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【 偽りの夜に心は温かく 】
困った。
困った。
困ったよぉ………。
見つからないよぉ………。
どうしよう?
どうしたらいいんだろう?
どうしたらいいと思う?
どうすればいいんだろうね?
わかんないよ、そんなの。
しくしくしくしく。
皆そっくりの顔に、同じ髪型、同じ着物、同じ肌の白さ。同じ表情。
水を満面に湛えた金魚鉢の中で金魚たちがくるくるくると皆で泳ぎ続けるように、その子たちは夜の街の中を連なって駆け抜けていく。
駆け抜けていく子どもたちの足は決して速くなく。けれども、まるで闇の中ではその子たちは生きてはいけぬかのように、光りが届かぬ場所では姿が花の蕾が閉じるように消えて、明るい街頭の中では花が咲き開く様に掻き現れる。たとえ見失わぬ様に気を付けたとしてもそれは儚い努力で人の目ではその童たちは追いかけられぬ。
人込みの中に現れては、上手に人と人との間をすり抜けていく。
そして、奇異な事に大人の目には童たちは見えてはおらず、時折幼い子どもたちだけがその童たちに気づいたようだった。
皆して同じ顔、同じように髪を揺らして、同じ表情で、同じ肌の白さで、同じように着物の裾を肌蹴させて、童たちは困った、困ったと言いながら、街中を駆け抜けていく。
都会の雑踏。眠る事を知らない新宿のネオンの海を同じ模様をしたサカナたちが泳いでいく。
―――偽りの夜に心は温かく―――
【1】
9月の終わり。
耳に届く蝉の鳴き声は油蝉からツクツクボウシに代わったけれども、まだ暑さは厳しく、残暑と言えどもその暑さは真夏日のそれ。
うだるような暑さに辟易としているのは人間だけではなく猫も同じようで、いつも自由気ままにキャットウォークを歩いているモデルの様に足取りの軽い猫もその足は重そうだった。
だれている尻尾が言葉よりも雄弁にその猫の心情を物語っている。
コンクリートの壁にぺったりと背中をつけて制服の生地越しに身体を冷やしていた優名も自分のかわいらしい格好は忘れて、その猫の姿に思わず同情のため息を漏らしてしまう。
「この暑いのにあなたも毛皮を着て大変ね」
猫は足を止めて、紫紅色のつぶらな瞳を細めて、優名を見上げて、じぃーーーーと10秒ほど見ていたかと思うと、そのまま行ってしまう。
猫のつれなさに優名はわずかに肩を竦めた。
―――のはその時だった。
猫の得意技は涼しい場所を見つける事なのだよ、優名ちゃん♪
それはきっとシャボン玉のように儚くも切ない、けれども確かに限りなく美しいこの世の奇跡。縁という繋がり。
白い小さな手。細い指先でそっとコンクリートを押して、自分の足で確かに立つと、優名はふいに、そう本当になぜだけ自分でもわからないのだけど、その猫の後についていってみようと思った。
そう。これは気まぐれだ。
気まぐれ屋の猫に気まぐれでついていく。
そんな戯れにこの放課後の時間を使ってもいいじゃないか。
長いようで短い高校の三年間。
いつかOLになって、電車の中で爽やかに笑う眩しい女子高生なんかを眺めながら、ああ、自分も歳を取ったなー、なんて想いながら、けれども女子高生の時の自分って、気まぐれに猫なんかを追いかけて、可愛らしかったなー、なんて思い出して、それをお洒落なカフェで高校時代の友達たちなんかと話して笑いあったり、雰囲気が良くて、お料理が美味しくて、カッコいいバーテンダーが優名、なんて自分の名前をつけてくれたカクテルなんかを飲みながらその時に付き合ってる未来の旦那様候補の優しくて素敵な彼氏に話して、その人はとても穏やかに笑いながらバカだなー、なんて言って、それで自分は可愛らしく頬なんかを膨らませて………。
そんな感じでいつか必ず来る…遠いようできっと、近い未来に想いを馳せながら、本当に、本当に、そう、本当に何の理由も無い気まぐれで、優名は、その猫の後をついていく。
【2】
そこは校舎裏。
日陰はとても涼しくて、
校舎の裏にある竹林を渡って吹いてくる風は、どこか優しい匂いがして、
校舎裏なんていう言葉からはまるで想像できない快適な涼しさに優名は満面の笑みを浮かべた。
猫がじぃーと細くした眼で見てくる。
