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【Angel Fingertip】〜1
長い回廊に響くヒールの音。中庭から差し込んでくる午後の日差しが美しい明暗の影を廊下へいくつも作っていた。その中を一人のシスターが颯爽と歩いている。
開いたスーツの胸元には、聖職者とは大きくかけ離れた印象を与える豊満な胸が押し込まれていた。眩しいほどに白いブラウスのレースが、谷間の上であざとく風に揺れている。
背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見据えた菫青色の双眸に重厚な扉が映ると、シスターは右手を上げてノックした。神経質にも思える音が天井から跳ね返る。
ややあって中から返事があり、彼女は重い扉を開いた。
質素、清貧という表現がふさわしいその部屋はシンプルかつ機能的な家具ばかりが誂えてある。ごてごてと装飾されていないだけで、価値だけを取って見れば誂えてあるそのどれもが高価なのだけれど、革張りの椅子に腰掛けている彼女の上司だけは<教会>とは少し一線を画した厳しい男だった。
男は無言のまま机の上に一枚の紙を置くと、ついと指先で彼女へと差し出す。
「……」
シスターもまた眉一つ動かすことなく、その書類を手に取り、読み耽る。
書類には、標的名“鬼鮫”と男の特徴がつらつらと書き留められていた。
鬼鮫のことは耳にしていた。教会に敵対している愚者であること。彼がこれまで行ってきた悪逆非道の行為、それらすべてを――。だがなぜだろう。その名を目にした刹那、白鳥の全身に怖気が走った。
「武装審問官、白鳥瑞科に命ずる。その男を抹殺せよ」
上司は端的に感情の篭らない声で言い放った。
暖かな日差しとは真逆の冷たい声。だが白鳥は表情を崩すことなく頷き、書類を上司へと突き返した。
「良い報告をお持ちして帰還いたしますわ」
にこり、と白鳥は微笑んだ。菫色の瞳を愛らしく細めると、その秀麗な造作の顔を傾け、膝を曲げて一礼すると、そのまま退出した。
陽光差し込む部屋に、教会の鐘が重く鳴り響いた。
中庭では、白鳥とは違うごく普通の教会関係者たちが他愛のない会話を楽しんでいた。それを横目に、白鳥は着替えの為に自室へと向かう。
清楚なシスター服を視界の端に留め、自らの戦闘服を思った。
と共に自らに課せられた指名を――。
「わたくしは武装審問官ですもの。彼女たちとは違うの。絶対正義に仇なす者を滅することこそ使命……」
跋扈する魑魅魍魎だけでも始末が悪いのに、それらを殲滅することを正義とする教会に敵対する存在があるのも事実であり、それらもまたターゲットだった。
平和的に教会へ奉仕するシスター達を羨むことはあったが、白鳥自身の任務に対する誇りは並々ならないものがあった。それが己の存在意義であるという、強い意思だ。
部屋に戻った白鳥は、無造作にスーツを脱ぎ捨てた。
古い木製のスツールに上着をかけ、下着だけになる。鍛えられた脚はよけいな肉こそないが、女性らしい丸みは残っており、うっすらと染まる桜色に上気した肌は出撃前で彼女が興奮状態にあることを示していた。
長い琥珀色の髪が背を撫でながら揺れる。
素足で部屋の中を移動し、大きな姿見の前を通り過ぎた。括り付けのクローゼットを開けた白鳥の動きが止まる。
大きく息を吸った彼女の肩が上下に揺れ、二つの小山もふるりと震えた。
しっとりと肌が湿り気を帯びる。少しばかり汗が滲んでいるようだ。
「シャワーを浴びようかしら」
ふと思ったが、速やかに任務は遂行したかった。
滲む程度の汗ならば放っておいても大丈夫であろう。どういうわけか、白鳥の汗は不思議と甘い芳香を湛えていた。戦闘の際など、敵を魅了することさえあった程だ。
持って生まれた能力なのだろう。白鳥の美しさはなにも発する香りだけではなく、その肢体すべてが毒であり――罪そのものだった。微笑も些細な仕草も、彼女が元々備えていた“美”がもたらす副産物であり、戦闘を優位にする為の空間支配には絶対的な効力を発する。
小さな引き出しからコルセットを取り出し、素早く身に着ける。大きな胸をしまい込むにはコルセットは小さく窮屈だったが、戦う上ではそのくらいでちょうどいい。細くくびれた腰の上で、収まりきらない柔らかな胸が意図せず強調された。浮かぶ汗が真珠のように彼女の胸元を艶かしく飾る。
ニーソックスを器用にくるくると太腿まで伸ばす。少しきつめのそれは白鳥の肌に食い込んだ。いつものことだが、戦闘が終わると大抵ニーソックスの跡が肌につく。白い肌に浮き上がる赤い線を、白鳥は気に食わなかったがそれも致し方ないことと、今では諦めていた。
白鳥の任務は暗殺であり、その動きを軽妙かつ柔軟にこなすには多少の拘束は否めないのだ。
その結果、彼女の肌に痕跡が残るのはいたましいのだが。
ソックスの上部に指を挟み込み、パチンと弾かせる。少しの歪みやよれがあっては支障をきたすからだ。弾いた勢いで痛みが走り、白鳥はほんの少し瞳を眇めた。
編み上げのロングブーツを持ち、彼女の為に設えられた戦闘用シスター服を腕にかけてベッドへ向かう。
麻の掛け布が掛けられたベッドの端に腰を下ろし、ブーツへと脚を差し込んだ。
白鳥の脹脛にぴたりと嵌るように誂えてある為、履く際はかなり苦労する。片足を軽く持ち上げて一気に膝まで持ち上げなければならない。
左、右と順にブーツを履き、最後に紐を固く結べば終わりだ。
一枚布でできたシスター服に袖を通す。深く入ったスリットから覗く足には、ニーソックスが拘束具のように白鳥の足に食い込んでいた。
長い髪を持ち上げ、背中にある留め具を嵌め、ようやく白鳥が安堵の溜息を吐いた。
グロスを塗ったように濡れた口唇から零れた溜息は、やがて視線を窓の外へ向けさせた。白鳥はグローブを手に取り、窓へ顔を近づけた。
吐かれた息でガラスが曇り、憂いに染まる白鳥の顔を映しこませる。
「どうしてかしら」
白鳥が呟いた。指先を胸に宛がい、瞼を固く閉じた。
これまで一切の失敗はなく、すべての任務は完璧にこなしてきたはずなのに今回ばかりは不安が拭えない。
胸が震えている。小さく、小さく。まるで寒さに震える雛鳥のように――。狼に怯えて息を殺す子羊のように――。
すうっと太陽が翳った。
空を見上げ、白鳥はその赤い唇を噛み締めた。
「だいじょうぶよ。いつもと同じ。わたくしは失敗などしないわ。だからもう震えるのはよして」
自らを鼓舞するように、祈るように合わせた両手で口元を覆う。
任務の成功を祈ったか、無事帰還を祈ったかは定かではないが、伏せた長い睫が空を向いた時の彼女の双眸に、一片の迷いもなかった。
白鳥は剣を握り、小高い丘に立っていた。
通る風が彼女の長い髪を何度も嬲り続ける。眼下に朽ちかけた館を見据え、一歩を踏み出す。
スリットを大きくなぞるように戦闘服の裾が風に舞った。
勝利を確信した大きな瞳に炎を滾らせて地を蹴った。
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