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お姉さまと冥府の番犬
空も地面も、フィルムのような薄い闇に取り込まれていく。
その道を歩いて行くのはとても不思議な気持ちになる。あたしの影と身体は、まるでこの果てない空間に溶け込まれてしまったよう。
……無言でいるのは少し怖い。寂しい獣の、大きく開いた口の中に入ってしまった気持ちになるから。
「お姉さま、何かお話しましょう?」
「くす。みなもったら、甘い声を出して……」
「だって、何だか怖いし、寂しくて……」
「会話を続けるのは危険です、迷ってしまったら出られませんから」
お姉さまの言葉が、あたしの頭の中で弾けていく。何を言われているのか、理解するのに数秒の時間を要するようになっていた。
……あたしの意識は今にも眠りにつきそうだったのだ。
「ああ、いけない。みなも。起きていますね?」
僅かに声を出して頷くあたしに、お姉さまは言った。この冥府に繋がる道は人を迷わせる。身体だけでなく、心も。一度迷っては帰ってくることは殆ど不可能だと。
「仕方ありません、一度止まりますわ。さぁ、みなも……これは何だか分かる?」
あたしの冷えた手を、温かくて柔らかなものが包み込む。
「お姉さまの手ですね。……あったかい」
「当たり。では、これはどこでしょう?」
お姉さまの手に導かれて、あたしの掌はより熱を帯びた肉体に触れた。これはどこだろう、と自分に問う。
……そこには弾力があって、あたしの指先を押し返してきた。下に行くほど膨らみを帯びていて、手首の当たる所がふにふにして最も心地良い。
対象に触れながら指を動かすと、中指の先が膨らみの境い目に触れた。その割れたところに人差し指を挟んで、すうっと水を切るように下へ移動させていく。
と、そこから音がしている。とくん、とくん、とくん。指先を伝わって、あたしの心の中へとその脈打つものが入り込んでくる気がした。
「…………お姉さまがいるんですね、ここに」
自分で言ってから、その意味が何なのかを考えている。そうすると意識がだんだんと明瞭としてきて――、
あたしは小さな悲鳴をあげた。
「ご、ごめんなさい。お姉さま、あたし、そんな、触るつもりじゃあ……!」
「分かっていますから、安心なさい。さぁ、行きましょう」
その声と共に、柔らかな身体はあたしから離れて行った。平然と。
――視覚に頼らないお姉さまにとっては、暗闇も昼も同じこと。
お姉さまはどんどん遠ざかってしまうだろう。あたしは置いて行かれないように注意しながら、暗闇の濃くなる方に向かって、そろそろと歩きだす。そして残るのは、寂しい獣の、大きく開いた口の中……。
あたしは身震いして、今度は自覚しながらもお姉さまに甘えた声を出した。小さい子供のような要求が自分でも情けなかったので、もう一気に言ってしまった。
「あの……お姉さま……あたしと手を繋いで下さい!」
あたしとお姉さまが冥府へと行かなければならない理由。
それはお父さんからの依頼だった。
以前“ケリュケイオン”の練習でお世話になったケルベロスさんさんが、新婚旅行で冥府を留守にすることになった。その間、あたしに番犬役を変わって欲しいのだと言う。勿論、あたしは引き受けた。
お姉さまはお父さんからこの話を聞いて、やって来た。冥府の案内をしてくれるらしい。
久しぶりに会ったお姉さまは、やっぱりあたしの憧れのままだった。しなやかな黒髪と闇を湛えた瞳を眺めていると、心が吸い取られてしまいそう。
依頼はきちんとこなさなければいけないけど、お姉さまと一緒に出かけられる良い機会だと思った。
「冥府はもう間近ですわ」
「それなら、もうケルベロスさんさんにならないといけませんね」
「ええ。わたくしが見るのは初めてですから、どきどきしますわ」
「……ぅ。言われてみれば、あたし誰にも見せたことなかったです……」
「大丈夫ですわ、暗闇の中でのことですから」
それって、お姉さまには意味のないことのような気もするけど……。
(でも、ケルベロスさんさんとお父さんから頼まれたことだもの)
あたしはお姉さまから背を向けて、服を脱いだ。
背中の、なだらかな丘へ向けて、粘りつくような視線を感じるのは気のせいだろうか?
