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<東京怪談ノベル(シングル)>


『淡き紫は、想い出を包み込む』


 その老いた樹は校舎裏の片隅にあって、そしてそれはぽつんとひとりだけそこにあった。
 それはひどく不自然な様であって、けれどもその光景がなんだか妙に納得もできる様な感じがしたのは、きっと………



 ――― 淡き紫は、想い出を包み込む ―――


 お昼休みの後の五時間目。
 お腹は美味しかったお弁当でいっぱいで、しかも授業は数学で、席はこの前の席替えで窓側の前から三番目。
 これが夏だったらたまらないのだけど、季節は6月の頭。梅雨入りの直前。少し肌寒かった頃はもう過ぎて、今はちょうど季節が過ごしやすい頃。窓から差し込むお日様の光りはぽかぽかで、ほんの少し開けてある窓の隙間からそよそよと吹き込んでくる風は気持ち良くて。風はやさしく優名の髪を揺らして、それが少しくすぐったくって、自然に優名は首筋に触れる髪をそっとたおやかな仕草で耳の後ろに流す。
 コツコツとチョークが黒板を叩く音。それは教師の癖なのか一定のリズムを持っていて、ついついその音に合わせてでたらめな歌詞を作詞して心の中で歌ってしまうのが最近の優名の楽しみだった。
 今日はお腹がいっぱいで、温かくて、気持ち良くて、
 眠い。
 だから、まどろみの中で作詞したのはお弁当箱の中におむすびや玉子焼き、タコさんウインナーなんかを入れていく歌。
 あれ? 確かこんなような有名な可愛らしい歌ってなかったけ?
 そんな事を思って、くすっと笑ってしまう。
 いけない。授業中にひとりで笑ってるなんて、恥ずかしい。
 こんな姿を誰かに見られたら…。
 ひょいっと小さく肩を竦めて、それでも顔は幸せそうに微笑みながら窓硝子を見る。
 そこに映る授業風景。教室の様子。誰かさん。
 ―――!
 窓硝子に映る教室。さらに廊下側の真ん中で二枚合わせて開けられている窓の隙間から見える廊下。そこに居る先生。その先生と目合っちゃった。合っちゃった?
 わずかに開く優名の眼。廊下に居る先生にそのわずかな優名の反応が見えたとは思わないけれど、
 でも、先生は、照れたようにそっぽを向いてしまう。それが何だか思春期の初心な少年のような反応で、年上のはずの男の人のそんな予想外の反応に、優名は思わずかわいいと思ってしまって、身体を授業をしている数学教師にわからないように曲げてくすくすと笑ってしまった。
 だから優名は知らなかった。
 廊下から、立ち去って行こうとするその男性教師が、耳まで赤くしながら横目で優名を見ていたのを。


 ***

 僕の選択肢が正しかったのかどうかなんて、それはわからないんだ。
 君はあの時の君のままで、変わらずに教室の片隅で、明るい日差しを浴びながら、大好きな刺繍をしている。
 それはまるで昔の映像を見ているようで、僕は神様と交わした契約も忘れて、君の下へと行って、昔の事を語りたくなってしまう。
 本当にそうできてしまえばどんなに良いだろう?
 けれどもそれは契約違反なんだ。
 そんな事をしてしまえば僕は僕が必死にこの世の摂理に逆らって、僕が守りきったこの想いも記憶も失ってしまう。
 笑っている君。
 あの頃のままの君を見る度に僕は自分を抑えきれなくなる。
 切なくなる。
 この手が君をあの頃と同じように抱きしめたいと歌うんだ。
 君を忘れる?
 君を忘れてしまえていたら、その方が幸せだった?
 僕は君と別れてから恋なんてしていない。
 今もずっと僕は、君に恋をしている。


