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『 あさき夢見し、酔いもせず 』
東京新宿。
かつてこの街が見せていた繁栄はなりを潜め、街はただただ不況に喘ぎ疲弊していく人の感情を表すように、急速に廃れていっていた。
ネオンの海を泳ぎ続ける回遊魚のような人の群れ。
うつろな彼らの瞳はただ、現実から眼を逸らし、輝き続ける照明が見せる幻想に酔いしれる。
そこに生まれる隙。
それを狙う輩は、
人だけではない―――。
酒と性、そして血の香りが染み付いたそこは、堂々と新宿の街中に存在した。
普通の学生が出入りしている。
普通のサラリーマンが出入りしている。
普通のOLが出入りしている。
普通の人間が普通に出入りしている一見、健全な場所。
けれども、注意深くそこを観察すれば、そこが不自然に清潔すぎる事に気づくだろう。
すべてが清潔で、匂いもしない。そこに染み付いている酒と性、そして血の香りは、すべてにおいて上から匂いもしない、という事で塗り潰されている。
それがそういう場所。
そこは元々は、たくさんの店がペナントで入っていた商業ビルだった。今はビル全体が福祉ボランティアの団体の事務所となっている。そこはそういう場所だ。その5階建てのビルの、3階と4階の間―ビルの12階。
かつて字を読めない人々に教えを広げるために使用されていたステンドグラスが壁一面に貼られた、その部屋。
ひとりの少女がそこにいた。
かつて処女で神を生んだとされるその女性の像を前に祈っていた少女は、部屋に訪れた神父服の男性を振り返り、あどけない笑みを浮かべた。
「あは〜ん♪ ようこそあたしのお部屋に」
甘えるような声で彼女は男性を出迎える。
男性は表情一つ変えない。すさまじくおぞましい物を、唾棄すべき物を前にしている時の表情を。
「教皇庁は貴女を魔女として認定し、ただちにこれを神の名の下に滅する事を確定しました。よって、私があなたを、滅します」
少女は哂う。ただただ笑う、という行為を純粋に形にした物を浮かべる。
ぐわっ、と双眸を広げ、犬歯と呼ぶには鋭すぎる牙を剥き出しにし、それでも、何かにすがりつくような、そんな憐れな表情を………浮かべる。浮かべた。
ああ、誰が望んで、こんな人外のモノの存在などに、なりたかったものか………。
そんな、こんな、ひどい罰を与えられるような事を、自分はしただろうか?
それはひどい、神の虐めのように想えた………。
一方的に押し付けられた何かしらの存在からの押し付けによって、人間と言うカテゴリーから除外された自分を………
「ああ、あなたすらも、そうやってあたしを追い立てて、差別して、除外して、虐めるんだね?」
あは〜ん。
なら、あたしが、あなたの狂気を引き出してあげる………。
それを何と呼べば良いのだろうか?
人間が心の奥に押し隠している物を、魔女は、誘惑によって、曝け出させた。
神父服の男は、口からだらだらと見っとも無く涎を流し、唸り声をあげ、四つん這いになって部屋を走り回る。
しかし、魔女はそれを見向きもせず、体育座りをし、膝に額を押し付けて泣いていた。
ああ、誰が望んで、こんな存在に、なりたかった………ものか!
――― あさき夢見し、酔いもせず ―――
鏡よ、鏡よ、鏡さん。
あたしが望むモノはどこぉ?
はい。麗しき魔女様。それはもはやこの世界には存在は致しません。それは乙女のキスによって、呪いから解放されましたから。
****
一体いつからこの手紙を書き続けているのだろう?
―――それは、カスミの部屋のクローゼットにあった箱にたくさん詰められていた数多くの手紙のひとつだった。
カスミが魔女の呪いによって野生化し、行方不明になって、数日。イアルはその間、一睡もせずに彼女を探し、けれども探し尽して、それで、何かしらの情報を求めて、決してイアルには中身を見せてくれなかったその箱の蓋を開けたのだった。
そこにある何かが、この哀しい状況を、どうにかしてくれると、思ったから…。
それらはカスミが誰かに書き綴っていた手紙だった。
手紙はカスミが誰かを誰かのためにずっと探し続けている物から始まっている。あどけない字から察するに、それは彼女が本当に字を覚え初めの頃から始めていた行為に違いなかった。
哀しんでいる誰かのために誰かを探している。
その行為はとても綺麗で優しく、そして悲愴であった。
純粋な自己犠牲。
ああ、あの魔女にイアルが襲撃された時もそうだった。
イアル、危ない!
