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暗き血の誘い
冬は夜がくるのが早い。
学校で用事があったため、帰宅がいつもより遅い時間になってしまった海原・みなも(うなばら・みなも)は、白い息を吐きながらそこかしこに夜闇が巣食いつつある道を歩んでいた。
いつもの通学路なら、大通りを行くためにこれほど暗くはない。
しかし今日は、とある目的のため、みなもは人通りが少ない道を一人で辿る。
──買い置きの紅茶がなくなってしまったから、今日は買って帰らなくちゃ。
時折訪れる、郊外にある小さなティールーム。紅茶とそれにあうスイーツを扱う店を、みなもは時折利用していた。
喫茶店と呼ぶには優雅すぎる店構えとその店主を思い浮かべ、みなもは小さく微笑む。
後少しでその店に着くというとき、みなもは切れた街灯の下に黒い物を見つけて足を止めた。
こんもりとした黒い物体。それがもぞもぞと動いたことに気づき、みなもは警戒心も露に、その様子を伺う。
しかし、その物体から覗いた人間の腕と低いうめき声に、みなもは急いでその側に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
何者かに襲われでもしたのだろうか。このようなところに倒れているなど、尋常ではない。
みなもは倒れた人物に駆寄り、その枕元に膝をつく。
黒い物体。そう思ったのも無理はなかった。
倒れた人物──20代半ば程と思える青年は、ハロウィンはとうに過ぎたというのに時代錯誤なマントに身を包み、燕尾服を纏っているのだ。
「しっかりしてください」
彼に声をかけ、その頭を膝の上に抱え上げたみなもは、思わず息を呑んだ。
蝋のように白い滑らかな肌。
白い頬に影を落とす長い睫毛と通った鼻梁。
秀でた額に乱れかかる髪は、闇よりも深く艶やかな黒。
──綺麗な人。
それがみなもが、こんな場所に倒れ伏す人物に真っ先に抱いた感想だった。
「う……うう……」
みなもに抱き起こされ、彼は薄く目を開く。
その瞳は、紅玉のような鮮やかな緋色。
形のよい薄い唇が、みなもには知り得ない外国の言葉で何事かを紡ぐ。
「なんですか?」
白い指が、震えながら差し伸べられる。
その手を振り払うことが、みなもにはできなかった。
生者の物とは思えない冷たい手がみなもの頭をかき抱き、彼の口元に引き寄せる。
「……っ、ああっ!」
ついで齎された灼熱の痛みに、みなもはくぐもったうめき声を上げる。
首筋に触れる冷たい唇。しかしその場所には、灼熱の杭を突き刺されたような激しい痛みがある。
じんじんと疼く痛みと彼の唇が触れる場所に感じる生暖かい感触。
──血を、吸われてるの……?
水に近しいみなもには、彼女の体内を流れる赤い血潮が、彼の唇から彼の腹の中に取り込まれているのが解った。
喉が乾いた者が一気に水を飲み干すように、彼の喉は嚥下の音を響かせて動きつつける。
──駄目、このままじゃ……。でも……。
血を飲まれるたびに感じる感覚は、なんなのだろう。
痛みがみなもの身の内で、それとは全く違う感覚にすり替えられていくような。
「……お願い、やめ……て……」
力なく紡がれる哀願の声に熱いものが籠っているように聞こえたのは、みなもの気のせいではなかっただろう。
頭をかき寄せる彼の指が、みなもの長い髪の中を滑る。そんな感触さえも心地よいと思ってしまう。
赤い瞳を細めた彼がみなもの首筋から唇を放したとき、彼女は息も絶え絶えに彼の腕に抱かれていた。
彼は先ほどの力ない様子が嘘のように、みなもに微笑みかける。
再び彼が何事かを呟く。
けれど、それを問いただすことはみなもにはできなかった。
唇から漏れるのは、彼を止める言葉ではなく、艶かしささえ感じさせる熱い吐息のみ。
熱に浮かされたようなふわふわした気分のまま、みなもは彼が去っていくのを見送ることしかできなかった。
──ああ、行かなくちゃ。