 ***

 キンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン♪
 チャイムが鳴って、寝ているのと起きているのとの境界線をさ迷っていた意識が急浮上する。
 眠気はシャボン玉がぱちんと弾けるように綺麗さっぱりと消えた。
 五時間目の終わり。
 よってこれで放課後。
 学校は一日の終わりの緊張から解き放たれた空気に包み込まれて雰囲気を変えた。
 そぉーっとそぉーっと呼吸をしていたような教会のような学校は、急に自由の詩を気ままに歌う草原のようになって、皆が活き活きとする。
 あんまり騒がしいのが得意な優名じゃないけれど、のんびりマイペースな彼女もこの学校の一日が終わった空気は嫌いじゃない。
 これからどうしよう?
 図書館で刺繍の本でも借りてこようかしら?
 それとも家庭科室に行って家庭科の先生と刺繍の話でもしようかしら?
 そんな事を考えていると、とん、と軽やかなリズムを踏んで優名の席の隣に誰かが立った。同じクラスで仲の良い娘。その娘がとても良い笑顔で右手を差し出してくる。
 前髪を額の上でさらりと揺らして、小さく小首を傾げてみせる。差し出された右手の意味が分からない。はて? お腹が空いてるのかしら?
 机のホックにかけてある鞄から飴ちゃんひとつ手に取って、それを差し出されている彼女の右手掌に乗せてみる。
 桜色の飴ちゃんは彼女の口の中へ。
「美味しい♪」満足そうで幸せそうな顔。
「お腹はふくれた?」優名は微笑む。
 転瞬、
「ちがーぅ!」
 地団太を踏む彼女。優名は眼をぱちくり。
「そうじゃなくて! このあたしの手を取って、一緒についてきて。優名!!!」
「どこへ?」
「校舎裏!!!」
 たぶん、そうだろうなー、って思ってた。
 だって、ここ最近、優名は色んな娘から校舎裏に一緒に来て、と言われているから。
 校舎裏の片隅。そこにあるライラックの園。
 紫の花が咲くそこは、優名たちの学年の少女が大勢居た。どの娘も夢中になって自分の頭よりも高い場所にある紫の花を見上げている。花びら四枚の小さな花。紫の花。それがたくさんの少女たちの頬を紅く染めさせている。どの娘も夢中になって、幼い子どものようにライラックを探していた。
 優名はそんな娘たちを柔らかく細めた瞳で優しく見守る。優しい母親のように。
「あー、優名。ライバルがたくさんだわ。早く探して! ラッキーライラック!!!」
 優名の右手をずっと握りしめたままの彼女がその手をぶんぶんと振り回して言う。
 けれども優名はその振り回される右手を止めて、もう片方の手で優しく彼女の手をといて、ものすごーく優しい笑みを浮かべて言う。
「うーん。でも、ほら、やっぱり、こういうのは自分で探さないと。それが大事な願いならなお更の事」
「えー。だって探しても見つからなかったんだもん!」
 なぜか、えへん、と胸を張って言う彼女。
 優名は小さく吐き出したため息で自分の前髪を額の上でふわりと踊らせる。
「がんばって♪」優しい笑顔で、優名。
 おっとりとしていて、マイペース。けれども実はこの娘、意外と頑固な一面も持っている。それを知っている彼女ははぁー、とため息を吐くと、頭上の紫を見上げる。
 その姿がなんだか母親とはぐれて途方に暮れた子どものように見えて、優名はしょうがないな、という風に優しく笑うと、彼女の両肩に手を置いて、
「ラッキーライラックの花は花びらが5枚なの。普通は4枚。本当に稀。あたしが前の娘たちに見つけられたのも本当に、それこそラッキー。でも、だからこそ、多くの娘たちが願いを込めて探すの。ラッキーライラックの伝説。花びらが5枚の花を何も言わずに飲み込んだら、好きな人は永遠に心変わりをしない。好きな人がずっと自分の事を変わらずに好きでいてくれる。すごく幸せな事だよね。だから、その想いを込めて、花を見て。そしたら、もしもこの樹にラッキーライラックの花が居たら、きっとそれはあなたの想いに応えてくれるから。わかりますか?」
 優しい先生のような口調で言う。
 彼女はこくりと頷いて、紫を見上げる。
 4枚。4枚。4枚。あ、惜しい。6枚。4枚。4枚。4枚。4枚。あーー、もう何でかな? また一枚多いよ。今度は一枚少ないし………。
 幼い子どものように花を探す彼女。その彼女の肩に手を置いたまま、見守る優名。
 そして、
「あ、」と、彼女が小さく声をあげる。
「あったー!」とても嬉しそうにそれを指差してぴょんぴょん飛び跳ねる彼女にくすくすと笑う優名。
 そして、ちょっと意地の悪い声音で言う。
「でも気を付けて。ライラックの紫は不吉な色とも言われてるわ。だからお部屋に持ち込んだらダメ。ライラックの花を身に付けた女の子は結婚指輪できないとかも。ライラックの枝は婚約破棄の申し出だったとか。だから、気を付けないと、ライラックの樹がかわいそう」
 そう。かわいそうだよ。
 白いライラックの花なんて、詰まれて、捨てられている。
 樹の下に広がる花の死骸に、優名の胸が痛む。
「うん」
 聞いているのかいないのか、ラッキーライラックの花を見つけた彼女は、ライラックの枝へと手を伸ばし、それを取ろうとするのに夢中で、
 でも、優名の目は、乱暴に触られて落ちかけているたくさんの花たちにいっていた。