イアルは魔女に、同情していた。
だから、再び魔女の呪いによって石化する事も構わないと思った。
それでカスミが危険な目に遭う事も想像できたし、カスミが哀しむ事も充分に理解できていたけれど、
でも、きっと、魔女はあのハードボイルドを装いつつクールに徹しきれないお節介な探偵やら、これまでいくつもの不思議な案件を一緒に解決してきた仲間たちが何とかしてくれると思ったし、
その彼らがカスミの傷も癒してくれると思った。
だから、それから、目を逸らした。
なのに、その魔女を、
何の抵抗もしなかった自分を突き飛ばし、隠し持っていたナイフで、カスミが刺し殺したのだ。
振り返った彼女の、返り血によって紅く濡れた顔は、とても安らぎに満ちていた。
もう何も自分が失わないという安らぎに満ちていた。
何かしらの贖罪を得た様な安らぎに満ちていた。
ずっと迷子で泣いていた子が、ようやく自分を見つけてくれた母親の手を、掴んだその瞬間のように、安らぎに満ちていた。
それは本当にただただ純粋で、幼い子どものように純真な笑みだった。
だからこそ、自分の想いに正直で、そのためなら何だってできる…そう、恋した女が自分の好いた男のためだったら何でも出来る、犯罪すらも厭わない…それよりも尊く純粋な気持ちを形にした、物で―――。
イアルは、数多くの手紙を読んで、カスミが探していた物が自分であった事を確信した。
ただ、その手紙の相手が誰なのかまでは、わからなかったけれども………。
そう。思えば、カスミは何時だって自分のために、リスクを犯してくれていた。
ふたりの出会いは、神聖都学園の美術館だった。
そこでイアルは、『裸足の王女』、として展示されていた。
その自分を、カスミは救い出してくれたのだ。
どうして、そんな自分の教師としての生活…ううん、これからの人生を台無しにしてしまうかもしれないリスクを犯してまで救い出してくれたの?
カスミによって現代の常識とかそういう物を教えてもらうまでもなく、イアルが王女として暮らしていた時代であった時から盗みは重罪で、それで人生を台無しにしてしまう人は大勢居て、治世の立場にあるイアルはそういう事を聞くたびに胸を痛めたものだった。
だから、何の縁も無いカスミが夜、美術館に忍び込んで、自分を救い出してくれたその行為に大いに驚き、そして心を痛めていたのだ。もしもその時にカスミが見つかっていたら、自分のせいで彼女が人生をフイにしてしまう所だったから。
その時のカスミは、確か、困ったように微笑んで、
それからふわりと、イアルを抱きしめてくれた。
その時のカスミの、身体の柔らかさ、肌の温もり、香水の香り、吐息、とくんとくんと脈打っていた心臓、そういうとても大切な物を、イアルは覚えていて、
それを思い出すたびにリアルにその時の感覚が蘇ってきて、
そして、とても嬉しい気持ちになって。
その時に思ったのだ。
昔、王宮の庭で迷子になっていた自分を見つけてくれて、それで安心して泣き出してしまった自分を抱きしめてくれた母様に、カスミが似ていると。
そんなカスミを、あの時、私は置いて行こうとした。
あの魔女の孤独が判ってしまったから…。
それは悠久とも呼べる長い長い時を石化して過ごしてきたあの長い自分の時の孤独と一緒だとわかったから。
あんなにも哀しい運命を押し付けてきた何かしらの存在への恨みと憎しみを、この魔女となら共感できると思ったから。
あの魔女が再びレリーフとなった自分を使って行おうとしていた魔法がとても酷い事だとわかっていたけれども、
でもそれは、カスミと出逢わなければ、ひょっとしたら自分が行っていた事と同じ事だったかもしれないから。
ああ、そうだ。あの魔女は、カスミと出逢わなかった私なの………。
本当は覚えている。
魔女を憐れみ、カスミに、ごめんねとさようなら、を言った瞬間にカスミが浮かべた必死に泣くのを堪える幼い子どもが浮かべるときの表情を。
よく父様と母様に、多くの臣下に大事にされている自分を柱の影から盗み見ていたときの妹が浮かべていた表情とよく似ているあの表情を。
そして、
あれだ………。
魔女を刺し殺したカスミ。
あの時のカスミの表情を、
私は、
忘れられない――――。
イアルは、両手で顔を覆い隠して泣いた。
***
冷たく静謐な夜気はきっと、美術館に置かれた荘厳な品々が発する気のためだろう。
カスミは自分を抱きしめ、唇をきゅっと噛み締める。
震える膝はそう、武者震いだ。
自分を鼓舞して、カスミは美術館へと入る。
本当は閉館時間を過ぎているために館内には入れない。カスミは教師という自分の立場を利用して館内に入っているのだ。
まあ、自分の目的を知られれば、その教師という立場も、これからの自分の人生も、全て失うのだけど。
カスミは『裸足の王女』と呼ばれるレリーフの前に立った。
これを前にすると、胸が痛む。
涙が零れそうになる。
その像の女性が哀しくて、
そして、ようやく出逢えた事による安堵感があって。
そんな様々な気持ちを胸に、カスミはレリーフへと手を伸ばす。
彼女を救いたい。そんな想いで一杯で、これをどうやって盗むかまでは思いついていなくて、レリーフを前に、カスミは悩んでしまって、
唇に握りしめた拳をあてて、
カスミは、
固まってしまって。
けれども、指先がレリーフに触れた瞬間に、彼女は魂で感じた。
このレリーフは呪いで、この王女は実際に生きていた人で、そして呪いを解く方法は、
私の唇で、この魔法がとけるのなら、私のファーストキスを、あなたに、捧げます。
冷たい石の温度、感触が、その瞬間、優しい感触に、そうして何故か懐かしく感じる温もりに変わったその奇跡が、ふたりの魂を救った。
***
どうしてここに気づかなかったのだろう?