身の内に宿る熱が冷めていくに従い、みなもの頭にそんな思いが湧く。
どこに行くのか。どこに行こうとしていたのか。熱に浮かされたような頭は、みなもの思考を邪魔する。
ふらりと立ち上がりかけたみなもの体に、激しい痛みが走る。
「あっ、ああああっ!」
ギシギシとなる骨。
空を掻く指。
苦しみ悶えるみなもの身に、劇的な変化が訪れる。
淡い色の髪が、毛先から闇の色に染まる。
救いを求めるように空を掻いていた指を飾る爪も、闇を切り取った色を宿す。
そして、先ほどまで清純な少女らしい笑みを浮かべていたみなもの顔に浮かぶのは、翳りを宿した女の妖艶な笑みだった。
細められた瞳の奥に、餓えた光が浮かんでいるように見える。
劇的な変身を終えたみなもは、深い溜め息を吐く。
痛みは収まっていた、けれど、痛みとは違うものが彼女の身の内を荒らしていた。
──喉が、……。
彼女の脳裏を占めて離れない思い。
──喉が、乾く……。
ひりひりと乾く喉。
──欲しい。
何が欲しいのか、みなもには解っていた。
本能のように、脳裏に閃く答え。
──血が欲しい。
まだ癒えない首筋の傷口から香る血の香り。それがみなもの脳髄を甘く痺れさせる。そして、みなもの力によって、辺りには彼女の糧たる赤い血潮を宿した人間たちがいることが解る。
どの血がどのような者に宿っていて、それがどのような味をしているのかまで、みなもには解ってしまうのだ。
その血潮をみなもを襲った彼のように飲み干せたなら、身の内を焼く餓えと乾きが収まるだろうことも。けれど……。
──だめ、そんなことをしたら。
そんなことをしたら、自分は完全に人ではなくなってしまう。
彼女が背を預ける塀を備えた家の中に、みなもとさして年のかわらない清らかな乙女が住んでいる。その乙女の血なら、すぐにもみなもの飢えと乾きを癒してくれる。
そんなことまでもが解ってしまっても、今すぐ彼女の喉にみなもを襲った彼のように噛み付いてみたいと思っても、それだけはできない。
──誰か、……誰か、助けて……。
よろめきながら塀に手をつき、立ち上がったみなもの口から、彼女を助けてくれるだろう者の名が零れ落ちる。
「助けて、神漏岐さん……」
その名が鼓膜を震わせ、その名を知覚したことで、みなもはすぐ側にいるだろう助け手の存在に思い至る。
微笑みを常に絶やさない、みなもが向かおうとしていたティールームの主。
彼なら、常に異界の存在と相対している彼なら、今のみなもを助けられるかもしれない。
それだけが、今にも本能的な餓えに理性を崩されようとしているみなもにとっての、唯一の救いともいえる思いだった。
「いらっしゃいませ」
優しい声が、みなもをいつものように迎える。
「みなも様……お加減がよろしくないようですが、大丈夫でしょうか?」
彼の漆黒の瞳に映る自らの姿に、みなもは息を呑む。
彼女が操ることができる水の色を纏っていた自らの瞳と髪が、深い闇の色に染まっている。
胸に零れ落ちる髪を掬う自らの手の先の爪も、同じ色を宿している。
──心だけが変わった訳じゃなかったのですね。
痛みと餓えに苛まれていた状態では、心のありように伴って体までもがこんなに変化してしまっていたとは気づかなかった。
優しい店主の目が異界の存在を見ることに特化し、現世のものを映すのが不得手でなければ、すぐにもみなもの変化に気づいただろう。
ティールームの店主、神漏岐・日月(かむろき・ひづき)は、みなもを不思議なものを見るように見つめる。
「みなも様、何かございましたか?」
「助けて、欲しいんです」
心の底に抱く思いをみなもは吐き出す。
助けて欲しい。けれど、──。
気遣うようにみなもに差し伸べられた白い手。
緩く首の後ろで結わえられた日月の長い白い髪。
その髪の間から覗く、白い首筋。
薄い皮膚の下を流れる、熱い血。
その脈動が、甘い香りが、みなもの本能に訴えかける。
目の前の獲物の喉を噛み裂き、思うままに喰らえと。