 ***

 男のクセに園芸部で花が好きだった僕の事を君は笑わなかったね。
 温かな春の終わりの頃。いつも君は中庭の真新しいベンチに座って刺繍をしていて、僕は中庭の花壇の世話をしていた。
 好きな事は好き。その自分が好きっていう気持ちを自分で恥ずかしいとかって否定しちゃったら、その好き、っていう気持ちがかわいそうだよ。うん。
 初めて君が中庭に来た時、君は僕にそう言ってくれた。
 いつもおっとりとしていて、のんびりとしたマイペースな君がその時ばかりはとても意志の強い顔でそう言ったのがとても意外で、そして僕は君のその言葉に救われたんだ。
 とても嬉しかったんだ。
 そして僕は、そんな君に、恋をした。


 ***

 学校の屋上。
 温かなその場所で、シートを敷いて、そこに腰を下ろして、お弁当箱を広げる。
 箸袋からお箸を出して、
「いただきます」
 玉子焼きを口に運んで、うーん、美味しい。幸せ。
 にこりと微笑んで、空を見上げる。
 青い空は、真っ白なキャンパスに青い水彩絵の具を塗ったよう。どこまでも空は高くて、どこまでも空は広がっていて、そこには境界線なんて無くて。
 もしも空を飛べたら、きっと、どこまでも飛んでいける。どこまでも。
 優名はため息を吐いた。
「皆、いいな〜」
 抱え込んだ足の膝に顔を埋める。
 ここには誰も居ないんだから気にする事は無いはずだけど、でも、泣いているところはやっぱり誰にも見られたくない。
 何であたし、修学旅行の日に風邪をひくかなー?
 ううん。いつだってそう。遠足の日とかも何だかんだで風邪をひくし…。
 その度に友達はたくさんのお土産を持って帰って来てくれるけれど、やっぱり自分で見て触ってお買い物したかったなー。せっかく使い捨てカメラだって買ったのにな。
 傍らに置いてあった巾着袋から優名は使い捨てカメラを取り出す。
 ファインダーから見た屋上の向うの世界はまるでミニチュアのように見えた。
 そう。なんだかまるで、箱庭のよう。
 そして彼女は、中庭へと視線を移す。
 中庭の古いベンチに腰を下ろして、ぼけぇー、と煙草をふかしているのは、前に窓硝子に映る世界で眼があった先生だった。
 なんだかあれ以来、どうしてもその先生と眼を合わせる事ができなかった。
 いつもきっちりとしている先生。ネクタイをぴしぃっとしめて、大人な彼。物静かで、優しい彼は女子生徒たちにも人気があって、男子生徒からも慕われている。そんな彼は生物の先生で、園芸部の顧問。大学新卒の彼がこの学校にやって来て、園芸部の顧問になった途端、廃部寸前だった部は息を吹き返した。ううん。女子生徒に人気が有るだけじゃなくて、女の先生たちからも人気が有る。
 けれども先生、まるでなびかないらしい。
 きっと付き合ってる誰か居るんだ。って、皆は噂をしている。
 それを聞いた時、あっ、と想った。
 とても静かだった綺麗な水面に浮かんだ小さな波紋。
 なんだかわからないけれど、心がざわざわとして、居たたまれなくて、女子生徒に囲まれてる彼の横を早足で通り過ぎた事もあって。



