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<東京怪談ノベル(シングル)>


お菓子のおかしな甘い罠

「……これは?」
 ファルス・ティレイラは手渡された本をじっと見つめ、軽く首をかしげた。
 それはずっしりと重い古ぼけた本で、表紙の文字はもう読むことができないくらいだ。古い本ならカビ臭そうなものだが、不思議なことにこの本からは焼きたてのクッキーの香りがした。
 本を渡してくれた老婆は笑みを浮かべ、ファルスをじっと見つめる。
「これはね……夜中だけ本の世界に潜り込める、魔法の本だよ」
「魔法の……本?」
 いつもの配達の仕事を終えたばかりのファルスは、お代ついでにもらった本が魔法の本だと聞くと、途端に目を輝かせた。
 持ち前の好奇心が刺激される。うずうずと、そわそわと、身体の奥がざわめき立つ。
 早く、早くこの本を使ってみたい――!
「ありがとうございます! 早速今夜、試してみますねー!」
 ファルスは本を抱きしめ、家路を急ぐ。
 本の中身はどんな世界だろうか、優しいのだろうか、どきどきするのだろうか、それともそれとも――期待ばかりが膨れあがり、ファルスはそれだけで幸せな気持ちになっていた。

「う……うっわぁ……!」
 思わず漏れる歓声。
 ファルスは目の前に展開する世界に息を呑む。
 そこは――雲も、大地も、木々も、川も、建造物も、鳥も虫も動物も……何もかもが、全てお菓子でできている世界だったのだ。
「こんな世界があるなんて……っ」
 大気はとても甘い香りがして、酔いそうになる。ファルスは鼻腔をつく香りに微かな目眩を覚えながらも、大きく広げた翼で初めて見る世界を飛び回る。少しだけ翼が重いような気がするのは、大気に溶けている砂糖のせいなのだろうか。
「でも、面白い……っ!」
 くるり、軽く宙返り。天地がひっくり返っても全てがお菓子だと思うと、時間さえ忘れてはしゃいでしまう。
 だが、そんなファルスをじっと見つめる存在があった。

「‥‥ふむ、いい素材じゃ」
 水晶玉ならぬ巨大な飴玉を覗き込み、口の端を歪めて笑うのは魔女。飴玉に映し出されたファルスの姿を、瞬きひとつせずに追いかける。
「お菓子芸術展覧会に出せば、注目を集めること間違いないだろうて」
 しわがれた声を喉から漏らし、魔女は思案にふける。
 ちらりと窓の外を見れば、木に絡まるように糸を張り巡らせて居眠りをする巨大お菓子蜘蛛の姿があった。その蜘蛛は、相手を菓子に変えてしまう魔法の糸を吐くことができる。
「あれを使って……可愛らしいお菓子の像を完成させようかねぇ」
 魔女は何度も頷くと、意気揚々と窓を開けて蜘蛛に告げる。
「さぁ、空を舞う異世界の少女を捕まえておいで! お菓子にしておしまい!」

