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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


ドリップ


 ――『虚無の境界』
 それは、世界人類の滅亡をはかる狂信的なテロ組織だ。
 元々、二千年の終末論が流行を見せた頃、その時期に大量発生した終末論を掲げるいくつかのカルトの中から、あまりにも急進的かつ狂的な思考を持ったが故に排除された者達が集まって造りあげたものだ。
『人は一度滅び、新たなる霊的進化形態を目指さなければならない。全人類が死に絶えた時、人類の霊的パワーが全て霊界に集められる。その時に起こる霊的ビッグバンによって、新たに完全な人間が転生する。その時こそ、人は真の安楽の世界を得られる』
 それが組織の強い信念であり、外部の者達にとってはただの妄想でしかない。
 だが、実際に虚無の境界が世界を破壊した場合には、ほぼ全てが実現しうるので、妄想を信じているわけではない。
 現在、大規模なテロに打って出た虚無の境界は、協力者を外部にも求めている。
 大義を理解する者はもちろん、傭兵や殺し屋といった仕事の内容を問わず金で動く者や、破壊や殺戮に快楽を感じる者、世界に絶望している者、何らかの形で虚無の境界と利害が一致する者、または虚無の境界を利用するつもりの者など、手当たり次第に――。

 ここは『虚無の境界』に密接な関係にある兵器研究所で、突出した頭脳を持つ者達が集まっている施設だ。
 外界との接触を遮断するかのように郊外にひっそりと佇むその施設は、ひっそりという言葉が似合わないほどに物々しい警備体制が敷かれていた。
 無関係の者の立入は禁じられ、必要物資の納入さえも徹底的に管理されている。ここで働く者達は、プライベートな行動も上層部から監視されていることだろう。
 ――決して外界に漏れてはならない研究が、ここでは行われているのだから。
 科学、化学を始めとした各種学問、そして錬金術や魔術。
 それらの知識を究めた者達が、最新機材と古来よりの魔術とを絡み合わせて禁忌の領域に足を踏み込んでいる。
 それは、ホムンクルスやキメラを始めとした「人工的」な生命や、生体兵器の「開発」、「生産」であり、それらに伴う新薬の人体実験などだ。
 ここではそれが当たり前のように行われ、何かが成功する度に生命の形が歪められていく。そして、それによって人間と神の領域との境を曖昧にすることで、『虚無の境界』の掲げる「霊的進化形態」を確実なものへと押し上げていくのだろう。
 もっともこれは推測でしかないが、研究に没入する者達の中には『虚無の境界』などどうでもよく、純粋に研究者としての生に関するタブーへの好奇心――それを実践できる場所がここだった、ただそれだけの者もいるかもしれない。
 あらゆる思惑と欲望と思念の渦巻く研究所の中で、生まれ出でる「生命」らしきもの。
 彼等はここで、「生きて」いく。
 そして青霧・カナエもまた、この研究所で生を受けたホムンクルスのひとりだった。


