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『しっぽのうた』
しんしんとしんしんとしんしんと雪が降る。
白銀の色に世界が埋まっていく。
雪が世界の温度を失わせていく。
ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、世界の動きが緩慢になっていく。
人も動物も皆、世界と同じで温度を失って、動きが緩慢になっていく。
みんながみんな、寒がっている。
だからみんな、眠っちゃえばいいのに。
人類冬眠化計画。
なんて甘美な響きなのでしょう?
あたし、月夢優名は窓の外に広がる白銀の世界にうんざりとため息を吐く。
雪はまだまだ降っていて一向に止む気配を見せない。
明日は学校なのに。
いや。学校と寮は眼と鼻の先だけど。それでも…。
いっそう、どこかの南の島が雨の日はお休みなように、日本も雪の日は休みになっちゃえばいいのに。
きっと、あたしがもっと子どもならコタツで丸くなる猫を尻目に子犬が庭を駆け回るように喜んで白銀の世界に足跡をつけるんだろうけれど。
「もう、17歳のおばさんには寒さはこたえますよ」
あたしは布団の中に入って丸くなる。
やりかけの刺繍が視界の端に入る。
あともう少しなんだけどな。でも、指先は悴んで上手くはできない。せっかくここまで綺麗にやれたのに、ここで失敗しちゃうなんて悲しすぎるもの。
後ろ髪は、ひかれるけれども。
布団を頭からかぶって、あたしは眠ることにする。
まだ20時なんだけど。でも、寒いんですもの。
そういえば、人の身体は眠ると温度調節機能を失うらしい。
だから、雪山で遭難した時とか眠っちゃいけないんですって。
ああ。でも、人間も昔は冬眠していたらしいけれど。
その時には温度調節機能というか、凍死しちゃわない様な機能が人間にもあったのかしら?
そう言えば、人間は猿から進化したんじゃなくて、宇宙人によって猿から遺伝子改良で改造された存在で、けれども、長い年月を経る事でその改造された遺伝子が劣化して、それでもう、ただの猿に近づいていってしまっているらしいって都市伝説も前にテレビでやってたっけ。
うう。不思議だな、人間。
人間かー。
人間なんだよね、あたしも。
人間。
人間なんだよね、あたし。
ふふ。
嬉しい。
自分が人間の年頃の女の子なんだって事がとても嬉しい。
そうか。
そうなんだよね。
あたし、年頃の女の子なんだよねー。
年頃の女の子。
それがなんだかとても嬉しくて、とても幸せな事なんだって思えて。
それで、
そう。
やっぱり、
こう、
せっかくの雪が降る夜に、こんなおばさんみたいに寝てるのがもったいない、っていう気がしてきて。
うん。せっかく、ぴちぴちの若い年頃の女の子なんだから。
くすり、とあたしは温まってきた布団の中で笑う。
起きるかな?
起きようかな?
うん。起きちゃえ!
まるで小学校の時のあたしに戻ったように、あたしは布団から飛び起きた。
ばさぁ、と落ちた毛布と掛け布団をベッドに戻して、あたしは着替えを済ませて、夜の、白銀の雪に覆われた世界に出る。
真っ白な雪。
誰にも、何にも汚されていない純真。
それに足跡をつけていく高揚と、ちょっぴりの後ろめたさ。
吐く息は、吐いたそこから、冷たい夜の外気に凍らされて、地面に落ちて、音を奏でそう。
そう。それはきっと、こんな音。
あたしは鼻歌を奏でて、そのメロディーに合わせてスキップを踏む。
雪で滑ってしまわないように。
でも。
そこで。
ふと。
それが。
視界に。
入る。
それは小さな小さな小さな生き物。
ふわふわのかわいらしいしっぽをゆさゆさと振って、その子は白銀の雪を手でどけていた。
何かを探している?
