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<東京怪談ノベル(シングル)>


ただひとえに愛あらば

 それはある南海の楽園の話。
 豊かな自然に包まれた島には、漁師の娘である玲奈が、家族や婚約者と共に慎ましやかな生活を営んでいた。
 どこまでも青く広がる海から勢いよく顔を出し、捕えた魚を手に砂浜を駆け戻る。水着一枚、濡れたままの体を包むように薄絹を羽織り、島の人々に新鮮な魚を売っては、また布を放り出して海へと駆ける。
 同じことの繰り返し。それでも充実した毎日だった。
 それがいつまでも続くものだと、玲奈は、信じて疑わなかった。

 ある日のことだ。酷い嵐に見舞われた島に、国の王子が訪れた。
 王子は弱冠二十歳の美丈夫。病床に臥せっている国王の代わりに、既に国の政の多くを行っており、それゆえに、今回の訪問も、『王』として当然に、島民を案じた純粋な見舞いであった。
 一通りの視察を終え、王子は大事には至らなかった島の様子に安堵すると同時に、一人の少女を目に留めた。
 婚約者だろう青年と仲睦まじく、嵐で損壊した店の掃除をする姿は、彼の目を酷く惹いた。
 権力を振り翳せば、彼女を手に入れることもできるだろう。けれど、そんな利己心も押さえ込むほどに、青年の傍らにいる彼女の幸せに満ちた笑顔が、愛しく感じられた。
「もし、君達さえよければ。友達になって欲しい」
 王子の唐突な申し出に、彼女――玲奈は目を丸くして当惑した。ほんの、一瞬だけ。
 けれど、断る理由はなく。屈託のない笑顔で、頷いた。
 王子様が友達になりました。彼女にとっては、ただ、それだけのことだった。
 その夜、嵐は再び島を襲う。ごうごうと唸る風は島そのものを消し飛ばさんとするかのように酷く暴れ、止まぬ豪雨はあらゆる物を飲み込んだ。
 空を分厚く覆う暗雲のように、玲奈の運命は薄暗く翳る。
 幸せだった日常が、いつまでも続くと思っていた平穏さえ、嵐の中に吸い込まれていく。
「このままでは、島も危ないな……」
「わしら年寄りが島と心中することは厭わんが……王子に万一のことがあっては……」
「このような小さな島のために、王子には申し訳ないことを……」
 島民たちが集まり話すのを、王子はただ険しい顔をして聞いていた。
 島を訪れたことを、彼は後悔していない。『王』として当然の責務であるし、それによって、玲奈と出会うことも出来た。
 だが、このまま島と共に沈むようなことがあれば。いや、このまま、王子がこの島に閉じ込められるような状況が続くだけでも、『王』の不在となった国には、隣国が攻めてくることになる。
 そうなる前に手を打とうと、軍の人間が核のボタンに手を伸ばしかねない。
 回避するためには、是が非でも戻らなければならないのだ。
「……島の影を縫って、嵐を抜けられる道があるはずだ」
 ぽつりと、告げたのは婚約者の青年だった。その場に居た誰もが当惑にざわつくことしか出来ないでいる中、玲奈は真っ先に縋りつき、拒絶するように首を振る。
「そんな……この嵐の中を行くなんて、無茶よ。危険すぎるわ!」
「けど、王子が戻らなきゃ、結局は島も沈められるんだぞ」
 がたがたと、音を立てる扉。それは嵐の強力さを物語ると同時に、玲奈の胸中の不安を示すかのように、引っ切り無しに鳴り続けている。
 縋りつく玲奈を優しく抱きしめ諭す姿を見つめ、その真摯な決意に共感した王子は、静かに、その提案に頷いた。
 愕然としたように彼らを見つめた玲奈。だが、いよいよ泣き出すかと思われた彼女が口にしたのは、やはり、決意だった。
「私も行くわ」
