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<東京怪談ノベル(シングル)>


白の暗殺者





大手製薬会社が所有している研究所は、木々が茂る広大な敷地の中にある。
緑豊かな森も、夜になれば研究所を暗闇で覆うものになり、深夜になった今ですら、
枝の隙間からわずかな光を零すだけだった。

まるで工場のように様々な部門・施設を抱えている研究所だが、
生物遺伝子を研究する“第三局”と呼ばれる部署はひときわ有名だった。
新薬への開発や、先端医療への貢献が高く評価されており、一般的な認知度も高い。

しかし裏の業界では『悪夢の実験室』として、その名を知らしめている所でもあった。

第三局は、森の中にあってさえ、さらに周囲から隔離されているように
塀がぐるりと囲い込み、専属の警備員まで待機している。

その様子を、高い木の枝に腰掛けて、一人の女性が観察していた。
三局の入り口から500メートルは離れていただろうか。


彼女の調査の結果、三局の奥は既にセーフティーレベル4にまで到達している。
つまり、人間が生身で入ることは絶対に不可能な危険区域。
表向きは隠蔽されている、周囲への危険性や非道な実験ということを除いたとしても、
三局の存在そのものを危惧し、消滅を願う組織は少なくなかった。


(そろそろ、行きましょうか)


琴美は潜入調査を終えた格好そのままに、夜を待っていた。





白く細い手を動かし、白衣と、シャツのボタンをはずす。
羽化するようにそれらを脱ぎ捨てると、月光の中で、彼女の体が浮かび上がった。
皮膚に密着した黒いインナースーツは、彼女の体の見事な曲線をそのままに現していたのだ。
十分に豊かな胸から、細くくびれた胴、形のいい腰付き。
手足には無駄な肉がなく、艶のある黒い髪がさらさらと風に揺れる。

琴美は手早く戦闘用の身支度を整え、最後に着こんだ和服を帯で締めた。
一呼吸おいて、黒曜石のような瞳を見開く。

この瞬間をもって、彼女は存在すら秘匿されている隠密部隊、自衛隊特務統合機動課の一人になるのだった。





   ◆      ◆      ◆





木々に紛れ、ご丁寧に鉄柵まで設置された塀に近づくと、
琴美は大胆にも警備室の頭上を、目にもとまらぬ速さで飛び越えた。
訓練された人間でも、到底気付くことはできなかっただろう。
音もなく着地し、風のように走り去る。

琴美の内に流れているのは、古き忍びの血―――。

夜に紛れ、人の命を奪う才能を磨き続けた一族の末裔なのだ。

彼女の任務は、この第三局の破壊。

施設に滑り込んだ琴美は、すぐ側にあった『コントロールルーム』に迷わずたどり着くと、
遠慮なく中に入って、ドアに鍵をかけた。
ここにいるのは男性研究員一人だと、すでに知っている。


「こんばんは」


誰も来るはずがないと思っていた男は悲鳴を上げて振りかえった。
だが、次の言葉は出なかった。
研究所には似つかわしくもない格好をした美女が、蠱惑的な笑みを浮かべて
吐息を感じるほどすぐ傍にいたからだ。

あっと思う間に彼はデスクに押し倒され、琴美を見上げる羽目になっていた。


「だ、誰だ!」


かろうじて声を荒げると、琴美はシィと人差し指を口にあてた。

「お手伝いをお願いしにきました」
「なっ」
「あなたがたが大事に守っているレベル4の部屋、全機能を停止させ、完全な密室にしたいのです」

男は耳を疑った。
そこでは今も“実験”が行われているばかりか、第三局の核となる部屋だ。
一瞬でも機能を停止させるなど、考えられることではない。


「馬鹿な、貴様…何を…!?」
「私は、ここを消しに来ました」


けぶるような睫毛に彩られた黒い瞳が、笑みに煌めく。

相手が只者でないことを悟った男は、即座に非常警報に手を伸ばした。
しかし男の手は警報を押せなかった。
白く柔らかな女性の手に触れられているだけなのに、びくとも動かせなくなったのだ。


