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聖女たり得る者 プライド
いつまで蹲っているのだと、瑞科は己を叱咤した。
だが、気丈な心根とは裏腹に、体は射竦められたように動かず、床に這ったまま見上げていた。暗殺の指令を受け、対峙した敵、鬼鮫の姿を。
その瞳は驚愕に満たされている。薄桃色の唇が、なぜ、としきりに呟く。
確かに倒したと、思ったのだ。それもそのはず。未だかつて、喉を貫かれて死ななかった者など居なかった。
いや、居たかもしれない。喉を貫かれても、「すぐには」死ななかった者は。
鬼鮫のそれは、質が違う。しぶとく苦しみ、生きようと抗うのではなく、まるで意に介した様子一つ見せず、即座に、瞬く間に、その傷を塞いで立ち上がったのだ。
それを、驚愕せずにいられたものか。
「もう終わりか?」
一歩、歩み寄った鬼鮫の問いかけと同時に、大きく振り上げられた足が瑞科を蹴り上げる。
足先で掬い上げるような蹴りは、瑞科の体を容易く浮き上がらせ、手を届かせた。ケープの合わせ目を乱暴に掴み、ずるりと四肢を投げ出し項垂れた顔を上げさせると、蔑むような目で、鬼鮫は瑞科を見つめた。
「ふん……口ばかりの女だったわけか」
つまらない、と言うような口ぶりは、常、日頃、瑞科が魑魅魍魎へ宛てて綴る言葉。
それは今まで完璧に任務をこなし、畏怖と羨望と言う信頼を得続けてきた瑞科の自尊心に、攻撃以上の傷を与えた。
同時に、萎縮仕切っていた意識が、再び鬼鮫を敵対者として睨めつける。
反撃を受けた中でも決して手放すことをしなかった剣を強く握りなおし、死角を攻めるように、振り上げた。
けれど、それはあまりに容易く、かわされた。
いや、受け止められた。
意表を付かれたというような動揺一つ見せず、ごく自然な所作で、剣の柄に手をかけ、それ以上の進行を阻んだのだ。
「攻撃もまた粗いもんな。挙動がでかいから、バレるんだよ」
ちら、と横目に剣を見て、再び瑞科を見やった鬼鮫は、その手元で稲妻が閃いているのを見つけた。
死角を付ければよし、それでなくとも対の手には音を立てて爆ぜる電撃。
なるほど大きな口を叩いただけはあると思案し、肘から先が焼け焦げる感覚にきつく眉を潜めて。けれど、鬼鮫は瑞科を掴んだまま手放すことはせず、剣を手にした腕を捻り上げて、後ろ手に、締め上げた。
「あっ、ぐ……うぅ…ッ!」
決死の攻撃だったに違いない。それをものともしない鬼鮫に、瑞科は怜悧さを取り戻したばかりの思考を乱され、耐え難い苦痛に秀麗な顔を歪めた。
折れそうなほどに捻り上げられた腕は、実際、折るつもりなのだろう。ぎりぎりと少しずつ、本来あるまじき方向に曲げられていく腕は、一瞬、麻痺したように感覚を失って。
からん、と、剣の落ちる音が響いた刹那の後に、苛烈な痛みを孕んだ。
「ぅああああっ!」
迸る悲鳴は、殺伐と寂しい廃墟の空気を震わせ、一層荒れた雰囲気を作る。
白のグローブが、じわじわと肘から赤く染まっていく。折れた腕を押さえ、その場に蹲りたいほどだというのに、鬼鮫はそれさえも許さない。
痛みに抵抗を忘れた瑞科の体を、捨てるように蹴り飛ばし、壁際に追い詰めると、壁を背にさせたまま、繰り返し、足を打ちつけた。
一撃ごとに、豊満な胸が歪に押し潰され、コルセットに爪先がめり込む。素材そのものは衝撃を和らげる特殊繊維だが、締め上げる紐は普通のもの。重い打撃を何度となく打ち付けられたせいか、いつの間にか千切れていた。
そうして腹部を締め付ける感覚が緩くなった途端、瑞科は大きく痙攣し、ごぼり、大量の血を吐いた。
自分のどこからこんなものが出てくるのか。咽返り、信じられないといったように目を剥きながら、半ば衝動的に落ちた剣を拾い上げ、切っ先に稲妻を纏わせると、自らを追い詰める鬼鮫の足へと突き立てる。
ばちばちと音を立てて爆ぜる閃光は、瑞科の焦燥に高ぶった感情を表すかのように、今迄で一番の威力を放つ。
それでも、精彩を欠いた、自棄でしかない攻撃は、ぐらり、鬼鮫のバランスをかすかに崩す程度にしかならなかったけれど。
「っと……まだ抵抗するのかよ」
動きの止まった一瞬を見計らい、這うように逃げ出した瑞科は、今まで決して取ることのなかった距離を開け、壁を支えに何とか立ち上がる。
竦んでいるのか、痛みのせいか。仄白く張りのあった足はがくがくと震えている。瓦礫だらけの廃墟を転がったため、肌も、髪も、純白の装束も、擦り傷と埃に塗れて汚れていた。
そんな瑞科を一瞥し、鬼鮫は突き立てられた剣を引き抜き、放り捨てる。あえて、瑞科の方へと。
「諦めて、降伏したらどうだ?」
皮肉げな笑みを浮かべて、対峙した時の瑞科と同じ、どこか見下したような態度で問えば、ぎり、ときつく唇を噛み締めた瑞科は、突っぱねるように鋭い眼差しで睨みつけて、剣へと手を伸ばす。
だが、それを手にしたのと同時、辟易したような溜息を耳に留めて。
「それが、お前の答えか」
一層重い拳が、瑞科の華奢な体を捉え、吹き飛ばした。
四肢を投げ出した瑞科に、出撃前の聡明な美しさはなく。追い詰められた姿は、自らが屠ってきた魑魅魍魎と変わらぬほどに、ぼろぼろで醜い。
そんな自分の姿は、鏡を見ずとも理解できた。一方的な蹂躙は、かつて何度も、何度も、瑞科自身が繰り返してきたのだから。
「あ…う……わたくしは、わたくしは……まだ……」
それでも、うわ言のように、瑞科は繰り返す。
まだ、負けてない。
皮手袋に覆われた指が、何かを掴もうとするかのように、必死に、乾いた地面を引っ掻いていた。
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