「馬鹿、お前まで危険を冒す必要はないだろう」
「いいえ、行くわ。連れて行って。無事を祈るなら、せめて傍で祈らせて!」
 行かないでと、そう言いたげな眼差しは大粒の涙に濡れ、穏やかではない胸中を必至に落ち着かせようとしているのが、震える指先から伝わってきたのだろう。青年はもう一度、優しく、力強く玲奈を抱きしめると、その手を取って、共に船に乗り込んだ。
「勇敢な友に感謝しよう。どうだい、無事にたどり着けたら、国を上げて君達の式を挙げるというのは」
「それは随分な褒美だな。聞いたか玲奈。一生記憶に残るだろうな!」
「うん、うん!」
 船の減りにしがみ付きながら、怖くて溜まらない感情を押し込めて笑みを返す玲奈。
 幸せになろう。素敵な友達が祝ってくれる。絶対に幸せになるんだ。
 祈る思いは、けれど嵐を収める力にも、船を進める力にもならなかった。
 荒れ狂う海は玲奈を嘲笑うかのように船を飲み込み、あっけなく沈めたのだ。
 海岸に叩き返されたのは、玲奈と王子だけ。愛を誓った青年は、必至に伸ばした玲奈の手のひらを掠めることなく、唸る波間に消えていった。
「嘘、嘘よ! どうして私だけ……ッ、こんなの酷いわ!」
 ついに泣き出し、海に飛び込もうとする玲奈を宥めながら、王子は焦る心を隠せずに居た。
 このままでは戦争が起こる。傍らで力なく涙するこの少女さえ、大切な人の死を嘆く暇もないまま、戦渦に巻き込んでしまう。
 どうすればいい――。
「――この島の近くに、不沈船があるの」
 それは囁くほどの声だった。嵐の中では、あまりにか細いほどの。
 けれど確かに響き渡り、王子も、泣きじゃくっていた玲奈さえも、振り仰がせた。
「案内するわ、いらっしゃい」
 すぅ、と、指を刺し微笑んだのは、鍵屋智子。科学相に籍を置く、少女。
 半信半疑ながら、藁にも縋りたい思いで鍵屋の後を追えば、そこには確かに、ぽつんと小さな船が佇んでいた。
「元々は、隣国から奪った、人を滅ぼす自動兵器よ。だからこそ、これを動かすには一つの代償が必要なの」
 ちらり、ちらりと。王子と玲奈をそれぞれに見て、鍵屋は薄く微笑んだ。
 冷めた笑顔の唇が囁く声は、風雨に掻き消されてしまったはずなのに、何故だか、彼らの意識は鮮明に理解した。
 人の心を捧げるの。
「……それなら僕が。元は、兵器だろう。それなら僕が管理する義務があるはずだ」
「そう。そうね。確かにそうかもしれない。けれどそれじゃぁ駄目よ。貴方には『責務』が多すぎて、雑念が拭いきれないもの」
 笑みを湛えたままの彼女は、既に選んでいた。誰の心を捧げるべきか。
 それが、告げられずとも、判るから。視線が絡んだ瞬間、玲奈の体が打ち震えた。
「貴方よ。貴方の無垢な心は、操縦データを書き込むのにうってつけ」
 理解に至るのは、容易かった。けれど、だからこそ。恐怖を覚えずには、居られなかった。
「い、いやよ……心を捧げるって、どういうこと? 死んじゃうのと同じなんじゃないの?」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。乗ってみないと判らないわ」
「無責任よ!」
 最もな言い分に、鍵屋は肩を竦める。
「どうなるかは判らないわ。けど、乗れば、王子様は救われる。それだけは確か」
「けど、けど……」
「それじゃぁ貴方は、王子様まで喪うの? 貴方の恋人は何のために危険を冒して、何のために死んだのかしら」
 独り言に良く似た言葉。傍らで、優しく手のひらを握り締めてくれる王子を見つめ、玲奈は、涙を拭った。
「玲奈、やってくれるのかい……?」
 不安げな問いに、玲奈は一生懸命、屈託のない笑顔を作って頷いた。