イアルはとても大切で、けれども同時に呪いにかかっていた頃の悲しみと恐怖を思い出させる場所へと足を踏み込んだ。
神聖都学園の美術館に。
学園の裏庭で呪いによって野生化し、消え去ったカスミ。彼女をイアルはずっと探していたけれども、ここだけは今まで探さなかった。
イアルには大切だけれども、哀しい場所でもあるからだ。
そして、ここが大切なのは、カスミも同じはずで。
イアルは重い扉を開ける。
静謐な空気が彼女の肌を撫でる。
嫌悪感と吐き気がこみ上げてくる。
イアルは口を押さえる。思わずその場に崩折れそうになって、けれども足を踏ん張って、自分を叱咤して、きっと自分の前に広がる美術品の数々を睨みつける。
「カスミ。ここにいるのでしょう? 私と同じ、カスミにだってここは大切な場所だから、だから、あなたもここに。カスミ。お願いよ。私に、あなたの姿を。ごめんなさい。……ぁい。ごめんなさい。カスミ。私のためによくしてくれたあなたを、置いて行こうとして。でも、もう、私は、逃げないから。自分の過去から逃げ出さない。だから…カスミ…」
イアルはその場に泣き崩れ、幼い子どものように泣き続けた。
まるで、それを哀しむように、今すぐにでもそこへ行ってぎゅっとイアルを抱きしめたがっているようなそんな気配を感じさせて、何かが物音を立てた。
そう。そこは、かつてイアルのレリーフがあった方だ。
イアルは弾かれたように立ち上がって、そこへと走った。
足が止まる。
暗い空間に冷たい石造を見た。『裸足の王女』と銘打たれた石造が暗い空間に、無機質なコンクリートの壁に置かれている様を。
イアルは我が身を抱きしめ、
けれども、唇を噛み締め、
そして、走る。
そんな悪夢の幻を振り切ろうと。
その場に立つ。
「カスミ」
叫ぶ。
美術館にイアルの声が木霊する。
イアルは上を見る。
そこに張り付いているカスミ。
彼女は天井を蹴り、イアルの前に着地する。
数日前、学園の裏庭、四つん這いで、噛み千切ったイアルの服の切れ端をくわえて、イアルを睨み吸えた後に消え去った、カスミ。
数日振りに会ったカスミはその時と変わっていなくて。
唸り声をあげるカスミはけれどももう、逃げよとせず、そして、唸り声もまるで泣いているようで。
苦しんでいた。哀しんでいた。だから、
イアルはカスミを抱きしめて、そうして、カスミがかつてそうしてくれたように、魔女の呪いを解くための、もう物語では語り尽された、けれどもだからこそこの世の何よりも尊い方法、乙女の口付けによって、
重ねた唇の、重ねた肌の柔らかみの、重ねた心の温もりの、
それでとかしていく………哀しみ――――。
***
『裸足の王女』のレリーフ。それを使ってこの世界に魔法をかけるの。
あたしたちが堂々と暮らしていける世界になるための魔法をかけるの。
それが人間にとっては災厄と呼べる世界でもあたしは魔法をかけるの。
だって、神様も、人間も、みんなみんなあたしたちに酷い事をしたのだから、だから、あたしは、魔法をかけるの。
それぐらいしたって、あたしたちはいつだって、ずっとずっとずっと、とても哀しんで、苦しんで、傷ついて、泣いてきたのだから、いいでしょ?
あたしたちが笑えるようになったって、あたしたちが幸せに暮らせるようになったって、いいでしょ?
ねえ、いいでしょ、神様?
それを許してくれたら、あたしたち、仲直りできるでしょ?
ああ、そうか。あたしは、ずっと昔に信じて、心の支えにして、いつだってあなたの名前を呼んでいた頃のあたしに、憧れていたんだ…。
ねえ、神様。
あたしとイアル、あたしたちの違いは、何だったの?
***
お姉様。一緒に寝て良い?
―――幼かった妹は、よく怖い夢を見たと言っては、イアルのベットに潜りこんできていた。
イアルはその度にしょうがないな、と優しく微笑み、そうして幼い妹の小さな身体を抱きしめてやった。
甘えん坊で、両親や、皆を独り占めにしたがって、けれども、それと同じくらいに姉を好いて、慕ってくれている、そんな感情と孤独に戦っている幼い妹を。
妹はそうしてあげると………
「イアル。温かい」
―――お姉様。温かい。
―――カスミが漏らしたその言葉にイアルは優しく微笑み、そうしてぎゅっとカスミの身体を抱きしめなおしてやる。
もうすぐに夜明けが来る。
そうしたら美術館を後にして、それから温かいシャワーを浴びた後に、近くのお気に入りの喫茶店でランチをして、それから街にウインドウショッピングに繰り出して。
イアルとカスミは楽しげに今日のこれからのそんな風な予定を話し合って、朝日を待つ。
そうしているふたりの姿は、本当に仲の良い姉妹のようだった。
― fin ―
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