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<東京怪談ノベル(シングル)>


月影斬舞 〜始〜

「風向き、良し」
 吹き上げてくるビル風を頬に受けながら、水嶋琴美(みずしま・ことみ)は呟いた。夜半を過ぎた高層ビル群は、夜空に深く沈み、唯一警告灯だけが赤く点滅している。琴美はそれらの中で一番高いビルの、屋上にいた。
「飛べそうか?」
 小さなインカムから聞こえてきた声に、苦笑する。オブザーバーは心配性らしい。
「勿論。出来ない事は申しません」
 風は強い。だが、操れぬほどではない。長い漆黒の髪は、今は強い風にあおられて空に向かってなびいていた。絶えず流れる雲のせいで途切れ途切れにさす月明かりが照らし出す横顔からは、緊張は感じ取れない。
「ご心配なく。私をお選びになったのは、正解ですわ」
 目指すビルは、高層ビルの立ち並ぶ一角にある。まだ真新しい巨大なビルだ。ちまたでは最新設備を備えた総合病院として知られている。だがそれは展望フロアより下層までの話で、最上階と地下には極秘の研究施設がある。とある外資系製薬会社の為の人体実験を含んだ非合法実験施設だ。琴美に下されたのは、その実験体を集める役割を担う実働部隊の壊滅であった。普段は神出鬼没で所在のつかめぬ彼らが、今夜、このビルの最上層に集結するという情報を得たのだ。分かっている事は少ない。傭兵上がりのプロを雇っているらしいが詳細は不明だった。ビルのセキュリティは厳しく、空からも地上からも近づけない。展望フロアから侵入するしかないと考えられたが、それが可能なエージェントはあまり多くないだろう。
「水嶋琴美」
 オブザーバーの声に、風のノイズがかぶる。
「無事で戻れ」
 少しの間、沈黙が続いた。琴美はふと胸をよぎった疑問をあっさりと振り払うと月を見上げた。
「時間ですわ」
 すっくと立ち上がり、ビルの端に立つ。そして次の瞬間、何の躊躇もなく跳んだ。いや、飛んだ。ビルの側面を這いあがるようにしてくる風に乗って、ビルの間をすり抜けてゆく。目指す展望フロアを右斜め下に見た所で、琴美は背につけたグライダーを広げた。琴美の遠い先祖たちならば、布や凧を使ったであろう場面だが、このビル街では目立ちすぎる。琴美は翼を使って目指すポイントに身体を向けた。突入までカウント10、9、8、7、6…。満月を雲が横切り、地上にふっと陰が落ちた。


 展望フロアの上部に着地した琴美のブーツがコツ、と小さな音をたてたが、すぐに風にかきけされた。メンテナンス用の出入り口は案の定中から施錠されていたが、難なくクリアした。
「無事降りたようだな」
 インカムの声に、ええ、と答える。
「それでは、後ほど」
 通信を切った。メンテナンス用出入り口からするりと中に忍び込む。とっくに営業時間を終えている展望フロアは静かで、だが人気があった。琴美は懐からクナイを取り出し、足音を忍ばせる。気配の主は見回りのようだった。武装しているのが見てとれた。気配を殺した琴美に気づく様子は無論、ない。月が再び雲間から顔を見せ、月明かりがすっとフロアに差し込んだ瞬間、男は琴美の手の中で事切れた。まずは、一人。
「おい、どうした?…っ」
 声にならぬ声をあげて、二人目が倒れる。月明かりの中に、琴美の黒髪が揺れた。この二人は見回りだ。そのポケットからカードキーを抜き取り、琴美は再び闇にとけ込む。先祖代々のくのいちである琴美にとって、それは息をするように自然なことだ。展望フロアからエレベータに。緊急停止レバーの中のリーダに通すと、フロア表示が変わる。本来は展望フロア止まりになっていたのが、もう1階上が表示されたのだ。情報通りのシステムだった。エレベータが止まる。誰も出てこないのを不審に思った見張りを一人。そのまま配電盤にクナイを打ち込む。フロアの電気が一斉に消え、辺りは闇に包まれた。

