、跡形もなく消してあげる。
終。
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