だから右手の人差し指いっぽん、きゅっと引き結んだ唇の前に持っていって、優名は微笑む。
はい。ここはあなたとあたしだけの秘密ね。
猫はにゃぁー、と鳴いて、その場に伏せて、どうやら寝始めたようだった。
優名は両手の指を組んでんー、と背伸びをする。
吹奏楽部の音楽も、校舎内からする居残り組みの生徒たちの声も、運動場から聞えてくる運動部の掛け声も、それらはいつも聞いている日常の学校の音とはどこか違って聞えて、まるでここはいつもの学校の空間とは切り離されているようで。
どこか遠い場所に自分が来てしまったようなそんな感傷に浸ってしまう自分の繊細さに軽く自分でも驚いて、そしてどこかそんな自分を抱きしめてしまいたくなる。
今まで自分が他の同世代の子たちと違うなんて思った事も無かった。良くも悪くも普通の子。それが自分に対してしていた自己評価だったのだけど…。
嫉妬なんてしない。自分を卑下もしていない。寂しさも、…………感じてない。
なのに………。
見上げた空は夕暮れ色に染まろうとしていた。
まだまだ残暑は厳しいのだけど、けれども世界は本当は少しずつ秋色に染まってきている。
そうだ。冬の夕方は意味も無く寂しくなる。肌寒さが人の気持ちを弱くする。
だから、自分もちょっと心が風邪を引き始めたのかもしれない。季節の変わり目には風邪を引きやすいものだから。
校舎の中に戻れば、中庭に行けば、教室に行けば、そこはいつもの日常。
心はきっと、きゅっと小さくしていた身を広げて、深く深呼吸して、いつもの自分を、取り戻せる。
明るい、日の当たる場所に。
あなたも風邪を引かないようにね。
気持ち良さそうに眠っている猫にそう挨拶して、優名はそこを後にしようとして、そしてそれに気づいた。
そこに咲くたんぽぽの綿毛に似た七色の花。
さらりと揺れて額にかかる前髪をそっと右手の人差し指で掻きあげて、小首を傾げた優名はその花へと足を向けた。
それはたんぽぽの綿毛にも似た花というよりもたんぽぽの綿毛そのものだった。
けれども、
「たんぽぽじゃないよね?」
それは七色、虹色に輝いていて、風に揺れるたびにその色が変わっていく。それは本当に綺麗なものだった。
ふぅーと息を拭きかければ、それはたんぽぽのように、きっとその綿毛を飛ばすはず。
―――出来心だった。
キスをするように唇を花へと近づけて、
そっと、息を拭きかける。
別に校舎裏に根をおろした、望まざる場所に咲いているようなこの花に同情とかをしたのだとは思わない。この場所だからこの花は咲けたのかも知れないし、この場所でも咲けている。
だから、本当にそれは出来心だったし、
そして後になってこの時の事を思えば、それはきっと必然だったのだと優名は思う。
花は綿毛を飛ばし、風に乗って、橙色の空へと昇っていった。
【3】
童たちから神様へのお届け物。
それは神様が戯れに飛ばして遊ぶ物。
例えば優しさを込めて飛ばせば、それは運の良い人間にとって奇跡となる。
例えば悪戯心を込めて飛ばせば、それは運の悪い世界に珍現象を起こす。
例えば悪意を込めて飛ばせば、それは運の悪い世界に争いを生む。
例えば願いを込めて飛ばせば、それは命となる。
それはそんな物。
それは、たんぽぽの綿毛にも似た花で常に七色に輝いている。
そっと息を拭きかければそれは簡単に世界に散る。
息を拭きかける瞬間に込めた想いの種となる花。
それは、そんな花。
部屋の扉がノックされた。
時計を見ると午前2時を回っている。
優名は刺繍をしていた手を止めると、立ち上がった。
昼間、学校の図書館で借りてきた刺繍の本に載っていた課題にチャレンジしていたのだけど、それがあまりにも面白かったのでついつい時間を忘れてしまっていた。
本当に刺繍は、
「時間泥棒さんだわ」
きっと寮母さんがこの時間になってもまだ起きている優名を心配してきてくれたのだろう。夕飯はいつもの半分も食べていなかったから。
「すみません。寮母さん」
がちゃりと鍵を開けて扉を開くと、しかしそこに立っていたのは寮母ではなかった。
「白さん?」
ほやりと笑った白の顔は本当に人の良い優しい笑顔だったけれど、
「きゃぁ」
優名の方はそういう訳にもいかない!