(緊張していたら駄目、力を抜かなきゃ……)
ゆっくりと息を吸って、吐いて、吸って、吐いて。
気持ちを落ち着かせてから、あたしはケリュケイオンを身体から出した。杖のかたちをしたそれは、暗闇の中でも輝いていた。
――綺麗。
その貪欲な光は、あたしの本能を掻きたてる。人魚としての能力を目覚めさせ、静かな欲望を作り出すのだ。それは、目の前にあるものの感覚を得たい、同一化したいという奇妙な行動となって。
左のまぶたに溶け込んだ“逆鱗”でケルベロスさんの毛から情報を感じ取り、“ケリュケイオン”でケルベロスさんの感覚を共有し、あたしの肉体を変えていく。付随する肉体の痛みさえ、精神の悦びを伴う。あたしが望んだことだと、本能が告げているから。
――お姉さまの視線を感じる。
今、お姉さまはどんな“あたし”を感じ取っているんだろう?
……痛みと眩暈で立っていられず、あたしはヘナヘナとその場に崩れた。
それから身体を丸め、歪んだ背中と腕の隙間から捩じれた声をあげた。その姿は獰猛な獣というより、ダンゴ虫のように矮小な存在だと、遠くから思う自分がいる。
――お姉さまに見られている。
――あたしはこんな情けない姿なのに……。
ケリュケイオンのせいなのか、あたしの人魚としての本能のせいなのか――変化するときは情熱に任せて呻く自分と、氷のように醒めきって周りを観察している自分の、二人がいるのだ。生温かいミルクを飲まされたような、奇妙な感覚。
――湿り気を帯びたお姉さまの視線は、あたしの身体に注がれていた。可憐にも感じられるケルベロスさんの毛が生えてきた腕から、まだ変化していない髪、滑らかさを失い始めた背中、雄々しく尖ってきたお尻、ずんぐりと太くなっていく踝……。特にお姉さまの関心を引いたのは、尾てい骨から突き出してくる尾っぽだ。生え際が気になるらしく、そこを舐めるように“見て”いる。
「あぁァ……アアアアアア……ァ」
お姉さまの前にも関わらず、あたしの唇から声が零れ出る。
声を抑えるどころか、裂けていく唇の端から溢れる音が大きくなっていく。
呻くのを止められない。それとも、あたしには元から止める気がないのだろうか?
洞のように広がった口内から、人目を憚らない音が出る。あたしは激しく悶えている。それは本能の歓喜の声に思えた。
あたしはまるで、羞恥心を忘れてしまったかのよう。
「みなも、俯いてはいけません」
声のする方へ、あたしは顔をぐっと向けた。口が裂け、今まさに髪を芯に二つの顔を作っているというときなのに、この顔を見てくださいと懇願するかのように。
(一体あたしはどうしちゃったの?)
普段なら、恥ずかしくてたまらない筈なのに。一糸纏わぬあられもない姿だし、人ならざるカタチになっているし、声まであげているというのに、どうして平気でいられるの?
心を覆っているのは、安心感。お姉さまの視線はあたしを喜ばせ、安堵させる。ちっとも寂しくなく、ケリュケイオンを使うときに感じるような恐怖がない。
(お姉さま、みそのお姉さま……)
「あァン……ぅウウウ……」
あたしは左右の顔をこねくり回しながら、お姉さまに笑いかけた。唇の先を釣り上げて。
この姿をお姉さまに見て欲しかった。褒めて欲しかった。小さい子供が作った玩具を家族に見せるみたいに。以前よりは、お姉さまに近づいたんじゃないかって。
(本当に、あたし、どうしちゃったんだろう――)
変化を終えて、お姉さまに毛を撫でられると――やっぱりちょっと、恥ずかしい。
「ふわふわ……いいえ、ふあふあですのね。ふふっ」
(そんなこと言って、あたしは今ケルベロスなんですから。怒ると怖いんですよ?)
