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惑わしの花びら
子供の頃、ホットケーキが好きだった。
熱々の生地にバターと蜂蜜をたっぷりかけたものが特に好きだった。濃厚な甘さとバターの風味、生地の端っこのカリカリとした食感を愉しんでいると、気持ちが蕩けていくみたいだった。
……ごく。
唾液を呑み込もうとして、気がついた。
あたしはどうも、眠っていたみたい。現に今も、目を瞑ったままでいる。うたたねをすることは気持ちが良くて、目をあける気にならなかった。
(…………ん、)
あたしの喉は、舌の上に溢れてくる唾液を上手く飲み干せない。半分は喉を伝っていくのに、残りの半分は口の隙間から滴り落ちてしまう。
どうしてだろうと、霧のかかった頭で考えて、理解する。行儀の悪いことに、あたしは舌を出して寝ていたみたいだ。
おまけに舌先だけ生温かい。何かを舐めていたようだ。夢うつつで舌を動かしていた記憶もある。
(やだな、きっと食べ物の夢を見ていたから……)
あたしはやっと起きる気になった。それで薄く目をあけたら、次の瞬間とても驚いた。
視界に広がっていたのは、二枚の花びらだった。その花びらは重なり合っていて、仄かに赤くて、下の花びらはぷっくりと膨らんでいる。花びらと花びらの隙間から、蜂蜜のように蠱惑的な香りがした。
(何?)
(何…………)
、
なめらかに、ゆっくりと、上下に動く花びら。
その花びらがあたしの身体を撫ぜて。
――あたしはようやく花びらの正体に気付く。みそのお姉さまの唇だったのだ。あたしがうたたね中に舐めていたのは、お姉さまの肌だった。
嗚呼。そうだった、そうだった。あたしはお姉さまと一緒に神さまのところへ来たのだった。……犬の姿になって。
お姉さまの唇が柔らかく動いた。
「みなも、起きたのですね」
「わう」
「……残念ですわ。もう少し、寝ていても良かったのに……」
小鳥が囀るように、お姉さまは小さく震えるように笑って。
二枚の花びらは、あたしの背中にふわりと着地した。
――大みそかの日、あたしはお姉さまに頼まれごとをされた。
お姉さまがお仕えしている神さまが、犬を愛でたいそうだ。
でも神さまのいる場所は、こちらの一瞬が永遠になるところ。普通の犬では存在することさえ出来ない。
「だからあたしが犬になるんですね」
あたしは二つ返事で頷いた。お姉さまの“お願い”を断る気になれなかったし、事情も受け入れやすかった。場所のせいで、触れるものや目にするものに制限があるなんて勿体ない。それに何故だか、あたしが犬になって神さまのところへ行くのはとっても素晴らしいアイデアに思えたのだった。
さっそくお姉さまに背を向けて、服を脱ぎ、ケリュケイオンを体内から出したところで……はたと気付く。
「どんな犬にしましょう?」
とあたしが尋ねると、お姉さまは即答した。アイリッシュ・ウルフハウンドが良いと。
「ここに、あいりっしゅ・うるふはうんどの毛がありますから」
お姉さまったら、用意が良い。
気分が高揚したまま、霧状にさせたケリュケイオンで犬の遺伝子を体内に取り込んだ。
ひゃ、あああアアアアア。
勢いは何処へやら、あたしは力なく倒れ込み、身体を弓のようにそらせた。
唇の隙間から、人ではないような、イキモノの声が走って行く。
異物が皮膚の間に捻じ込まれていく痛みに、気絶しそうになる。
仰向けに倒れたあたしの目に、お姉さまの姿が映った。平和的に笑みをたたえたお姉さまの口は、こう言った。「すぐに痛みは感じなくなりますわ。大丈夫。それとも、既に、」
「気持ち良い?」
その言葉に、あたしは身をよじって応えた。
「あっ、あっ、あっ、ッ」
喉の奥がヒクついて、上手く言葉が出なかった。
痙攣みたいに足が震えていて。
景色がくるくる回っていた。
「みなも、そろそろ変化する頃ですわね。ほら、胸が潰れて、胴が伸びて。足が太くなって、腕も同じように……」
お姉さまの声に合わせて、あたしの身体はカタチを変える。リズミカルに、心地良く。
それは確かにあたし自身がやっていることなのに……お姉さまの声に、ケリュケイオンに、蕩かされていくよう。
「耳も起き上ったかしら。尻尾も生えて。犬の歯ってとっても面白いですわね。ああ、舌も伸びてきて……」
唾液と絡み合い、波打ちながら舌が伸びてくる。
アアア。
新陳代謝が激しくなって、あたしは生臭い息を吐いた。ぁっ、ぁっ、ぁ!
呼吸が乱れて、今自分が息を吸っているのか吐いているのかもわからなくなってしまいそう――。
「ャ……おね、え、さま、ぁ、ぁ、ぁ! ふ……!」
「大丈夫ですわ。すぐ苦しくなくなりますから」
お姉さまはあたしを抱きしめてきた。
あたしは変化しきった前足で、お姉さまの背中や腰を掴んだ。お姉さまの腰は柔らかくて、きつく抱いたら壊れてしまいそうな危うさが感じられた。だから宝物を扱うように、あたしは前足から力を抜かなければならなかった。
「落ち着いて。すぐに発音も変わりますから……。さあ、声に出してみて……」
「ぁ! ぁ! ゥぁ……ワン! ワンウワン!」
「そう、良く出来ましたわ」
お姉さまの優しい声が、あたしに注がれる。
なんていう、幸福――、
お姉さまに連れられて、あたしは神さまのところまで来た。
あたしの目には神さまがどこにいるかわからなかった。確かなのは、二枚の花びらだけ。
見えない神さまや、お姉さまに対しての誠意を示すように、あたしは仰向けになってお腹を示した。服従……相手への尊敬の姿勢だった。くううう、と甘く鳴いてもみた。
そのあたしのお腹に、お姉さまは温もりの雨を降らせた。あたしがくすぐったそうに身をよじると、お姉さまはあたしの後ろ足に自分の腿を割りこませてくるのだった。逃げられないように。
それから、あたしの、犬らしい灰色の毛に指を絡ませて興味深げに言う。
「あいりっしゅ・うるふはうんどの毛は、柔らかいのですね」
「……わゥ」
あたしはお姉さまに押しあてるように、頭を前に出す。頭も撫でて欲しくて。
するとお姉さまはあたしの期待に応えてくれる。優しく、毛並みにそって撫でてくれる。次第にあたしはうつらうつらして――、
「5、4、3、2……」
お姉さまの甘い声が、あたしの耳の奥に注ぎこまれる。
こんなに傍でお姉さまの呼吸が感じられるのに、あたしの頭の中は熱っぽくて、お姉さまがどこにいるのかわからなくなってしまいそう。
「日付が変わりましたわ。はっぴいにゅーいやーです、みなも」
蜂蜜みたいにトロトロと溶けたような、気だるそうな話し方。それはとても蠱惑的で――。
もう、蕩けてしまっている。
終。
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