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<東京怪談ノベル(シングル)>


聖女たり得る者 足元の、小石

 情報部の能力は、仲間としての贔屓目を排除したとて、優秀だ。
 人気の費えた廃墟。隠れるにはうってつけの場所ではあるが、だからこそ、見つけるのには骨がいっただろう。何せ相手は「連続」殺人犯。これまでの追跡を逃れてきたゆえの、犯行。己や周囲の行動には細心の注意を払い、易々と尻尾を掴ませることはせずにきただろうことは、考えずとも窺える。
 だが、見つかってしまえば、それまでだ。所詮は己の衝動さえ律することの出来ない低俗な存在。こそこそと逃げ隠れることしか出来ない者に、何を臆する必要も、ない。
 それが、鬼鮫と相対した瑞科の胸中であった。
 凛とした態度で佇み、真っ直ぐに鬼鮫を見据えた瑞科は、緩く柔らかく釣りあがった口角を持つ艶やかな唇を開き、麗らかな春の陽光を思わせる温かみを帯びた声で、囁くように告げた。
「降伏なさいまし。今ならばまだ、命をとることはいたしませんわ」
 優しく訴えかけても、鬼鮫はきつく寄せた眉間の皺を一層深くするばかりで、応じる気配を見せない。
 肩を竦め、瑞科は続ける。
「人の命を奪ってきたのでしょう? 見てきたはずですわ。誰だって命は惜しむもの。貴方だって、神に賜った貴重な命をむざむざお捨てにはなりたくないのでは?」
「全く、良く喋る女だな」
 投降の訴えに返されたのは、呆れにもよく似た言葉。
 それに、ぴくり、瑞科はかすかに表情を歪めた。けれど張り詰めようとした空気を緩めるように小さな吐息を紡ぎ、ふわり、微笑んだ。
「埒が、明かないようですわね」
 しゃらん、と。金属が擦れ、澄んだ音が奏でられる。
 抜き身の刃を提げ、優雅に構えた瑞科は、軽い会釈を捧げると、再び、鬼鮫を真っ直ぐに見据えた。
「お覚悟を」
 刃と柄の継ぎ目がかすかな音を立てるや、瑞科は地を蹴った。
 限りなくしなやかに躍動する肉体は、剣の届く間合いまでを一瞬で詰め、鋭い一閃を見舞う。
 問答無用の一撃を待ちわびていたかのように、鬼鮫もまた応戦する姿勢を見せ、肌を掠めるぎりぎりで、それをかわした。
 剣を振り切った姿勢の瑞科へと、強烈な蹴りを繰り出すが、これもまた、ふわり、流れるような挙動でかわす瑞科。
 獲物を持つ分、リーチは瑞科に分があった。スピードもやや瑞科の方が上だ。だが、かわしてなお、足の横切った肌に戦慄を覚えるほどに、鬼鮫の一打は重い。
 ただの殺人狂とはどこか違う、確たる強さを予感し、瑞科はほんの少し、鬼鮫の印象を改めた。
 けれど、ほんの少し、それだけだ。
 距離をとって様子を窺うようなこともせず、幾らか大振りに剣を薙ぎ、敵の攻撃を誘導しながら、瑞科は冷静に鬼鮫の挙動を見据えた。
 格闘術を得手としているのだろうか。暗器を用いる素振りもなく、何か特殊な魔法的攻撃を繰り出す様子も見受けられない。
 ちらり、過ぎったのは司令官の言葉。能力的な面での情報は多くないとの唸りを胸中で反芻して、瑞科は結論を返す。
 多くないのではなく、取り立てるまでも、無いのだろうと。
(――っ、ここ……!)
 分析を交えながらも、機を逃さずに。繰り返した動作と同様に振り切ると見せかけて、返した柄で鬼鮫の腹を強打する。
 狙い済まし、深く踏み込んだ一撃は強烈で、ぐ、と小さく唸った鬼鮫は、咄嗟の反撃には至らず、体勢を崩した。
 そこに追い討ちをかけるように、軽い身のこなしで跳んだ瑞科は、スリットを押しのけるようにして足を上げ、顰められた鬼鮫の顔を、横から苛烈に蹴りつける。
 隙を得れば、一瞬。特殊な武器を持つでもない腕に電撃を送りこみ、使えないほどに痺れさせ、足を払う。
 四肢を奪われたも同然となった鬼鮫へ、流れるような動作で飛び掛ると、両肩に体重と、重力波を乗せて無理やり押し崩した。
 どさり、背中から倒れこんだ鬼鮫は、表情に苦悶を浮かべ、獣じみた低い唸り声を上げている。
 見下ろす形で圧し掛かった瑞科は、頭上高く振り翳した切っ先を喉元に定め、聖母のごとく、微笑んだ。
「だから、申し上げましたのに」
 残念だと、告げる言葉はせめてもの情けですら、無く。ただ単純に、それさえも切り捨てる冷淡な宣告。
 両手で柄を握り締める姿は祈りにも似て、まるで哀れな魂の救済を神にすがる修道女のようだというのに。
 彼女は一切の躊躇いさえも抱かぬまま、剣を突き立てた。
 そうして、かすかに息をついた。
「任務完了、ですわ」
 どくり、貫かれた喉が脈打って、血が溢れ出す。
 それが、肩口を押さえるようについた両の膝を汚す前にと、立ち上がりかけた、刹那だった。
 ぴくりとも動かなかったはずの鬼鮫が、にぃ、と口角を歪に、鋭利に、吊り上げて。己の喉下に突き立てられた剣を、自らの手で、引き抜いたのは。
 瑞科の目が驚愕に見開かれたのは、一瞬。
 状況を確かめるより早く、動揺に硬直した体を捕まれ、ぐるり、視界が反転する。
 投げ飛ばされたのだと認識したのは、体が壁に叩きつけられた時。受身を取ることもままならなかった瑞科に、追い討ちをかけるように、鬼鮫はきつく握り締められた拳を撃ちつける。
 体中を強打し、さらに強烈な一撃を見舞われた瑞科は、溜まらず、その場に崩れ伏した。
「な、な……」
 受けた痛みのせいか、驚きのせいか。思考が働かない。
 それでも武装審問官としての経験が、状況を把握しようと必死に目を凝らす。
 そんな瑞科の、目の前で。肉の焼けるような音とともに、鬼鮫の傷が見る見るうちに塞がっていった。
 喉に引っかかっていた血を吐き捨てて、ごきごきと首を鳴らした鬼鮫は、伏した瑞科を見下ろし、表情を歪めた。
「温い女だ……心臓が止まるのを確かめたか? 随分と詰めの甘い仕事ぶりだなぁ」
 不機嫌を露にした顔のまま、鬼鮫は再び鋭利に、口角だけを吊り上げて笑う。
「いーぃ勉強になっただろ。なぁ?」
 強力な再生能力。
 それこそが、追い詰めることもせず、傍から眺め追い続けた情報部には決して得ることの出来ない、鬼鮫の隠された能力だった。