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【魔性 〜月へ】
杯(さかずき)の握りの中に、蝋燭が立てられた。
鮮血を固めたような、真っ赤な蝋に火が灯された。
にわかに暖められた周囲の空気が、わずかながらも気流を生んで、小さな炎を揺らめかす。
アンティークショップ・レンの片隅――薄闇が霞を引いて集まりだした一角で、不思議な儀式が始まった。
身を乗りだして、みなもは杯の中を見つめる。闇に滲んだ周囲の景色に、長い黒髪が溶け込んでいく。額からこぼれる前髪は、しかし橙色に照らされる。杯は水で満たされていたはずなのに、細い炎が踊り狂って渦を巻く。真円の宇宙を縦横無尽に行き交う紅炎――プロミネンス。
う、と呻いた。拍動する心臓に、トゲが刺さる。熱い、熱いイバラのトゲが。まるで真夏の、焼けきったアスファルトの粗いそれに手のひらを押しつけたみたいに痛い。尖った石が肉を押して、食い破らんと攻めてくる。いや、すでに肉は犯されている。血肉にまみれたイバラが心臓から伸びていく。動脈を、静脈を取り込みながら四肢へと伸びる。喉の中へ食い込んでくる。熱した金棒のようなイバラが、細い炎となって身体を灼いた。
息を吐く。喉が焼け付き、思わず噎ぶ。
杯の水は蒸発しきってしまったのか、紅炎が伸び上がる。杯から飛び出して、みなもの瞳に襲いかかった。
「――!」
それを、みなもは視線で押さえ込む。威圧するのではない。炎さえ絡め取る、籠絡せしめる、魅惑の視線。愛おしむ、それでいて弄(もてあそ)ぶ。水の属性である己を、蹂躙しようとした仕返しだった。
みなもはクスリとと微笑んだ。
周囲はすでに闇色のベールに包まれきってしまっている。
「月の雫に反応している?」
いって、蓮は息を呑む。
その気配を感じながら、みなもは告げた。 「いくわ」
気分はすでに高揚している。
杯に指を伸ばした。
右手の中指、その先が水に触れた。
「まって!」
声が弾(はじ)けた。炸裂した。砕けた声が、つぶてとなって、弾丸となって胸に沈んだ。
その瞬間に、さまざまな想念を感じ取った。
怒り。焦り。悔悟。絶望。無念。懺悔。揺らぐ愛。
すべてをかっこむように、吸い込むように口を開いた。ああ! いとおしい! 待ちきれない!
指の腹で水面を撫でて、波紋と大気に隙間を作った。薄衣をつまむように、空間を引き裂いた。
その中に、闇はなかった。
圧倒的な光があった。
目がくらむ。光は意志だ。様々な情念が突き刺さる。
だが中に、その光の底に、みなもは闇を見いだした。
泳ぐように、潜るように、頭から身体を入れる。光の中に、みなもは消えた。
「待って!」
激しい声がみなもを呼んだ。
振り返ると、なだらかな草原の丘向こうから、ひとりの少女がやってくるのが目に入った。麻を編んで作った貫頭衣に身を包む、十四、五歳の少女。首には緋色の勾玉が飾られている。
その少女が、双子の姉であるということをみなもは知っていた。だから自然と答えていた。
「いいえ、姉様。私は行くわ。若王様が待っていらっしゃるのだから」
剣呑とした口調になっていたのは、なぜだろう。
みなもは内心首を傾げたが、その胸の裡では憤りの炎がとぐろを巻いて、首をあちこちに向けているのが分かってもいた。
その矛先を向ける先を探している。だから少女の言葉に狙いを定めて、さらに怒りをぶつけるのだった。
「若王様は、私を待っていらっしゃるの。姉様じゃあない。姉様こそ戻りなさいよ。送りの祀りは、姉様の役目でしょう? 私なんて、いつだって邪魔なだけなのでしょう?」
「そんなこと……」
「二つ子は忌み子よ。王の子だから生き延びてはきたけれど、普通ならば鬼の子として殺されていた。姉であるあなたは生きて……私は死んでた。生きていても! 下僕たちの、卑女たちの声が聞こえていたわ。私を忌み嫌う声。王女たる姉様に注がれる天の力を、二つ顔を利用して、私がだまし取っているのだと」
「あなたにだって巫女の力がある。それはだまし取ったものなんかじゃないわ」
「そんなこと、どうして分かるの? その力があるというだけで、私は蔑まれてきた。全ての民の、心の中で! 言葉では、態度では敬っていても。その顔は、声色は馬鹿にしていた」
「しない人もいたでしょ?」
「若王様だけよっ! 私を心から愛してくれたのは! そう――」
姉様のことも同じくらい愛していたのは知っている。それを知って、心の声を聞けてしまう力なんて、欲しくないと改めて思ったのだ。
けれど――
「若王様は、私を連れて行きたいと願ったのよ。心から。そう、心から!」
だから行くの。
私は。
あの岩の船に乗って。待って。待って。
「待って!」
みなもは叫んだ。
その少女とともに。
悲壮と絶望。怒りと焦り。悔悟と懺悔。
姉への愛と、若王への愛が、同時に揺らいだ。
雨がやんだのは、いつだったろう。
結い紐のほどけた髪は濡れそぼって、肩が少し重かった。
「すまない。連れて行けなくなった」
ほんとうにすまなく思う。
「悲しまないで。君の想いは、月に届く」
想いは昇華し、月に届く。
「僕の想いは、月光となり、大地の君に注がれる」
そう願う。
言葉とともに、彼の声が耳に響いた。彼の心が胸に染みた。
見上げれば、夜の星空。
待って! と叫んだのは、もうずっと昔のことのように思えた。
星屑輝く天の川に、真円の月が浮かぶ。
不気味なほどに黄色い月に、影が落ちる。
あの岩船に、若王様が乗っている。
手を伸ばしても届かない。
身体は重く、大地に引かれて飛べやしない。
憔悴しきった魂が、恐ろしいことを思いついた。
みなもはそれを止めようとした。けれど、足は動いてしまう。身体の持ち主の強い意志に、みなもの魂はどうすることもできなかった。
湖に出た。
山から下る川が集まり、ひとときばかり水を湛えて、川へと注ぐ。海へと続く広い湖。
月が。
月が水面に映っている。
どうしても行くのね?
訊ねるみなもに、身体の持ち主は答えた。
月へゆくの。
あの人が待っているから。
身体は水に沈んでく。
魂は遊離して、水中から水面を目指す。水面に映る、月を目指す。湖面を突き抜け、本当の月へと昇る。
会いたい。
その想いは月へと昇る。
けれど、そうたやすくは再会できない。
魂と感情を管理する、月の一族と会うためことは、一筋縄ではいなかった――
(了)
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