「葉っぱは薄焼きのクッキーなのかぁ」
 ファルスは空を堪能し終えると、次は森の探索を始めていた。幹はチョコレート、葉は薄焼きクッキー。木の実はグミやキャンディで、毛むくじゃらの動物はどうやら綿菓子のようだ。
「小石は黒飴、小川はサイダー、もしかしたら夜空の星は金平糖かな? それから、この大きな蜘蛛は――」
 ファルスはばったりと出くわした巨大蜘蛛に目を奪われる。
 この蜘蛛は一体、何でできているんだろう、どんな味がするんだろう、そんなことを考え始めた瞬間。
「や、やだやだやだ、ちょっとーーーっ!? なんで襲ってくるの、この蜘蛛……っ!」
 そう、お菓子蜘蛛がゼリービーンズの赤い目を輝かせて襲いかかってきたのだ。
 お菓子蜘蛛はファルスの腕を押さえつけ、その自由を奪っていく。炎の魔法で応戦してみるが、しかしビスケットのボディが少しこんがりする程度で、香ばしい匂いが充満する。
「ど、どうしよう、どうしよう……!」
 いっそ、空間を断裂させて蜘蛛の脚を裂いて――しかし、それでうまくいかなかったら、結局自分が動けなくなるだけだ。勝ち目の見えない勝負と、ゼリービーンズの目と、それらにがんじがらめにされてファルスの焦りは増幅する、
 そのうちに蜘蛛から放たれる糸が、ファルスの翼や尾の先などに絡み始めた。粘りけのある、甘い香り。これは水飴だろうか。
「やだ、やだやだ、いやぁーんっ!」
 ファルスが涙目になって翼や尾をばたつかせても、糸は余計に絡まるばかり。そのうちに髪や腕、足などにもこびりつきはじめ、やがては全身が水飴の糸に巻かれて甘い香りを立て始めた。
 これは糸の香り? それとも、それとも――。
「うそ……っ、私の身体から……っ!?」
「そう、お前の身体は徐々にお菓子になっていくのじゃよ。その蜘蛛の糸には相手をお菓子に変えてしまう力があるからの」
 けひひ、と乾いた笑い声と共に、魔女が現れた。糸に巻かれてくねるファルスを楽しげに見下ろすと、お菓子蜘蛛の背をそっと撫でる。
「さあ、仕上げさね! やっておしまい!」
 その声と共に、お菓子蜘蛛から虹色の糸が放たれた。先ほどの糸よりも細く、甘く、粘ついて――ファルスを完璧なお菓子に変えてしまう力を帯びながら。
 ファルスは再び炎の魔法で糸を断ち切ろうとするが、今度は糸が溶けて広がり、ファルスの肌に張り付いた途端に冷えて固まってしまう。どうやら逆効果だったようだ。
「いや……っ、お菓子になんてなりたく……な……」
 それでもどうにかしようと、逃れようと、必死になってもがくが――状況は変わらない。
 やがてファルスはその可愛らしさを残したまま、等身大のお菓子の像になってしまった。


「これは素晴らしい」
「まるで生きているみたい!」
「翼も、尾も、赤い瞳も、そして可愛らしいお顔も。どれをとっても素敵だわ」
「このお菓子の像にモデルはいるのかしら」
「ねえ、ママ! ちょっとだけ食べてみてもいい?」
「だめよ、これは展示品なんだから!」
 これらは全て、お菓子芸術展覧会でファルスのお菓子像を見た者達から漏れた言葉だ。
 誰もが足を止め、ため息混じりに像をじっくりと眺め、そして感嘆の声を漏らす。
 他にも素晴らしいお菓子はいくらでも展示されているというのに、ファルス像は群を抜いていた。
 いつしか、誰もがファルス像を見るために会場に足を運ぶようにさえなるほどだ。
 ――私、どうなっちゃうんだろう……。
 ファルスはぼんやりとした心地よさの中で考える。
 身体を動かそうにも、ぴくりとも動かない。魔法さえ使えない。かといって、お菓子になってしまっているから疲れることもない。
 お菓子になってどれくらいの時が過ぎたのかさえわからないけれど、毎日毎日、人々は自分を見るためにやってくる。
 そして賞賛の言葉を、羨望の眼差しを、ファルスに向けていくのだ。
 自分をこんな姿にした魔女は――会場の隅でにやにやとファルスを見つめている。自分の「作品」が絶賛されているのがよっぽど嬉しいのだろう。
 ――ああん、もう! あんまり見ないで……! 私を元に戻して……!
「今日もとっても可愛いね」
 ――あ、この人は毎日見に来てくれる人だ。……うん、可愛いって言われると……嬉しいんだよ、ね。褒めてもらえると……まんざらでもないんだなぁ……。
 でも――と、またファルスは落胆する。
 ぼんやりと、心地よい感覚。褒めてもらえて嬉しいやら、この状態をどうにかして欲しいやら、相反する感情が混ざり合って複雑な気持ちになっていく。
 ――いつか元に戻って、この本から出られるのかなぁ……。
 そしてまた、ファルスの周りに見物人が増えた。



   了