あたしは首を傾げる。それはとても小さな動きのはずだったけど、夜の静かな世界には充分過ぎるほど、その子の耳に届く衣擦れの音を奏でた。
その子が振り返る。かわいらしい狸の子どもが。
「ひゃぁ。人間」
その狸の子はとても驚いた顔をして、
それからその子は慌てて近くにあった木の裏に隠れて、
次に現れたその子は、5歳児ぐらいの人の女の子の姿をしていた。
白銀の世界でそれはまるで夢のような光景だったけれど、肌に触れる冷たい外気がこれが現実だと教えてくれていた。
スカートから出ているふわふわのしっぽをゆさゆさと揺らして、その子はあたしの前にてけてけと走ってきた。
「こんばんは」
スカートの裾を上手にあげてその子はお辞儀をする。
「こんばんは。何かを探しているの、お嬢さん?」
あたしがそう訊くと、彼女は、はわぁ、と大きく口を開けて、それを両手で覆い隠した。
「どうしてわたしが探し物をしているってお姉さんは知っているの? さてはお姉さん。エスパー?」
本気で驚いている彼女にあたしはあはははと笑う。
「ううん。実はお姉さん、エスパー、じゃなくて魔法使いなんだよ。ほーら、親指が消えるよー」
あたしはものすごーく簡単な手品をしてみせる。
その子はきゃっきゃっと喜ぶ。
それで、
「じゃあ、お姉さん、魔法でわたしの探し物、探して! 湯の花!」
「湯の花?」
湯の花、って、温泉成分の沈殿物の?
「じゃないですよ」
そっと後ろから優しくささやく声。
その声には聞き覚えがあった。
あたしは振り返る。
「やっぱり。白さん」
「こんばんは」
雪のように真っ白なコートとマフラーはよく白さんに似合った。
「あの、」
あたしがそう声をかけると、
白さんはにこりと優しく微笑む。
「湯の花、というのは、こういう何の穢れも無い雪が降り積もった場所で生まれる異界の花なのですよ」
異界の、お花?
白さんは頷くと、しゃがんで、狸の女の子と視線の位置を同じにしてから彼女に話しかける。
「誰か、風邪なの?」
そう白さんが言うと、女の子はどんぐり眼からぼろぼろと大粒の涙を零し始めた。
「うん。お母さまが病気なの」
「そう。なら、湯の花を持って帰ってあげたいね」
「あの、白さん?」
あたしは白さんに問いかける。
白さんはこくりと頷く。
「湯の花はとても温かくて、それを持っているだけで、どんな病気もその温もりにとけて消えてしまうのです」
「はあ、そんな、便利なお花が」
でも、
「そう。だから見つけるのがとても大変だと言われています」
狸の女の子は小さな手を真っ赤にして、雪を掘っていた。
その小さな姿がとても愛おしくて。
その小さな姿がとても悲しくて。
まだまだしんしんと降る雪にその小さな姿はあまりにも頼りなく思えて。彼女のほうこそ、この雪に温度も色も奪われてしまいそうで。
そう思ったそこから、木の枝から落ちてきた雪に彼女は埋まってしまう。
「わぁー」
あたしは慌てて彼女を雪から掘り出した。
女の子は大きなくしゃみをする。
小さな身体はとても冷たくなっていた。
あたしは首に巻いていたマフラーを彼女の首に巻いてあげて、コートで包み込んであげながら、そっと頬を彼女の頬にあてた。
小さな身体がぶるん、と大きく揺れる。
「お姉ちゃん、温かい」
人肌の優しい温もりが、どうかほんのささやかな時の間だけでも、この子の不安をとかしますように。
そしてどうか、どうか、願わくば、湯の花が、この子のお母さんの病気をとかしてくれますように。
湯の花が見つかりますように。
あたしは心の奥底からそう願う。
その次の瞬間に起こったことを、あたしは何と説明すればいいだろう?
降る雪の結晶が、花の文様に変わり、そして、雪が花びらに変わる。まるで桜の花びらが降るように、それが降ってくる。
女の子の頬についていた雪の結晶が、あたしの頬に触れて、溶けて、落ちて、それが狸の女の子の前で花になる。
あたしは白さんを見た。
白さんは優しく微笑んで頷く。
「だから、湯の花は見つけるのがとても大変なんです」
あたしの腕の中で女の子が大きく震える。
「これが、湯の花?」
「そうですよ」
白さんは頷いて、それから、慣れた手つきで湯の花を掬い取るようにして両手で持った。それを狸の女の子にそっと手渡す。
女の子はずっと萎れていたしっぽをふわふわと嬉しそうに、まるでしっぽで歌を歌うように揺らして、それからあたしと白さんに頭を下げて、急いで降る花びらの向こうへと消えていった。
とても温かな花びら降る夜、世界は色とりどりの花びらに覆われて、優しい気配に包まれていた。
おしまい
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