そう言い返したいんだけど、あたしは今人間の言葉を話せない。
あたしが表面上大人しいものだから、お姉さまったらやりたい放題。
「背中の毛は“ふあふあ”ですけれど、足の毛は背中より短くて“ふあふあ”ではありませんのね」
「“ふあふあ”でないのなら……“ふさふさ”?」
お姉さま、自分で言ったことにポム、と手を打って。ふさふさという擬音があたしの足の毛にはピッタリだと頷いている。
(そんなの、犬みたいじゃないですかぁっ)
がうがうと獣の言葉で文句を言うあたし。お姉さまには絶対伝わっていないだろうけど。
「では、こちらはどうなっているのでしょう?」
お姉さまの手はあたしの背中を通り過ぎて、お尻へ。
ひゃあっとあたしは心の中で声をあげる。尾っぽは敏感なのだ。
「ん……。“ざらざら”。これはざらざらですわね。這いまわって長い形……癖になる触り心地……」
うっとりとした言い方のお姉さま。そこは大切な部分なのだから他の場所を触って欲しいのに、そんな風に喜ばれたら拒否出来なくなってしまう。
(言葉も話せないし。ううぅ……)
何だか、気の弱いケルベロスっぷりに、自分でも哀しくなる。
こんなことで番犬の役割が果たせるんだろうか。
冥府の地面はぬかるんでいて、歩くだけでも気味が悪い。お姉さまは度々転びそうになって、その都度あたしは背中で受け止めた。
でも道の途中と違って、仄かに明るさがあるのは救いになった。もっとも、ケルベロスさんの身体になっているから、暗闇でも問題ないのだけど。
紫色の沼の前があたしの居場所だそうだ。
あたしは唾液を地面に落しながら、ゆっくりとそこに伏せた。
……うーん、どうしよう。
(ケルベロスさんは冥府から出ようとする者を食らうという話だけど……)
食らうというのも、どうすればいいかわからないけど、要は冥府から誰も出さなければいいんだよね。
沼の底から、小さな泡が浮かんでは消えている。お姉さまはそれを指し、そこにはいくつもの魂が漂っていると言った。
「水の中で死んだ者たちです。地面を歩くことも出来ますが、水中に居る方が心地良いのでしょう。寝ているときもあれば、歌うこともありますわ」
水の中で歌う?
想像してみると、気味悪く感じた沼にも楽しさを感じられた。もっと苦悶に満ちたものだけかと思ったけど、そうでないなら、番犬役も少し気楽になれる。
「上を御覧なさい。大きな影が飛んでいるでしょう?」
お姉さまの言うとおり、黒い、ヒトガタのようなものが空を舞っていた。
「あれは主が死んで自由になった影たちですわ。身軽になったのが嬉しくて、ああやって遊んでいますの」
彼らは真っ黒な腕を上げて、輪になったり離れたりしながら、くるくると空中を移動している。それは楽しそうにも見えるし、持ち主のいなくなった影の寂しさを象徴しているようにも思えた。
――脱走しようとする者はそう現れないものらしい。
前回の反省から、あたしは伏せていても前足との間はギリギリまで開けておいた。お陰で三つの口から流れ出た唾液の湖は、美しい前足の毛を汚さずに済んでいた。湖が大きくならないうちに、あたしは三つの舌で唾液を絡め取った。ぬかるんだ地面は仄かに甘みがあって美味しく、あたしは何度も湖と地面を舐めた。
「ほら、みなも、影達が出て行ってしまうわ」
お姉さまの声に、あたしは慌てた。確かに影達は手を繋いで冥府の境を越えようとしていた。
あたしは咄嗟に口を開いて、ありったけの大声を出した。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
刹那、影達は身体を震わせて地面に落ちた。むくり、と起き上ると全員冥府の奥へと戻っていく。意図して外へ出ようとしたのではなく、遊びに夢中になりすぎただけのようだ。
(怪我がなくて良かったぁ……)
不用意に傷つけたくないもの。言葉で伝えられたら、それが一番良いんだけど。それは無理だものね。
「みなも、ケルベロスさまは爪や炎を使える筈ですけど、使えません?」
あたしは残念そうに俯いた。使えないのだ。
これには二つの理由があって、一つは心理的な理由、もう一つは物理的な理由だ。ケルベロスの身体で動くのは神経を使うので、人間からあまりに離れた行動を取るのは難しいのだ。
「それは困りましたね。せっかくのケルベロスになったのですから……、地面に爪を立ててご覧なさい」
あたしは前足を伸ばすと、思い切り爪に力を込めた。
「……まだ弱いようですわね」
お姉さまの手があたしの前足に乗ってきた。お姉さまは優しく押さえているだけなのに、あたしの筋肉の動きが如実に変わった。長い爪がグッと土の中に食い込んでいく。土ってこんなに柔らかかったっけ、と自分に問いかける。
深く開いた穴の上で爪を眺めてみる。中にはびっちりと土が入っていて、薄暗い中で湿っぽい匂いが広がった。それがまるで美しい夢を見ている気持ちにさせられて、あたしはうっとりとした。
――炎を出してみたら、どんなに綺麗だろう?