あわててパジャマを着ている身体を部屋の扉の内側に隠して顔だけを覗かせる。
こんな時間に何の予告もなく若い女の子の部屋を訪ねてくる男の顔を優名は上目遣いで見据えた。お説教モードである。
そもそもこの寮は女子寮で、男性はたとえ生徒の家族であっても玄関までしか入れないはずなのに。
可愛らしくパジャマを着た身体をドアで隠しながら、きっと上目遣いで睨む優名に白はけれども、その少女の照れに気付く素振りも見せずただただ不思議そうに双眸を瞬かせた。
そんな彼に優名は深くため息を吐き、
「もういいです。それよりも白さん。あなた、どうしてこんな時間に女の子の部屋に?」
ぷりぷりと怒りながら言う優名。
「えっと…」どうして自分が怒られているのかわからず、困ったように頭を掻きながら、「えっとですね。優名さんをご招待に」
優しく微笑みながら白は優名に右手を差し出す。
今度は優名が眼を瞬かせる番だった。
「それってえっと、」
頬を真っ赤に染めながら優名が言葉を探していると、
「学校のグラウンドで同窓会をしているんです。そこに優名さんも来てください」
「同窓会、ですか?」
きょとん、と小首を傾げる。これはまた奇怪な。何故、こんな時間に同窓会なんて。
白が何故か男子禁制のこの寮に入れている理由とか、そういうのは忘れて、新たな謎に頭を悩ませた優名だけど、しかしそれもわずかな間だけだった。
「ふぅー。まあ、この神聖都学園はそういう場所ですもんね」
確かに神聖都学園で起こる不思議な事はただそれだけで納得できる。
小さく肩を竦めて、それから白の差し出した右手を一度見てから視線をほやりと微笑む白の顔に移すと、
「待っていてください。今用意しますから。ただ、」そこで優名はとても可愛らしく悪戯っ子の表情を浮かべて言った。
「何の約束もなく女のこの部屋に突然やってきて、女の子を誘うんですから、ちょっと長めに待たされる事ぐらいは覚悟してくださいね。白さん」
【4】
夜の学校にはこれまでだって何度か来た事はあるけれども、でも今、目の前にある学校はこれまで見た事のあるどの学校とも違って見えた。
そこにある風景は、なんだかとても懐かしい物のように思えた。確かに初めて見る風景だったのに。
グラウンドの真ん中には焚き火があって、その周りをたくさんの人が囲んでいて、その人たちはお酒やジュースなんかを紙コップに入れて、それで白いお皿に乗せられたおにぎりやサンドイッチなんかを食べている。
彼らは優名を見つけると優しい笑みを浮かべながら手招きをする。
果たして、本当に自分はそこに行っていいものなのだろうか?
優名は幼い娘が親を頼るように隣の白を見た。
白はこくりと頷いて、優名の背中をそっと押す。
優名はまるで最初から優名のために取っておかれたような場所に腰を下ろした。
隣の女性はショートカットの髪の下にある利口そうな貌にクールだけど温かみのある笑みを浮かべると、自分の持っていた皿の上にあるサンドイッチを優名に差し出してきた。
にこりと笑う顔が大人の余裕を感じさせて、その表情に優名は思わず見蕩れてしまう。
手に取ったカツサンドイッチを一口。さくっととても美味しく揚げてあるカツや、辛子とソースの味がとても美味しくって、思わず、
「美味しい」と素で優名は呟いてしまった。
―――そういえば前もこんな事があったような気がする。
そう。前にも誰かが独りで教室の片隅でカツサンドを食べていて、それで、優名があまりにもそれが美味しそうだったから見ていたら、その誰かがカツサンドをくれて、それでカツサンドの感想を口にしたら、
その子は今、目の前に居る人とそっくりの可愛らしい照れた笑みを浮かべて………。
それから優名は火を囲むたくさんの人たちの話を聞いて回った。
その人たちの語る可愛らしい女の子との想い出を。
そして最後の女性と語り合って、それで、
「暑くなったらさ、猫の後を追うといいよ。あいつら、涼しい場所を見つける事に関しては天才だからさ」
ウインクした女性はくすりと笑いながら肩を竦めて、それで優名の手と腰に手を回して踊りだす。
いつのまにか軽やかで明るいダンスの音楽が流れて、それで、ふたりでお辞儀して、また次の相手と交代して踊りだす。
そうやって皆と踊って、踊り終わると、もう明方だった。空は白み始めて、どこかから鳥の鳴き声もしだす。新聞配達のバイクの音も急に現実感をこの不思議な空間に与え始めた。
そう。わかっている。これがただの同窓会なんかではないことは。
いつもの、神聖都学園なのだ、この現象は。
最後のひとり、あのカツサンドをくれた女性の手を優名が離せないでいると、彼女はそっと自分から優名の手を解き、
そうして優しく微笑みながら声は無しで、唇だけを動かして優名に元気でね、と伝えると、その姿を虹色に輝く綿毛へと変えて白み始めた空へと昇っていく。
他の人たちもそれは同じだった。
皆、優しく微笑みながら虹色に輝く綿毛へと姿を変えて、空へといってしまう。
それを優名は地上に、神聖都学園に立って見送るしかできなくて。
ただただ今夜のこの現象の意味なんてまるでわからないで、
それでも自分にとって今夜のこの現象はとても大切な事だけはなんだかとても矛盾しているけれどわかって、
とても大切で、
でも、何だか自分だけが置き去りにされたようなこの状況がとても理不尽な事のように思えて哀しくて、
それで…
それで…
それで…
ぼろぼろと涙を零して、幼い子どものように手でそれを拭って、
そんな自分の隣に白はただ黙って居てくれて、
それに甘えて優名はしばらくの間、ひとり、ぼろぼろと涙を零しながら泣いていた。
胸に咲いたとても温かな思い出という名の夢の花を抱きしめて。
― fin ―
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