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<東京怪談ノベル(シングル)>


髪は女の命だから

ひとりの少女が、道を歩いている。
大抵の人間が振り向きざまに「うわ、あの子めちゃくちゃ可愛い!」と心の中で叫んでしまうくらい、彼女は美しい少女である。
小柄な体、色白の顔。青い瞳。そして美しい金色の髪。
アトラス編集部の新人、白夜雪の美しさは社内でも評判で、過酷な取材にも関わらず美髪をキープしている彼女に興味を持つ者も多かった。
ヘアケアについて尋ねられた雪は、一瞬戸惑ったような表情を見せた後、すぐに微笑んだ。
「ええ…髪の手入れには気を使ってますよ。髪は女の命って言いますものね」


編集部の仕事は大変な事も多かったけど、雪はやりがいを感じ、充実していた。
ここが私の居場所なんだ。雪は自信をつけ、それは彼女をさらに魅力的にさせた。

しかしある日、事件は起きる。
それは些細な事だった。一人の女性社員が、編集部内でちょっとつまづいただけの事だった。しかし雪を絶望させるのは十分すぎる出来事だった。


ばんっ。
ドアにぶつかるようにして、雪は女子トイレに飛び込んだ。
洗面台の前に立ち、肩で大きく息をする。彼女は鏡を見た。鏡に映る自分の姿を見た。
バレた。
バレたバレた。
バレてしまった。
震える手が握りしめているのは、金色の髪のウィッグだった。
実は彼女の正体はホムンクルス。それは髪は生えない疑似生命。
それをひた隠しにし続けて来た。
髪を褒められるたび、手入れを怠らないふりをするたび、心は虚しかった。
けれど顔は笑って、必死で隠し通していた。それなのに。
一瞬の、些細なこと。
先輩の女性社員が、つまづいた拍子にとっさの雪の頭に手を触れた事。強く接触したつもりは無かったはず。その毛髪が地毛だったならば、取れる事などは無かったはず。
床に倒れた女性社員。自分が金色の髪の塊を掴んでいる事に気付いて、とっさに上げた悲鳴。
編集部内はしんと静まり返った。
誰もが口を閉ざして―いや、ほとんどの人間は、ぽかんと口を開いていて―編集部内はしんと静まり返っていたけれど、みんなの視線がどこに釘付けになっているのか、雪は気付いていた。痛いくらい、刺すような視線に耐え切れず、雪は女性社員からウィッグをむしり取るようにして、女子トイレに駆け込んだのだ。


それからの数日間、雪には辛い日々だった。
いっそ嘲笑の方がマシだったかもしれない。
その事には触れないよう、当たり障りのない態度。大人の気遣い。
皆知っているのに、何も知らないふりをして、知らないふりをされている事を、雪自身はよく分かっている。
重くて、辛くて、些細な会話の最中に何度も泣きだしそうになる自分がいた。
もう、駄目だ。
雪はとうとう会社に行かなくなった。


