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【魔性 〜月の人魚】
ここが月であることは、不思議と確信できていた。
錆びた赤銅色の空の下に、血のように赤い海が広がっていた。その海岸線を、少女の魂が駆けていた。
肉体はすでにない。
なのに、息を切らして走っていた。逃げていた。
少女の魂は、人の形をなしていた。
みなもはまるで背後霊のように少女の魂に寄り添っていたから。くっついていたから。少女の心が震えると、その震えはすぐさまみなもの心に届いていた。少女の抱いた恐怖はそっくり、みなもも感じるところであった。
灰色の山脈に囲まれた赤い海から、死者の魂が続々と揚がっている。
そうした魂のほとんどは、人の形になりえなかった。それはただの鬼であった。
死してなお、むきだしの欲情がそこにあった。行き場のない後悔がそこにあった。だが、肉体のない魂たちは、ただただ叫ぶしかできない。
その絶叫が、全身からの絶叫が、人の形を崩してしまう。鬼の形にしてしまう。
怒髪天は角となり、焔となって燃えさかった。自尊心は魂を肥大させ、巨人のように大きくなった。口に出せぬ妬みは焦げつき、裡(うち)に裡にと向かう心は己を矮小な小鬼となした。
そうした鬼たちから、少女は逃げた。
巫女の資質を持つ少女だからこそ、人の姿を保っていた。
それでも――
怖かった。
ただ怖かった。
少女はいけないことをしてしまったと後悔していた。
だが愛していた。若王を。
双子の姉も愛していた。だからこそ、後悔した。
泣きながら走る少女は、この世界から逃げたがっていた。
未来への希望を胸に若王に会うことよりも、過去の安らぎを求めて、双子の姉に会いたかった。
どうして私は。
どうして私は、こんなことを選んでしまったんだろう……
姉様、姉様っ! 若王様っ!
心は砕け、いまにも地面に倒れ伏しそうな気持ちを盛りたて、なんとか走った。
その想いをありのまま、みなもは感じ取っていた。
どうしようもない。
みなもも心で泣いていた。
もう、来てしまったんだから。
肉体を、命を置き捨ててきてしまったんだから。
もう、帰れないんだから。
どこまで逃げても、ここはあの世。
「ここは死者の国……」
みなもは思った。
見渡せば、人鬼の他に魔獣がいた。それはおそらく獣や蟲たちの魂。そしてあちこちに生えている妖樹妖花は植物の魂なのだろう。
灰色の世界。魂の死後の世界。だがそこに蠢く死者たちは、毒々しい色彩をまとっている。堪えきれない腐臭を吐き散らかしている。死者の世界。
さまざまな想念が、生前の姿を変容させて、そこにあった。発現する色と臭いは、周囲に隠れるように薄くあったり、目立とうと濃くあったり、全てを取り込もうと強烈であったりした。
「魂の、ありのままの姿なのかも」
そう思うと、みなもはそら恐ろしくなってきた。
「あたしも、ほんとうのあたしも……」
魔性をまとったあたしの魂。あれは、ここではどんな姿になるんだろう?
愛おしい。
誰かを愛したいと思う気持ち。
その気持ちに素直になれない感情は、どんな姿になるというの?
少しだけ、ほんの少しだけ自分にわがままな愛は――少女の恋は――白く烈しく輝いた。
光の中で、姿が変わる。
駆けていた、少女の身体が変わっていった。
そしてみなもの魂も――
心のままにねじくれた、角が生えた竜となる。
気持ちに気づいて欲しいと願い、色香で誘ったにもかかわらず、たまらず喰らう食人花となる。
世界に溢れる、すべての感情を感じては、自分以外の誰かの気持ちに共感できる――人間となる。
人間となり、すべての感情を平伏させる後光をまとうか、すべての感情に自由を与える妖艶な魔性をまとうか。
はたして、みなもの魂は魔性をまとった。
そして少女も魔性をまとった。心の声を聞ける力と、深い同情の気持ちが、少女をして魔性とさせた。だが、その足は、魚の鰭に変わっていた。
みなもは少女の願いを感じていた。
月に往くとき、水底に沈みながら、湖面に映る月影を見上げていたから。水上へ、水上へと泳ぎ昇ろうとしていたから。上半身は人のままでも、下半身は魚になってしまっていた。
足をなくした月の人魚は、たやすく鬼たちに囲まれた。
水辺であったが、砂浜だった。砂浜といえど、砂利のような粒の粗いとげとげしい砂だった。
少女は転び、様々な姿の鬼に囲まれた。
少女の悲鳴と、「誰か!」と叫ぶみなもの声は同時だった。
その声に応える、一陣の風が吹いた。
まさに神風と呼ぶべき、光の剣の一閃だった。
神々しい後光をまとう、男であった。
「若王さま!」
と、少女は呼んだ。
「天上に存在を許されるのは、愛だけだ」と男は言った。