みなもはその衝動を振り切ろうと、固く瞼を閉ざし、乱れる息を整えるために息を深くする。
そうしたことで、みなもは自らを『視る』ことができる。
目の前の日月の中を流れるのと同じように、自らの中を循環する血。それが、いつもと違っているように思える。
そのとき、店主の手が不意にみなもに触れた。
瞬間、店主は何かに打たれたようにその手を離す。
「みなも様、吸血鬼に会ったのではないですか?」
「吸血鬼にですか?」
燕尾服に黒マント、美麗な容姿。そして、首筋から血を吸い、吸われた者を異形に変える。
そのような者は、日月が言ったように吸血鬼以外にはあり得ない。
「そうかも、しれません……」
触れることで、過去に起こったことを読み取ることができる日月の能力。それによって、みなもを襲った者が判明したようだ。
「吸血鬼は、血を吸う者を快楽で虜にし、幾度も彼らを犠牲者自身が招き入れるようにします。しかし稀にですが、吸血鬼が持つ因子のようなものを犠牲者に感染させ、犠牲者を自らと同じ存在に変えてしまうことがあります。みなも様の不調も、もしかすると、その因子のせいではないのでしょうか?」
「感染は、血液にするんですよね」
「そうだとおもいます。こう言ってみると、吸血鬼因子は、ウイルスのようですね……」
悪いウイルスに、血液が汚染された。
そうであるならば、みなもにも対処の仕様がある。
あまりにもかわってしまった心のありようと容姿に混乱したままのみなもでは、思い至らなかったこと。
それは、自らの血から、ウイルスである吸血鬼因子を取り除くということ。
──私なら、できます。
唯人には叶わなくとも、人魚の血を引き、水を操る力を持つみなもなら、できる。
鼓動に併せて流れる血。
いつも親しんだ、一番自分に近い水。
それに親しむことのない、異質なものを探し求める。
しばらくしてみなもは、闇のように凝ったものが、血とともに体内を流れているのを見つける。
それを血の中から選り分けるようにして、まだ癒えていない傷口へと導く。
黒く穢れた、腐った血のようなものがみなもの傷口から流れ、磨き抜かれたティールームの床に落ちる。
外気に触れたそれは、ほどなくして乾き、塵となる。
「いつもの、みなも様ですね」
微笑む日月が、水の色を取り戻したみなもの瞳に映る。
「ありがとうございます。神漏岐さんのおかげです」
「わたくしは、何もしておりません。自らを癒したのは、みなも様ですから……」
日月の言葉に、みなもは嬉し気に微笑む。
その笑みは、みなもに相応しい愛らしいものであった。
「悪い吸血鬼が徘徊していることを、皆様に警告しなくてはなりませんね。それと、今日は、何かご注文でしょうか?」
「はい。いつもの紅茶をお願いします」
「テイクアウトの他に、ミルク入りで店内でもお召し上がりですね」
「はい」
「かしこまりました」
そうして二人は、聖域の名を持つティールームの中で柔らかな笑みを交わし合った。
─Fin─
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【0252/海原・みなも(うなばら・みなも)/女性/13歳/女学生】
【NPC/神漏岐・日月(かむろき・ひづき)/男性/28歳/喫茶店店主】
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■ ライター通信 ■
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海原みなも様
お久しぶりです。ライターの縞させらです。
受注、誠にありがとうございます。お届けが遅くなり、申し訳ありません。
吸血鬼という耽美な設定に、楽しみながら筆を進めさせていただきました。
また機会がありましたら、宜しくお願い致します。
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