「何があった!」
 飛び込んできた兵士のそばにすっと歩み寄り、一人、また一人と屠ってゆく。電源を落としてもサブ電源が入るだろう。それに闇に慣れているのは琴美の目だけではない。不意打ちの効果が持続するのは5分程度だ。一つ目の部屋から出てきた4人を難なくクナイの餌食にすると、暗視スコープを使った銃撃を紙一重でかわしながら息もつかせぬ間に接近し、屠った。気配を感じる間もなく倒れていく仲間に息をのむ男を回し蹴りで沈めると、軸足を変えて背後の敵の銃を蹴りあげる。非常灯の薄明かりの中で琴美の短いプリーツスカートが舞い、ブーツが鋭い音をたてた。軽快に、かつ素早く。
「くそっ、隊長に…」
 退却しようとした男の胸に、躊躇なくクナイを投げる。脇にいた男が目を見開き後じさりし、一歩前に出ようとしたところで背後からマシンガンが浴びせられた。だが、倒れたのは後じさりした男一人だ。
「いない?…」
 狙った相手を見失い思わず立ち上がった男の銃がたたき落とされ、同時にどう、と倒れる。
「こんな場所でそんな武器を使っては、危ないですわよ?」
 マシンガンを脇へどけて言った琴美だったが、相手は既にその声を聞くことはできなかっただろう。
「この奥…ですわね」
 琴美は廊下の向こうをみて、小さくつぶやいた。最上層は研究施設と言っても実験体の一時収容施設らしく、小部屋がいくつかと大きな会議室のようなスペースがある。見取り図の通りならば、その廊下の向こうに、一番大きな部屋があるはずだ。先刻の銃撃を最後に、相手の動きは止まっている。琴美はひとつ息をつくと、衣の裾をはたいた。丈と袖を詰めた漆黒の着物は、先祖に対する敬意と自らの血に対する誇りと決意を表した、琴美の戦闘着だ。軽く丈夫な素材で、何より動きやすく、またそのつもりはなくとも琴美の肢体の美しいラインを際立たせていた。女性らしい肉体は戦いの妨げになると考える向きも多いが、他を寄せ付けぬ素早さを誇る琴美には無縁の話だった。どんな戦闘においても、その肉体に傷一つつけることなく勝利してきた琴美の実力を疑う者は、組織のうちのはもういない。だが…。今夜のオブザーバーの様子を思い出し、琴美は少しだけ眉根を寄せた。あんな風に心配される事は、あまり無い。彼自身の性格なのか、それともこのミッションに何か不安があったのか。まあ、察するところは無いでもなかったが、琴美は迷うことなく奥の部屋に向かって足を進めた。かつん、と音を立てる編み上げブーツに包まれた足はほっそりとしながらも理想的な脚線美を保ち、プリーツスカートの下にはいた黒のスパッツとのわずかな隙間からのぞく肌はきめ細やかかつ柔らかだった。最奥の部屋は、広い。そこにかなりの人数が身を潜めていることなど、このフロアに入った瞬間から分かっていた。
「ここからが本番、ですわね」
 大きなドアを開いた瞬間、目の眩みそうなライトと銃撃が浴びせられた。
「やったかっ!」
「いないぞ!」
 浮き足だった敵を、琴美のクナイが一人一人倒してゆく。と同時に、ライトを潰すことも忘れてはいない。ガラスの割れる音と共に次々とライトが消える。だが、全てではない。琴美は一番手近な一つだけはわざと無傷のまま残した。光の中を時折横切る琴美の影に見当違いの銃撃行われ、その都度闇の中で小さなうめき声と人の倒れる音が響く。一人、また一人と。半数を倒した頃、一人の男が銃撃を止めた。殺気立つ男たちの中で、ひときわ静かで、かつ凶暴な気配を放つ男。この部隊の隊長であると、一見してわかった。 
「大した腕だな。さすがは特務統合課の精鋭だけはある」
 男の口から組織の名が出た事に、琴美は少しだけ驚いて手を止めた。もちろん、自らの気配は闇の中にとかしたまま。
「俺がお前らの事を知っているのは意外だったか?」
 琴美の沈黙を肯定ととったらしい。男はくつくつと笑って、
「こちらもそれなりに調べはつけているもんでね。そう、探られるだけじゃなく」
 と、ライトの中に何かをどすんと転がした。人間だ。動きはない。すでに死んでいるか、もしくは虫の息、と言ったところか。
「見覚えはないか?お前等の仲間だよ。いや、だった…と言った方が正しいか」
 かなり酷い拷問を受けたのであろうことは、その姿から見てとれた。琴美は眉をひそめた。
「むごい事を」
「やっと声が聞けたな。やはり仲間の死に様はこたえるか」
「いいえ」
 即座に否定する。むごいのは死にざまではない。
「最後に仲間を裏切らせた、その仕打ちがむごいと言ったのですわ」
 ほう、と男が驚愕とも感嘆ともつかぬ声を上げる。
「わかっていて、来たというのか」
 琴美は答えず、じっと男を見た。確信を得たのは先刻のオブザーバーの様子からだったが、指令を受けた時から察しはついていた。そもそも実働部隊がここに集結するという情報自体が妙なのだ。忍び込んでおいてなんだが、このビルのセキュリティはかなり高い。元傭兵の精鋭部隊が常駐する必要はない。大規模な実験体移送があったとしても、兵士を展開させるのは発覚のリスクを高めるだけだ。ということは、考えられる事は二つ。罠か…
「陽動、ですわね」
 ここに実働部隊が集まるという情報を流し、別の場所で本当の目的を果たす。今頃どこかで、琴美の同僚が別のミッションを行っているだろう。
「なぜ、来た」
「それが私の仕事ですもの」
 琴美はふっと微笑んだ。普通ならば捨て駒かと絶望したりするところだろうが、それは捨て駒としての実力しか無い者のすることだ。琴美は違う。指令通り、実働部隊を潰して帰れば良い。ライトとは違う光がゆっくりと部屋に差し込みはじめて、琴美はこの部屋に小さいながらも窓があった事に改めて気づいた。うっすらとした月明かりの中に、琴美の姿が浮かび上がる。一糸の乱れも無いしっとりとした長い黒髪、闇夜を映したような瞳。そして黒衣に包まれてなお隠し切れぬ色香をたたえた豊満な身体。
「小娘が、後悔しても遅いぞ」
 男が一歩前に進み出た。背はそれほど高くはないが、戦闘服の上からでもわかる、鍛え抜かれた肉体。何より印象的なのは目だった。凶暴で、傲慢な目。小娘になど負けるはずがないと思っている目だ。
「あなた方には多少同情しないでもありません」
 琴美もまた、一歩前に歩み出る。ブーツがかつり、と音を立てた。
「けれど、これまでの悪業は悪業。きっちりとその命で償っていただきますわ」
 最後のライトを潰した。敵の数はまだ30は越す。そしてその中央に目指す男がいた。手強そうだ。だが、琴美は悠然と微笑むと、黒髪をなびかせながら床を蹴った。

終わり