 彼を見て、あっ、と想った。
 ―――男の子を見て、あっ、と想った、その瞬間、女の子はその子に恋をしているんだよ、優名。
 誰かの声が、始業式で挨拶をする彼を見て、胸がとくん、と脈打った自分に聴こえた。
 誰も、あたしのこの小さな胸がとくん、と脈打った事なんて知らないのに。



 とくん、と脈打った。
 なんだかとても嬉しくて。
 それと同時に切なくて。
 寂しくて。
 哀しくて。




 とても、とても、とても、不思議な、落ち着かない感じ。




 始業式が終わって、自然と足を運んだのは、今、その彼が腰を下ろしている古いベンチ。
 ベンチの木の背もたれの冷たさが制服の生地越しに身体に伝わる。
 その冷たさが火照った身体を冷やしてくれる。
 それがとても気持ち良い。



 ―――ああ、そうだ。貧血だ。貧血を起こしたのだ。
 ただの貧血を起こしたのだ。
 あたしは始業式で貧血を起こしたのだ。
 あの胸が脈打った感じも、誰かの声が聴こえたような気がしたのもきっと、そのせいだ。



 そうだよね、あたし。



 古いベンチの上で、両足を抱えて、膝に顔を埋めた。
 ―――なんだかとても幸せで、切なくて、哀しい、あたしがとても不安定だったあの日。




 制服の上から触った、柔らかな小さな膨らみ。その奥にある心臓は今日も彼を見て、とくん、とくん、とくん、と脈打っている。
 いつもよりも早いペース。
 優名は小さく深呼吸をして、それからうん、と頷いて、屋上を後にした。


 ***

 覚悟はしていた。
 ちゃんとわかっていた。
 それでも、君に会いたくて、僕はここに来たんだ。


 ***

「こんにちは、先生」
 ベンチに座ってだれている彼の前に立って、優名はにこりと笑う。
 さらりと長い、綺麗な髪を揺らして、優名は小さく小首を傾げる。
「先生の私服、初めて見ました」
 いつもぴしぃっと硬いスーツで決めている彼。でも今日の彼はよれよれのシャツなんかを着て、なんだかとてもだらしない。
 そんな誰も知らない普段の先生の姿を見られて、まあ、風邪をひいて修学旅行に行けなかった悲しみはほんの少しだけ解消されたかもしれない。
 先生は苦笑いを浮かべて、吸っていた煙草はまだ半分も吸っていないのに、皮で作られた携帯灰皿にそれを入れた。
「いつも着ているスーツだって、私服だぞ、月夢」
「まあ、そうかも」
 ぶっきらぼうに言う彼に、めずらしく優名も砕けたような口調で言う。
 普段の先生と生徒、そういう関係の無礼講みたいな。
「今日は日曜日なのに、学校に来ているんですか、先生?」
 そう言って、中庭の花壇を見る。
 小さな白い蕾はまだ花を開く様子は見せていない。それでも、誰かが毎日丁寧に世話をしていなければきっと、永久にその固い蕾は花開くところを見せる事は無いだろう。それは何だかとても哀しいことの様に思えた。