 国では、王子の安否を憂う国民が、その無事を放送する瞬間を待ちわびるように、テレビに向かっていた。
 軍部は慌しく動き、未だ掴めない王子の状況に歯噛みしていた。
 そんな、折だった。どこからか繋がれた一本の回線。
 全国へ映し出されたのは、機械的な座席に横たわる、水着姿の少女。
 その傍らには、王子の姿が。
『王子! ご無事ですか!』
 軍部が語りかける声にぎょっとしたのは水着の少女、玲奈。思わず上げた顔は、髪を全て剃り落としたような姿。
 どこからともなく聞こえた声に、繋がる映像。動揺する玲奈に、鍵屋はしれっとした顔で答える。
「船を起動させたから、外部と回線が繋がったのね」
「じゃあ、いま、映ってるの!?」
「ええ、恐らく、全国に」
「全国!?」
 咄嗟に体を起こし、自身を抱きしめるようにして隠し、蹲る玲奈。
 死んだほうがましだと思った。英雄になんてなりたいわけではないのだ。こんな羞恥を晒してまで、どうして、どうして――。
 耳まで真っ赤になった彼女を見て、王子は何度も謝りながら、宥める言葉を幾度も紡いだ。
 そうして、全国へ向けて語りかける。
「彼女は僕の愛しい友人で、僕を救ってくれた大切な恩人だ。僕のせいで恋人を亡くしたと言うのに、それでもなお、僕を……国を救うために命を懸けてくれる、勇敢な人だ」
 全国の人々よ、どうか彼女を応援して欲しい。
 傍らの家族を愛しく思うのなら、護るための祈りを捧げて欲しい。
「一人重荷を背負う彼女を、どうか、共に支えて欲しい」
 力強く、切々とした演説は、国民の心に響き、玲奈の胸を打った。
 自分がどうしてここにいるのか。それは愛しい恋人を一人送り出すことを恐れて。
 その恋人が死んでなお、どうしてここにいるのか。それは大切な友人を救いたくて。
 そうだ、大切な人なのだ。出逢ってたった一日。それでも、彼の人柄は十分に知れたのだ。
 王子でありながらそれをひけらかすこともせず、強い責任感で国を思い、護るために尽力している。
 彼が言うほど勇敢な人間ではないけれど、彼の、それほどの信頼には、報いたかった。
 何より、このまま逃げ出せば、恋人に合わせる顔がない。
「二人とも、愛してるわ」
 俯いたまま、にこりと微笑んだ玲奈は、自身の戒めを解き、再び座席に横たわる。
 頭の中に何かが刷り込まれるような感覚。静かに身を委ねながらも、手のひらを握り締めてくれている感覚だけは、ずっと、消えなかった。

 やがて船は港にたどり着き、玲奈と王子は多くの国民に出迎えられた。
 けれど、王子は攫われた。彼の演説に感動した隣国の女王と結ばれると言う、幸せな形で。
 愛しい人も、大好きな人も、嵐は纏めて飲み込んで行ったのだ。
 誰も居ない海岸で、玲奈は蹲り、涙ぐむ。恋人の眠る大地を抱きしめるように、そっと頬を寄せて。
 静かな涙が頬を伝い、しとしとと砂を濡らして行くうちに、玲奈は、何もかもを奪っていった嵐がどこか遠くへ去っていくのを見つけて、ゆっくりと起き上がった。
「いいわよ……」
 小さな呟きと共に、涙が溢れた。
「いいわよ! 素敵な人に出逢うまで、この大地を護りぬくから!」
 兵器に心を捧げ、亜人間と成った身だ。そもそも王子と結ばれることなんて出来ないのだ。
 そうだそうだ。隣国の女王と結ばれるなんて、なんて素晴らしいことだろう! これで戦争なんて起きやしない!
「貴方! 私は地上で最強最幸の女になるわ! 見てらっしゃい!」
 ぼろぼろと溢れる涙と共に叫ぶ玲奈の声は、誰に届くこともなかったけれど。
 清々しく吹き抜ける潮風は、まるで応えるように優しく、玲奈の涙を拭っていった。