「カナエ、このファイルを片付けてきてくれるか」
 奈義・紘一郎がそう言ってファイルを手渡すと、カナエは素直に従った。
 受け取ったファイルに自分のことが記されていることを知っていても、それを見たいとは思わない。ただ、奈義の命令に従うだけだ。このところずっと、カナエはそうしてきているのだから。研究所に関する指示以外で動くことに抵抗もない。それは奈義が研究所の人間だからだろうか。
 つい先日まで、自分の部屋から指示なく出られなかったのが嘘のようだ。こうして特別に許可を得て、奈義の研究室があるフロアと自由に行き来できるようになるとは、一体誰が想像しただろう。
 自分の知っている「世界」はあまりにも狭い――地理的ではなく、主に知識的な意味でだが。しかし、ここと行き来できるようになったおかげで、随分と世界が広がった。
 世界はこんなに広かったのかと……思うほどに。もっとも、それでもまだ狭いのだろう。
 カナエはちらりと奈義を盗み見て、彼に関する情報を脳内で整理する。
 奈義。
 奈義・紘一郎――。
『虚無の境界』の息がかかるこの研究所で、生物兵器の開発をしている男。
 この部屋は彼専用の研究室であり、最低限の家具しかないカナエの部屋とは対照的に物が多い。機材やコンピュータの類は定位置にあるものの、それ以外のものは散乱し、慣れなければ室内の移動も困難だろう。カナエはもう慣れてしまっていて、何を踏んで良いのか、何を避けるべきなのか、全て把握していた。
 カナエが掃除をしても、一時間後にはすぐに元の有様に戻ってしまう。どうすればここまで散らかすことができるのかわからないが、奈義はその散らかった部屋でどこに何があるのかちゃんと把握しているあたり、散らかしてしまう理由がそれなりにあるのかもしれない。
 一見すればさえない四十男の彼は、眼鏡をかけ、よれよれの白衣を着ている。がっしりした体格がそれによって殺されてしまうほどだ。結婚歴は無く研究一筋に生きてきたらしく、冷たいのか優しいのかよくわからない性格をしている。要は気まぐれであり、わがままであるのだが――カナエには、まだそこまでわかっていない。
 先だって、カナエは失敗作のキメラを排除する指令を受けた。そしてそれをこなしたあと、何故か奈義はカナエを気に入ってしまい、こうして自分の傍に置いて雑用などをさせているのだ。
 それは、気まぐれなのか、わがままなのか、それとも……一体。
「何を見ている」
 奈義はカナエを見ずに言う。「見ている暇があったら、コーヒーでも淹れて来い」、無精ヒゲを撫でつけながらそう付け加えた。カナエは頷き、逆らうことなく従う。
「奈義サン、うちの子をあんまりいじめないでね? 俺の元を離れた子のことをうるさく言うつもりは無いけど」
 ふいに部屋に響くその声は、伊武木・リョウのものだ。奈義とは正反対に、爽やかな印象さえ人に与える青年。
 人当たりはとても良いが内面は計算高く、腹黒い。表向きは誰にでも優しく接するものの、研究以外のことにほとんど関心を持っていないらしい。過去に異能ホムンクルス培養チームに在籍し、プラントをつくることに成功、培養実験の際に自分の遺伝子を提供している。また、普通の人間に後天的な異能の能力を与えるための研究も行っており、最近はそれを専門としているそうだ。
 カナエは自分が知っている限りの彼の情報と、奈義から聞かされていた彼の内面を組み合わせて思考する。ドリップしているコーヒーの香りが鼻腔をつき始めた。そうだ、伊武木の分もカップを用意しなければ。カナエはゆるりと棚に手を伸ばした。
 伊武木の研究チームで生まれたカナエにも、当然彼の遺伝子の一部が組み込まれている。
 ホムンクルス――この研究所のための、存在。
 ここから出ていくことなど有り得ないし、この研究所以外のために生きることなど有り得ない。
 誰かによって造り出され、誰かの遺伝子を受け継ぎ、かといって母などという存在の意味はわからない。
 遺伝子がなんだというのか。
 胎内から産まれなくとも、誰かの遺伝子を有する。かといって、厳密に言えばクローンとは違う。
 その生さえもねじ曲げられ、誰かの道具として、意思さえもなく。
 倫理というものは存在しないのだろう。壊れれば、用無しとして処分されるだけに違いない。
 その時までずっと、同様にして作られた兵器であるキメラを倒し、時には人体実験のモルモットになり、忠実に指令を果たしていく。
 それが、カナエ。
 それが、ホムンクルス。
「はっ。何を言ってる、伊武木。カナエの頭ン中を弄って、記憶を植え付けたり消したりを繰り返し、散々新薬の実験台にしたお前が言う台詞なのかね」
 奈義の、いつもより高い声がカナエの耳に届く。カナエはハッとして顔を上げた。もっともその反応は極めて小さなもので、誰も気付きはしないだろう――カナエ自身でさえ。
 自分は今、思考の渦に堕ちていた。何を考えていたのかはもうわからないけれど、奈義と伊武木に思考が向いていたことだけは確かだ。研究所の指示に従うだけの自分が、ほんの僅かではあるが不可解な行動に出ていた気がする。
 それに、奈義の言葉の意味がわからない。
 ――僕の頭の中を弄る? 記憶を……なに……? 実験……台……?
 わからない。わから、ない。なにも、しらない。
 しかしカナエはすぐにその思考を消し去ると、目蓋にかかるフードを指で押し上げ、ドリップの状況を確認した。
 ……まだ、あと少し。

