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<東京怪談ノベル(シングル)>


聖女たり得る者 それでも、彼女は――。

 近づいてくるはずの足音が、遠くに聞こえる。
 朦朧とする意識の中、繰り返すだけの呼吸は、ただ胸を軋ませる。折れた腕が熱を孕んでいるのばかりが、いやに鮮明だ。
 戦うことはおろか、瑞科は、立ち上がることさえままならないほどに消耗し、疲弊していた。
 諦めて、降伏すれば――。鬼鮫が皮肉めいて吐いた台詞が脳裏を過ぎる。
 確かに、再生能力を目の当たりにした時点で倒すことを諦め、降伏、あるいは逃亡していれば、こんな目には遭わなかったかもしれない。
 だが、瑞科にとってそれは、禁忌にも等しい行為だった。
 どのような事態に陥ろうとも、自分は、「教会」随一の能力を誇る、武装審問官なのだから。
 いかな状況下であれ膝を折るなかれ。誰に言われるでもなく課した責任こそが、完璧な任務の遂行に繋がっていたのだから。
 かり、かりと。力なく床を掻いていた指先が、何かに触れる。
 それは瑞科の剣。顔を向け、見つめ、瑞科は一度、ふわりと微笑んだ。
「わたくしは……まだ……」
 そうだ、まだ、戦える。
 手繰り寄せるようにして握り締めた剣。力を篭めれば、体中が苛烈に痛んだ。
 利き腕はもはや使い物にならない。足の震えは収まらず、喉には乾いた血が張り付き、息苦しい。かすんだ視界は、眦が濡れていた。
 無理だと訴える肉体を叱咤し、誇りと気力が瑞科を立ち上がらせる。突き立てた剣の支えなしには、満足に立つこともできないけれど。
 ――けれど、青い瞳は未だ澄み切り、凛とした意志を伴っていた。
「たいした女だな」
 ぽつり、と。鬼鮫が零す。低い声には苛立ちにも似た装いがあり、散々痛めつけられて潜在的な恐怖を抱いた瑞科の心は、びくりと震える。
 怖い。怖い――。
 心の奥が悲鳴を上げるのを、押し込めて。瑞科はただ、がむしゃらに立ち向かった。
「いい加減、鬱陶しいぞ」
 女の細い腕に皮肉にも似つかわしく、力の伴わない剣戟。ずるずると地面を引きずる様子は、喧嘩も知らない無垢な少女が、重たい剣を初めて手にしたかのようだ。
 指先でぱちぱちと音を立てる閃光は、収縮して鋭い稲妻となる前に、拡散する。集中できるほどの余裕さえないのは、対峙する鬼鮫でなくとも容易に見て取れた。
 もういい、もうやめろと、仲間の一人でも居れば止めていただろう。微笑ましささえ覚えられよう瑞科の姿に。けれど、鬼鮫が情けを抱くことはなかった。
「お前は、ただ馬鹿だったんだよ」
 ろくな情報を持たぬまま、たった一人で、何の策も無く。乗り込んできたこと自体が浅はかだったのだ。
 そんな現実への理解を植え付け、その上で、止めを刺すつもりだろう。剣の、四肢の、一振りごとに、加減のないカウンターを与え、繰り返し、繰り返し、己の怒りを体現するかのような攻撃を瑞科にぶつけ続けた。
「ひぐ…ッ、あうっ…!」
 荒れ果てた廃墟に響くのは、女のか細い悲鳴と、耳を塞ぎたくなるようなえげつない音ばかり。
 あらゆる衝撃を軽減する最先端特殊素材は、もはや瑞科を護る鎧にはならず。むしろ、半端に軽減されたせいで、意識を失うことさえ出来ないまま、苦痛に叫び続けていた。
「あぅ…あ、あ…嫌……助け…、助けて……!」
 怖い。怖い。怖い。
 しにたくない――!
 年若い、あまりに強く勝ちすぎた娘の心では、命の危機を前に、恐怖を押さえきることなど出来るはずもなかった。
 情けなく尻餅をつき、這いずるように後ずさりながら、瑞科はしきりに嘆願する。
「おねがい…殺さないで……たすけて、お願い……」
 誇りも、意地も、自尊心も、自らを省みる理性的な感情は全て掻き消えていた。
 いまや瑞科の思考を占めるのは、死への恐怖、それだけで。
 ぼろぼろと大粒の涙を零し、庇うように腕を掲げ、助けてと繰り返す瑞科の姿に、鬼鮫が覚えたのは哀れみでもなければ、愉悦でもなく。
 ただ純粋な侮蔑と、苛立ちだった。
「うぜぇなぁ……」
 囀るなと、告げる言葉の変わりに、足を上げて。
 一度、二度、三度。腹へ、胸へ、頭へ、叩きつける。
 即頭部を強打された瑞科は、脳の揺れる感覚に一瞬の吐き気を覚えて――ようやく、意識を手放すに至った。
 純白の……純白だったはずの、薄汚れたヴェールがはらりとずり落ち、振り乱された髪だけが、倒れる瑞科を労わるように、さらさら、頬を撫でる。
 意識を失いながらも痙攣を繰り返す瑞科を見下ろし、鬼鮫は一つ、大きな大きな溜息をついた。
 とは言え、それで気が晴れたかといえば、そうでもなくて。
 再生するとは言え酷い痛みを与えられたこと、この程度で倒せると思われていたこと、何より、面倒な時間を食わされたこと――。どれもこれも怒りを助長するには十分で、鬼鮫は苛立たしげに頭を掻くと、放り出された瑞科の足を掴んだ。
 ぐったりと項垂れる瑞科は、それに抵抗も反応もしないまま、ずるずると引きずられていく。
 調べれば足は付くだろう。それが判れば後は排除するだけだ。
 あぁ、この女の首を叩きつけてやろう。それを見て愕然とする輩の顔を見てやれば、きっと愉快な気分になれる。
 ぼんやりと思案する鬼鮫に連れられて、瑞科は廃墟の奥、闇の中へと消えていく。
 滲む血の跡も、やがて掠れて途切れ。それより先、彼女の行方を辿る術は、無かった――。