「炎も出せる筈ですわ。みなもは今ケルベロスですから」
お姉さまに勇気づけられて、あたしは口を膨らませて炎を吐く真似をしてみたけど、やっぱり炎なんて出てこない。火の“かけら”さえ。
変化しても能力までは引き継げないんだろうか?
何度も三つの口を膨らませたり吐きだしたりしていたら、息が苦しくなってきた。身体から炎を生み出すことはあたしには無理なのかもしれない。擬似的な炎なら以前出せたけど、本物は発生させること自体が一番難しいのだから。炎を発生させることが出来れば、後は口から出るように流れを作るだけだと思うのだけど。
(でも、出来たところで人に使う気になれないものね……)
気が沈んで、尾っぽを下げるあたし。お姉さまはケルベロス相手と言うよりは愛犬を慰めるように、あたしの三つの頭を交互に撫でながら言った。
「そんなに落ち込んではいけませんわ。炎が出せなくても、みなもなりに番犬役をこなせば良いんですもの」
くうん、と一鳴きするあたし。
(あたしなりに、かあ……)
頼まれたのはあくまで番犬なのだから、相手を傷つける必要はない筈だ。
それなら、あたしに出来る方法で脱出者が出ないようにすれば良い。
あたしは一時間に一回、警報を鳴らすことにした。
三つの口から連続して唸り声を発して、冥府を覆うのだ。
「ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウン!」
「ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウン!」
「ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウン!」
これは冥府を出てはいけないこと、もし出ようとするなら実力行使に出ることを伝えるためだ。もし「外に出てみたい」と思った人がいても、この唸り声を聞いて考えを改めてくれるかもしれないからだ。
それでも冥府から出ようとする者はいる。
するとあたしは怒気を帯びた声をあげる。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
三つの顔から同時に咆哮するのだ。最後の警告として。
影達は大体ここで諦めてくれる。
――ところが、中にはそれでも出ていこうとする者もいる。
あるとき、一匹の大きなカエルさんが冥府から出て行こうとした。
あたしは咆哮したが、相手は聞き入れない。
おそらく、爪や炎を使うべきときだろう。
でもあたしは、全身の筋肉に力を入れて飛び上がると、跳ねていたカエルさんを中央の口でキャッチした。
牙には力を入れずに長い舌で絡め取り、毛布のように包み込んでカエルさんに傷がつかないよう保護する。そして沼へ離してあげる。おそるおそる沼の中に身体を浸して、こちらを怯えながら見上げるカエルさんに、あたしは深く頷いた。
――もう出ようとするのはやめてね。
その思いを、カエルさんは受け取ってくれたんだろうか。くるり、と後ろを向いて沼を泳いで去って行った。
(伝わった、のかな)
あたしは元にいた場所に戻ると、また憮然とした表情を作って番犬を続けた。
「それで良いんですわ。例えどうなっても、みなもはみなもですもの」
お姉さまの柔らかな胸が、あたしの背中に押しあてられる。顎の下から腹部まで指で撫でられて、あたしは夢心地になりながら、表では厳しい顔をしなければならない。
それは大変なことだけど、誰かを襲うよりはずっと簡単なことだ。少なくともあたしにとっては。
お姉さまはあたしの耳元で囁く。
「優しいケルベロスさま、もしわたくしがここから出ようとしたら……。わたくしは先ほどの殿方のように、舌で包まれるのでしょうか? こんな風に…………」
お姉さまの温かな舌先がゆっくりと耳の中に入ってくる。
あたしは厳めしい表情は崩さずに―― 一瞬だけ、身を震わせた。
終。
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