その剣を振るうこと、鬼神のごとく。容赦なく悪鬼たちを駆逐していく。男の形相は冷淡で、鬼たちの断末魔の叫びさえ穏やかな風の音のように感じているかのようであった。
男と再会できた喜びに打ち震えた少女の心はしかし、男の凄みに恐れを抱き始めた。
「私を追ってきたのだね」
「はい」
錆びた血の色のような空に浮かぶ男を見上げ、少女は頷く。
この恋に、そのまま身を投じてもよいものか。それでも、少女は男に惹かれていた。
「おいで。君はここにいるべき者ではないよ」
「はい」
男が差し伸べた手に、少女が触れると、少女の身体は重力から解放された。手を引かれるがまま、空へと上がった。
「待って!」
叫んだのは、みなもだった。
不穏な気配を感じたみなもは、少女を止めようとした。少女がその決断をためらったこと、そして男が、少女の願いをまったく顧慮していないことを、魔性をまとったみなもは見抜いた。
このままでは、少女は男に翻弄されるがままになる。それが月の雫に宿った未練の原因なのではないか、そう思った。だから止めた。止めたかった。
だが、その声は少女の耳に届かない。
その一方で、男はみなもに一瞥をくれた。視線は、たしかにみなもを射貫いているようだった。
みなもはぎょっとし、息を呑む。
「見え……てるの?」
しかし男は、気のせいか、といったふうにかぶりを振った。
男は、人魚となった少女を連れて上昇する。少女に憑いたみなもも一緒に、空高く昇っていく。
空へ、空へと昇りつめると、赤銅色の空はやがて、透き通る青い空へと色を変えた。澄み渡る空は光に溢れ、ただの青がこんなにも煌めくのかと、みなもは驚嘆の声を漏らした。
「ここになら、天国があるかもしれない」
地上が地獄というのなら、天国はここにあるのだろう。
「ごらん」と男が言った。「あれが安らぎの国だよ」
天空に浮かぶ球体に、緑が生い茂る島があった。遠目にも茅葺きの家屋が並び、人が暮らしている景色が見えた。
「安らぎの国……」
少女は繰り返した。
安らぎの国とは、幽鬼さまよう死者の道を越えた先にあるという、少女の村の宗教が伝える極楽浄土であった。
「そしてあれがアナスタシア。あれは天国。あれは――」
男は天空の島々を指さしながら、名を教えた。
「ここは愛の世界。愛を抱いた死者たちが、願った世界がここにある。己の愛する者たちが、己と同じように絶命したのち、ともに暮らせる安らかな土地」
「ここで……」あなたと暮らせるの?
そう訊ねようとした矢先、男は告げた。
「君の姉が待っている」
その言葉を聞いた瞬間、少女の心に闇が満ちた。
それをみなもは感じ取り、そしてその深い闇に囚われた。
少女の闇に、走馬燈が駆け巡った。
双子の妹である少女をなくし、巫女である姉は、巫術の力もなくしたのだった。
双子はふたりで、ひとつだった。どちらが欠けてもいけなかった。
表舞台に立ち、己の気持ちを出し得なかった姉と、裏の世界で生き続け、己の気持ちを押し殺してきた妹は、心の底で繋がっていた。ひとつだった。
もっと自由に!
もっと自由になりたかった!
少女の叫びが闇に沈んだ。
自由を求めて男を追って、少女は命を失った。それがゆえに、姉も命を失った。
愛する者を追い求め、愛する者を失った。
愛慕が、知らず知らず親愛を裏切った。
安らぎの国にいる、安らかな笑顔をたたえる姉の顔は見れなかった。
少女は闇に落ちていく。昇りきった天上から地上へと落ちていく。海に沈み、月からもこぼれ落ちた。雫となって。
みなもは、自分の非力さを思い知った。
愛を貫く恐怖が、月の雫の正体だった。その原因は、親しい二人の、ねじれた愛の形だた。
恋に恋する年頃のみなもはだから、月の雫に魅せられた。その力に取り込まれ、その力を取り込んだ。魔性となって、人々の想いを、愛を翻弄する。一途な愛を怖がって、弄んでは捨てていく――小悪魔となる。
「どうして!」
アンティークショップ・レンに戻ってきたみなもの心は、その瞳からとめどない涙を流した。
「どうして」嗚咽しながら蓮に縋った。「どうして、ひとりの人を愛してはいけないの?」
「もう、あんたには分かってるはずさ」
太陽の杯は、その水面がスクリーンとなっていて、蓮はすべてを見ていたのだった。
「愛は」と蓮がいった。
それにみなもはほんとうに小さな声で答えた。
「恋とは違うから。誰かを一途に想う恋をしているときでも、周りのすべてを愛せるから。だから、恋のために、誰かへの愛を犠牲にしてはいけないの」
室内で風もないのに、杯の炎が揺れた。
まるで少女が、「そうね」と頷いたかのような、優しく揺らぐ光だった。
その揺らぎを最期に、血の色をした蝋燭は燃え尽きた……
(了)
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