「おいたはいけませんよ」


男は焦った。

最近、上役や三局の研究員が次々と殺されていることは知っている。
研究所の破滅を願う団体ばかりか、政府がいることも知っている。
実際に一員である自分自身も、後ろ暗いことを山ほど行ってきたのだ。
自分が削除される可能性を、考えていないわけではなかった。

だからこそ特殊な警備で三局は守られているのだから。

心臓が早鐘を鳴らし、汗が噴き出る。
見つめられているだけだというのに殺される予感が体を支配して、男は震え上がった。
逆に琴美は余裕たっぷりに、じわじわと恐怖に陥る男を見つめていた。
黒い瞳が男の視線を絡め取ると、男はもう目を離すことが出来ない。
耳がふさがれたように音がぼやける。そんな中で、琴美の声だけはクリアだった。


「あの部屋を、止めてください。なにも外に出さずに」


細い首筋に流れた黒髪から薫る、痺れるような甘い香り、
わずかに体を動かせば触れられる位置にある、白く膨らんだ胸は襟の合間から零れそうで、
ロングブーツを履いた足からは、艶やかな太腿が露わになっていた。
恐怖と緊張と、すぐ側から絡み付いてくる色香への興奮に、
男の思考は鈍り、琴美に支配されつつあった。

「なかの…やつら、は…」
「いいんです。あそこはもう、いらなくなりましたの」
「だが…!」


「やってくださいますね」


艶のある桜桃のような唇がそう告げると、男の目が焦点を失った。





   ◆   ◆   ◆





コントロールルームを出ると、男が動き始めたのか三局中の電灯が消えていた。
非常灯のみがかろうじて光っている中、さすがに異常に感知した警備部が―――侵入者を殺すために動き出していた。

彼女の前に立ちはだかるのは、いずれも三局の被験者。
自己を失った分、命令に忠実な、最悪の警備員。

髪や皮膚が鋼のように固い者、痛みを感じない者、獣のように凶暴化した者…。
彼らは徹底的に訓練され、容赦なく琴美を襲った。

だが、たいした怪我をすることなく琴美は次々と倒していった。
時には白衣を着た研究員が、美しい暗殺者に向かって銃を向けたが、
琴美の持つ銀線は引き金を引くより速く宙を奔り、またたく間に彼らを切り裂いた。


三局のほんの入り口だというのに、すでに辺りは血の海である。


しかしまだ一人、倒れていない者がいた。
一人といっても、5人の人間が一つになったような大男だ。


「通してくださいな。私は、この奥に用があります」


琴美が言った瞬間、大男は体躯に似合わず驚異的なスピードで殴りかかってきた。
飛ぶように避けるも、間髪おかずに突進してくる。

銀線は奴にとっては小さすぎるようで、皮膚を裂かれることも気にせずに向かってきた。
琴美の顔よりも大きな拳が幾度も空気を切り裂く。その衝撃すらも激しい。
紙一重で退け続けたものの、大男の片手がついに琴美を掴んだ。
まるで、大人が子どもの人形を取り上げたような体格差。

男には、琴美をくびり殺すことなど簡単すぎるに違いない。
だが琴美は余裕たっぷりのままだ。


「苦しいので、離して頂けますか?」


大男は、命令主以外の言葉は理解できないらしい。
力を込めて、琴美を握りつぶしにかかった。

瞬間―――所内を揺さぶるような咆哮が響き渡った。
琴美は優雅に手から抜け出すと、狂ったように暴れる大男に最後の一撃を加えてやった。

ズゥウウン、と重苦しい音が響いて、巨体が倒れる。
両眼からは血と、小さな鉄片が流れ落ちていた。
瞳を切り裂かれた男は、助けを求めるようにもがいていたが、やがて動かなくなった。


「返してくださいね」


そういって琴美が大男の首筋から引き抜いたのは、細い細い長針。


あっという間に惨状をこしらえておきながら、琴美は返り血一つ浴びず、
足音さえ響かせながら、奥へと進み始めた。