 だってここは、     がずっと大事にしてきて、そして    がいなくなってからは       が世話してきた場所で      が帰ってきてくれてからは、それでも上手に    ができなかったそこを、     が、息を吹き返させてくれた、大事な場所なのだから………。




 優名は彼の足元に置かれた園芸用品を見て、くすりと微笑む。
「先生、身体を動かして、お腹が空いたでしょ? もしも良かったら、屋上に来ませんか?」
 ―――と、誘ってみてはしたもの、口に合わなかったらどうしよう?
 優名の心臓は、ドキドキとまるで早鐘のように脈打っていた。
 彼の手がからあげに伸びて、それを口に運んで、頬張って、食べ終わるまでマジマジと見てしまう。
「どうでしたか?」
「ああ、美味しいよ」ぶっきらぼうに、でも、何故だか、本当に妙な事に、彼は懐かしそうに言った。
 からあげは、市販のから揚げ粉なんて使わずに作ってある。小麦、レモン、辛子、味醂、醤油で作ったタネに鶏肉を入れて、揚げたモノで、優名の自慢の一品。
 それから彼女は、お弁当箱の中の物を次々と先生に勧める。
 お手製のドレッシングで味付けした野菜サラダとか、耳を落としたパンを麺棒で薄く伸ばして、チーズとカツ、ナポリタンを乗せて、包んで、トースターでチンしたパンとか、手まりと優名が名づけた可愛らしく小さく丸めた色とりどりのお握りとか、お醤油と砂糖で味付けした玉子焼きとか、アスパラのベーコン巻きとか、思えば本当にあたしはひとりでこれだけの量を食べるつもりだったのだろうか? と思えるほど作ったお弁当を優名と先生、ふたりで美味しく食べる。
 真っ青な空の下。ふたりで何気ない会話をして、過ごす。
 あーぁ、修学旅行行きたかったぁー。
 教師は本当に大変らしいけどな。
 しかも修学旅行後の期末試験はしっかりとあたしにもあるし。不公平だよ。
 頑張った生徒に誠意を持って教師も点数付けをしてやるからがんばれ。
 先生、いつも、日曜日にも中庭の花壇の世話をしているんですか?
 かわいそうだろう? 花も水をやらないとお腹が空くんだよ。
「………彼女さん。嫉妬しません?」
 わずかに細めた目で見た隣の彼の横顔は、何故だかショックを受けたような顔をしていて。
 それで、
「いないよ、彼女なんて」
 ひどく、ほんとうにひどく、そうぶっきらぼうに彼は言った。
 そっぽを向いて、頭を乱暴に掻く。
 丸めた彼の背中は何だか切なげで寂しそうで。
 でも、彼女なんていない、その彼の言葉に、不謹慎だけど、優名の心がとくん、と脈打って。
 それで、
「はいはいはいはい。拗ねないの、先生」
 とんとん、と、優名は彼の肩を叩く。
 それから、巾着袋から、小さな瓶を取り出して、それを彼の頬にぴたりとくっつける。
「冷たい」
 先生は、そう言って、それから瓶の中身を見て、何故かとても懐かしそうな顔をした。
「ライラックの花の砂糖漬けか」
 予想外の彼の言葉に優名はどきりとする。この花が食べられる事を自分の他にも知っている人が居るなんて。
「さすが、生物の先生ですね。普通、これを見た人は驚くのに」
 彼は肩を竦めて、
 それから、とても遠くを見るような、誰かを想うような顔で、口を開いた。
「昔さ、ある女の子が作ってたんだ。僕がその娘に話してあげたライラック、ラッキーライラックの伝説を他の娘にその娘が話してしまったせいで、ライラックの花が痛んで、それを哀しそうに見ていた彼女に、僕がそれの作り方を教えてあげたんだ。ライラックの花を哀しむ彼女の自分を責めるその気持ちはきっとそれで救われる事は無かったんだろうけれど、それでも彼女はライラックの花を砂糖漬けにして、皆で食べていた」
 …………そんな彼女の事を先生は、どう想っていたんですか?
 気づくと優名は、先生に、そう訊いていた。
 はっとして、口を両手で押さえた時にはもう遅かった。
 全部、そう言った後だったから。
 先生は、優名を見つめて、優しく、懐かしそうに、切なげに、笑う。
 少年時代を過ぎて、大人の男の人になった、そういう色んな痛みとか、理不尽とか、哀しい事を乗り越えた人だけが浮かべられる笑み。そういう表情だと想った、それは。
 とくん、と、優名の小さな柔らかな膨らみの奥で心臓が切なげに脈打つ。
 思わず下唇を噛み締めたのは、気を抜くと、泣いてしまいそうだったから。
 …………どうしてだろう? どうしてあたし、こんなにも哀しくって、切ないんだろう? 置いていかれたような、迷子のような気分なんだろう?
「大好きだったよ。ずっと、好きだった。ずっと。彼女の事が」
 ―――ありがとう。
 ものすごく遠い場所から、
 それでいて、とてもとても、ほんとうにとても近い場所から、誰かの、声が聴こえたような気がした。
 優名と先生は、とりとめもない話をしながら、ライラックの砂糖漬けを口にした。


