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〜赤い過去〜
来生一義(きすぎ・かずよし)が、言葉を発することもなく、ただただ立ち尽くすのを見て、訪問者は軽く頭を下げ、「また改めてうかがいます」との一言を残して部屋を出て行った。
普段なら、来客に対してそんな失礼な態度を取るようなことはない一義だったが、今はそれどころではなかった。
手の中の色の褪せた写真は、こちらを見て立つたったふたりの人間――否、ひとりは人間ですらないかもしれない――を写した、何の変哲もないものなのに、こちらに与えた衝撃は、過去一度も出会ったことのないほど大きすぎるものだった。
まるで穴でもあきそうなくらいに食い入るように、一義は写真を見つめ続ける。
(これは…これはもしかして…)
徐々に心の中に生まれ始める暗雲を振り払うかのように、眼鏡の奥の目を何度もまばたかせる。
その時だった。
「…おい」
はっとして一義は後ろを振り返り、ベッドの中に横たわる弟に視線を投げた。
来生十四郎(きすぎ・としろう)は起きていた。
いつ目が覚めたのか、まっすぐにこちらを向き、射抜くように一義を見ている。
「十四郎…いつ目が…」
「さっきから何を見てるんだ?」
兄の言葉を早々にさえぎり、十四郎は単刀直入に言葉を投げつけて来る。
いつもうっとうしいくらいに過保護な兄が、数日ぶりの自分の目覚めに気付かなかった。
気配を感じる能力は、自分などよりずっと兄の方が上だというのに、こちらが起きて少し動いたことにまったく気がつかなかったのだ。
だから十四郎は、少々観察していたのである。
中途半端に上げられた右腕、やや下げ気味の視線、背中から漂う緊張感――それらを総合するに、兄は手にした何かを真剣に見つめているようだ、と。
一義は一瞬、言葉を失ってしまった。
だが体は勝手に動き、とっさに写真を椅子と日記帳の間に挟んで隠した。
十四郎の視線は、自分の上に置かれたままだ。
それも、さまようような、視点の定まらないものではなく、はっきりと一義を一義と認識している、いつもどおりの鋭い視線だった。
「十四郎…お前、目が見えているのか…?」
「あぁ」
小さくうなずく十四郎に近寄り、一義は何度も顔をのぞき込む。
「本当か? 俺の顔はわかるか?」
「あぁ」
「見えてるんだな?」
何度も何度も念を押す兄に、十四郎はひどくうるさそうな顔になると深く一度だけうなずいた。
心配そうにまだ同じことを尋ねようとしている兄を制止して、さっさと自分の希望を述べておく。
「だいぶ仕事をサボっちまったな。すぐ家に帰って仕事してぇから、医者を呼んで来いよ」
「あ、あぁ、そうだな」
一義は何度もうなずき、ナースコールのボタンを押して看護師を呼んだ。
程なくしてやって来た看護師は、ひととおり十四郎の脈を診たり、問診をしたりしてから、簡単な検査の必要性とその後の退院手続について一義に説明した。
「あちらで書類に署名していただく必要があります。それから退院の日程についても、先生に相談してください」
「はい」
一義は十四郎を振り返り、やさしく目を細めて言った。
「少々席を外すが、まだ無理はしないようにな」
「…余計な心配してねぇで、とっとと行けよ。俺は今すぐ帰りてぇんだから」
やれやれというふうに首を振り、一義は看護師に連れられて、病室を出て行った。
その後ろ姿を見送ってから、十四郎は真っ白な天井に目をやった。
「急に静かになったな…」
ぽつりとつぶやく声は、静謐な空間に流れて消えた。
あんなに騒がしく聞こえていた「音色」が、起きたと同時に消えてしまっていたのだ。
圧力すら感じるほどの静けさの中で、十四郎は落ち着かなげに視線を部屋中にさまよわせる。
その視界に、ふと、鮮やかすぎる「赤」が飛び込んできた。
「何だ?」
十四郎は上半身を起こし、傍らに置かれた椅子からその「赤」を取り上げる。
その下に、古ぼけた一枚の写真もある。
空いた方の手でその写真を取り、十四郎は目の前まで近付けて、そこに焼き付けられた過去の遺物を凝視した。
「これ…は…」
突然、なだれのような記憶が、どこからともなく心の中にあふれ出した。
幼い頃の自分が、その中心にいた。
場所はわからないが、廃屋の床で黒服の男達に囲まれている自分。
その自分を窓の外から見下ろす銀髪の男。
前触れもなく腹に潜り込むナイフの感触と、血ではない何かが体内から流れ出す感触。
続く、黒服の男達の悲鳴。
そして、それが途切れた頃、窓の外で銀髪の男が満足そうな顔で自分に放った、「破損した部品から人間が作ったものにしては上出来」という言葉。
幼かった自分の身に降りかかった出来事を、なぜそこまで鮮明に覚えているのだろう。
言葉、感触、風景、色彩、におい――今ここで再現できそうなほど、生々しい記憶だった。
十四郎はごくりと唾を飲み込み、右手に持った赤い本らしきものを見下ろした。
記憶を呼び覚ましたのは写真だけではない。
この赤い本も関係していそうだ。
十四郎は写真と本を交互に見やった。
なんだか嫌な予感がする。
赤い本を開いたら、取り返しのつかない道に足を踏み入れるような予感が。
だが、チャンスは今しかないようにも思う。
これから先、兄はきっとこの写真も本も、自分の目に触れさせないようにしようとするだろう。
十四郎は覚悟を決めて、赤い本の表紙に指をかけた。
「日記か…?」
ページを埋める癖のある字は、どこかで見覚えがあった。
しかし今はそれより、そこに書かれていることの方が気になった。
軽く中に目を通しながら、十四郎は次第に、記憶の中の光景と銀髪の男が言った台詞が、真実なのだということを理解し始めた。
「俺は…人間じゃ、ねぇ…?」
日記のページに落ちた言葉は、衝撃波となって自分の心に突き刺さった。
ここに書かれていることが真実なのだとしたら。
自分は、来生十四郎という人間は、父と銀髪の男に造られた「化け物」だということになる。
十四郎は日記をつかんでいる手を見つめた。
この皮膚の下に流れているものは、いったい何なのだろう。
そして、今脈打っている心臓は、どんな形をしているのだろうか。
頭の中で、ぐるぐると疑問ばかりが浮かんでは消えていく。
どれもこれも、十四郎ひとりでは答えを導き出せないものばかりが。
その時、廊下の方から複数の足音が聞こえて来た。
どうやら一義が医者を連れて戻ってきたようだ。
十四郎はあわてて椅子の上に写真を、その上に日記を置き、ベッドに潜り込んで窓の外に視線を投げた。
――まるで、何事もなかったかのように。
〜END〜
〜ライターより〜
いつもご依頼、誠にありがとうございます!
ライターの藤沢麗です。
今年も残り少なくなりましたが、
いかがお過ごしでしたでしょうか?
とうとう真実を十四郎さんが知ってしまいましたね…。
一義さんがそれをまだ知らないので、
今後おふたりの関係がどうなっていってしまうのか、
本当に気になります…。
それではまた来年度も、
これまで同様にお声かけくださると、
とてもうれしいです!
どうかよいお年をお迎えください!
この度はご依頼、
本当にありがとうございました!
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