「俺の実験の成果で随分と使えるホムンクルスになったのは事実でしょ」
 伊武木はカナエを舐めるように見て、肩を竦めて笑う。その眼差しには得も言われぬ感情が込められており、奈義は直視しないようにした。
「カナエには戦闘に役立つデータも随分と叩きこんでおいたからね」
 そう続ける伊武木。そんなことは言われなくても充分わかっていると言いたげに、奈義は鼻で笑う。
 先だってのキメラとの戦闘。
 そこで見せた彼の動き、能力、戦闘に関するセンス。
 それらは伊武木から嫌というほど叩き込まれたものだろう。だが、と奈義は声に出さずに呟く。
 ――本当にそれだけとは、思えないがな。
 カナエ本人の「意思」があるかどうかはわからないが、自分に従うカナエの立ち居振る舞いから伊武木の気配は何一つ感じない。
 それの意味するものは何なのか。
 造られた命であるカナエは、何を思うのか。
 これはロボットに感情が芽生えるかどうかの問題に似ている気がするが、根本的に違うのは機械か否かであるところだろう。カナエはロボットではない。では何かと問われれば、人間とは言い難い。
 彼を知らない者が見れば、人間だと言うだろう。
 だが、彼に関するデータを知る者は回答に窮するはずだ。それでも「人間」だと言う者もいるだろう。そして自分は……果たして彼をどう扱うのか。彼は、どうなっていくのか。
「……興味深いところでは、あるな」
 奈義は思わず言葉に出してしまう。
「なにが」
 伊武木が眉を寄せて身を乗り出すが、奈義は「なんでもない」とやや大仰に首を振った。
「まあ、せいぜい大事に使わせてもらうさ」
「大事に……ねぇ」
 微かに苦笑する伊武木。何をどう大事にするというのだと言いたげだが、問われたところで奈義は答えるつもりもない。
 彼等の元に、コーヒーの香りが届き始めた。

「愛情なんてないけど、殺していい命だとは思ってないから」
「それって矛盾してないか」
「……さあ」
 どの言葉が、どちらの言葉だろう。
 手に持ったトレイに視線を落としていたカナエには、わからなかった。声で判断がつきそうなものだが――この時ばかりはどうしてかわからなかった。
 愛情。
 殺していい命だとは思わない。
 矛盾。
 自分には、ほとんど縁のない言葉に思える。
 だけれど、なぜ思い出すのだろう。自分が倒したキメラのことを。
 命って、なに。
 わからない。わからないけれど、今ここで会話をしている彼等には自然な命があり、そして自分は造られた存在だということだけはわかる。
「二人分淹れてくれたのか、お前にしては気が利く」
 この言葉が奈義のものではないことに気付くと、カナエはまた思考の渦から現実に引き戻された。
「俺が教えた。来客にも茶を出せってね」
 どこか優越感を湛えた表情で奈義が言うと、伊武木は「ふぅん」と抑揚なく頷く。だがその視線はカナエにねっとりと絡みつき、嫌な熱を帯びていた。
「じゃあ、来客の俺に、先に出してくれるわけだ」
 今度は伊武木が優越感を湛えた笑みを浮かべる。しかしカナエは――。
「どうぞ」
 奈義の前に、カップを置いた。
「愛情なんてないけど、殺していい命だとは思ってないから」
 微かに口角を上げて奈義が言う。
「それって矛盾してないか」
 伊武木がようやく置かれたカップを見て頬を引き攣らせる。先程と似たやりとりが、そしてコーヒーの香りが、散らかった研究室に浸透していく。
「……さあ」
 ――その声は、奈義とカナエから同時に漏れた。



   了