 ***

 ライラックの花は恋の花なんだね。
 僕が話したラッキーライラックの伝説を君はとても嬉しそうに聞いてくれたね。
 その後に起こったライラックの花の悲劇は君のせいなんかじゃない。
 屋上でライラックの花の砂糖漬けを食べながら、僕は何度も君にそう言おうとして、けれども結局僕は君にそれを言えないままだった。
 恋の花。
 それを君はずっと胸に抱き続けていたんだね。
 変わらずにライラックの花を抱き続ける君の姿に僕は、とても安心したんだ。


 ***

 白に連れられてやって来た校舎裏。ライラックの樹の前。きっと、そこがライラックの花の園であった頃は、とても美しい紫の宴があったはずで。それに想いを寄せて、優名は、眼を潤ませた。
 かつてそこにあったライラックの園。
 たったひとつだけ残ったライラックの老木。
 遠い昔、そのライラックの樹に咲いた花びら5枚の花。
 それを見つけた少女がいた。
 彼女は、いつも中庭で花壇の世話をしていた子に恋をして、その子から教えてもらったラッキーライラックの伝説を叶えようとして、それを見つけた。
 けれども、彼女はそれを飲乾す事はできなくて、触れようとして、触れられなくて。そうしてる内に仲の良かった娘に声をかけられて、誰にも教えるつもりの無かったラッキーライラックの伝説を彼女に話してしまって、それが広がってしまった。
 そんな苦い想い出に、その後にライラックの花の砂糖漬けという甘い想い出が添えられて。
 そしてその後に………。
 いくつもの恋の物語を、きっと、そのライラックの老木は見ていた。
 優名はライラックの樹に抱きついて、頬をくっつけた。
 お疲れ様。
 ―――そう彼女が囁くと、
 ライラックの花は、花びら5枚の花をその枝いっぱいに咲かせて、それがひらひらと落ちてきて、
 その夢幻の風景の中で、優名は何故だか理由はわからないのだけど、とても懐かしそうに、屋上と、中庭の花壇と、そして、もう古くなりすぎて、オブジェにしかなっていない古い古いベンチを想い、涙を流した。
 ひらひらと落ちるラッキーライラックの花の雨の中で、優名はいつまでもライラックの樹に抱きついたまま泣き続けていた。
 そのライラックの老木に懐かしい誰かの肌の温もりを感じながら。




                ― fin ―