「最近は見ないね。外出していないみたいだけど。悪い風邪でもひいたのかね」
寮の管理人が言う。
「いえ、風邪というか…その、まあ、なんですか」
アトラス編集部の編集者、三下忠雄は歯切れ悪く言う。
「しかし、ノックしても返事が無いのは心配だね。中で倒れてんじゃないかね」
管理人が雪の部屋の鍵を開けた。
「白夜さん?」
まだ日中だというのに、部屋の中は薄暗かった。カーテンを閉め切っているようだ。
「大丈夫かな?病院に行くならタクシー呼ぶかい?」
「あ、あとは僕一人で平気です。どうもありがとうございました」
管理人に礼を言い、忠雄はさっとドアをくぐった。
「雪さん?えっと、お邪魔しまーす…」
忠雄はおずおずと玄関で靴を脱ぎ、丁寧にそろえてから、室内に入った。
薄暗い室内で人の気配がした。
「…誰」
か細い声が聞こえる。
見ると、ベッドの上で膝を抱えた雪がいた。
元々細身だった彼女だが、頬がこけ、目の下にはクマができ、憔悴しきっている様子だ。
「あ、雪さん!すみません。勝手にお邪魔してしまって。ええと、元気ですか!?いや、見るからに元気じゃないですよね」
忠雄はあたふたして床に置いてあった雑誌やテーブルの足などを蹴飛ばして、そのたびに、ああすみませんすみませんと言いながら雪の方に歩み寄った。
忠雄はベッドの前に膝をつき、雪を見上げた。
「雪さん、たった3日でこんなに痩せちゃって。このままじゃもっと悪くなってしまいますよ」
「放っておいて下さい…」
そう言ってから、雪は困ったような表情になった。
「放っておけるわけ、ないですよね。無断欠勤、3日もしちゃって…三下さん、クビ宣告にいらしたんですか?」
「いやいやそうじゃなくて」
忠雄はふるふると首を横に振った。
「とにかく会社に行きましょう」
「……」
雪も首を横に振る。
「行きたくない」
それから、ふっと俯いた。
「そりゃあ、このままじゃ駄目だって、分かってはいるのですけれど…」
「そうでしょうそうでしょう。さあ、行きましょう」
雪は渋々、忠雄に付き添われて出社する事にした。


歩きながら、忠雄が言った。
「貴方の助けを必要としている人がいるんです」
その言葉を聞いて、雪はカッとした。
「私に何ができると言うの!?」
雪の青い瞳が、少しうるんでいた。
「私はもう駄目なのよ!こんな…こんな姿…皆に知られてしまって…もう編集部に私の居場所なんて無いのよ!!」
どうしようもない。
つまづいた女性が悪いわけじゃない。
編集部の人たちが悪いわけじゃない。
分かっているのにどうしようもなくて、だから辛いのだ。
「実は、他部署の編集長が、雪さんにヘアファッション誌のモデルを頼みたいと言ってまして」
「ば、馬鹿にしないでよ!私に頭髪が無い事を知っているのでしょう!?」
「まあ、落ち着いて下さい」
忠雄は手の平を雪に向けた。
「髪の無い貴方だからです」
「……」
雪は腕を下ろした。
「どういう事」
「髪の無い貴方だから、どんなウイッグでも着けられる貴方だから適任なんです。雪さんならショートヘアーでもロングヘアーでも、あらゆるウィッグを自然に着用する事が出来ます。これはその編集長が言っていた事なんですけど、寧ろ下手な有髪のモデルなんか要らない、と。貴方が必要なんです。貴方じゃなきゃ駄目なんです」
眼鏡の奥の忠雄の目が、まっすぐに雪を見つめていた。
貴方じゃなきゃ駄目。
私が、必要なんだ。私じゃなきゃ、駄目なんだ。
貴方だけ特別と言われると、嬉しい。多くの女性がそうであるように、雪もまた嬉しくなった。
憔悴しきっていた瞳に光が戻り、青く輝いた。
雪はきゅっとあごを引くと、
「わかりました、お受けします」


「今日はソバージュなのね。とっても素敵だわ!」
雪は、同僚に肩を叩かれた。
「あ、ありがとうございます…雑誌の撮影だったから、今日はこのウィッグなんです」
「前回の雑誌見たよ」
通りがかった他の同僚が言う。
「前回はショートのシャギーだったよね。大人っぽくて、すごく可愛いなあと思ったよ。けど今日のソバージュも素敵だね。また、がらっと印象が変わるもんだなあ」
「ありがとうございます」
雪はにっこりと微笑んだ。


自信を付ける事で、女性はさらに美しく輝く。
雪は頭髪が無いことを負い目に感じ無くなった。
周りからの賛辞は本物だ。ありのままの自分を認めてくれているのだ。
傷付けまいとする同情の言葉などではない。


今日も彼女は、出社前にウィッグに丁寧に櫛を通す。
作り物の頭髪が、疑似生命の自分に光を与えてくれた。
髪は女の命。その言葉は本当だと、今も思っている。
自分はプロだ。
仕事だからこそ、大事な商売道具だからこそ、雪は今日も凛とした顔をして、丁寧に丁寧にウイッグに櫛を通すのだった。