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見知らぬ貴方へ
新聞部の特集募集から、既に1週間が過ぎていた。
人の噂も四十五日とは言うが、未だに後輩達は騒がしい。
「最近ね、海棠先輩はチェロを弾いているって言うから、こっそり聴きに行っているの」
「こっそり行かないと、先輩すぐに弾くの止めちゃうから」
「気が散るのが嫌なんだろうねえ、行くなら静かにしないと」
ちょうど渡り廊下を通る時に、そんな会話をする中等部の少女達とすれ違う。
嫌がっているって分かっているなら行かなきゃいいのに。変なの。女の子と言うものは憧れの対象に対して好き勝手に解釈するのだから、残酷な生き物だなと、茉夕良はそう思う。
皇茉夕良は肩をすくめた。
変と言えば、新聞部の海棠秋也特集は、中止となったらしい。
あれだけ乗っていたのに。
やっぱり……。
「やっぱり、書いたらまずい事が多過ぎるからかしらねえ……」
双子の弟の事も、3年前に学園で起こった事件も、パートナーが亡くなったショックでバレエを辞めてしまった事も、学園からしてみたら、あまり公表したくない事なのだろう。
以前にあった新聞部の少年のしょげた顔が少し浮かんだが、茉夕良にしてみれば今は海棠の方が心配だった。
放課後になったら理事長館に足を伸ばそうか。
でも、さっきの女の子達の話を信じるのなら、今いったら知らない人と関わるのを必要以上に嫌がる海棠がいなくなっているのは明白だ。
「んー……」
なら、下校時刻ぎりぎりまで様子を見ようかしら。
そう決めると、茉夕良は次の授業へと向かっていった。
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日が暮れかけ、空が淡いラベンダー色の頃。
日が高かった時はあれだけ騒がしかった中庭も、今は人が引いて、シンと静まり返っている。
昼間に行っても絶対海棠は戻ってこないだろうと踏んでいた茉夕良は、ようやく中庭に顔を出した。
下校時刻も直前に迫ったため、辺りは部活や学科の練習で遅くなった生徒達しか歩いてはいない。
「あら?」
耳を澄ますと、理事長館からは、いつものようにチェロの曲が流れていた。
ただ、流れるチェロの曲が、いつもと違う事に気が付いた。
いつもならば「白鳥」を弾いていたのに、今日弾いている曲は、エドワード・エルガーの「愛の挨拶」である。
まさか、別の人が弾いているのかしら?
茉夕良はそう思いながら、恐々と理事長館の中庭を覗ける茂みへと赴く。
そこからそっと、中庭を覗き込んだ。
そこに立っていたのは、秋也である。
いつもは憂いを帯びた顔をして弾いているのに、今日は表情はどことなく軽やかだ。
チェロの弦を弓が滑る。滑り落ちて溢れ出す曲は、いつもの憂いを帯びた悲痛な色ではなく、ひどく優しげな曲だった。
確か……。
この曲は作者が奥さんにプロポーズした際に書いた曲だったっけ。秋也さんが弾いているのはチェロの譜面だけれど、この曲の1番最初の楽譜はヴァイオリン……。
確か前に発表会で弾いたけれど、今でも覚えているかしら?
茉夕良は、曲の邪魔をしないよう、そっとヴァイオリンケースを開く。
そして弓を引かずに、指で弦に触れてみた。大丈夫。弾ける。
茉夕良は、そっとヴァイオリンを奏でた。
チェロより1オクターブ高いヴァイオリンの音。
秋也は、少し驚いたように顔をあげ、茂みの向こうに振り返った。
茉夕良は微笑みながら、弓を引いていた。
弾くの、やめてしまうかしら? 少しだけ不安に思ったが、秋也はチェロから手を離す事はなかった。
流麗な旋律が、ラベンダー色の空へと昇っていく。ラベンダー色の空は、徐々に濃いアイボリーへと変化していっていた。
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「結局」
「何?」
曲が終わり、茉夕良が中庭に入っていくと、秋也はチェロをケースに片付けていた。
秋也は相変わらずの無愛想な表情だが、秋也と付き合っていく内に、茉夕良はこの人はどうも無愛想と言うよりも感情表現が不器用なだけでは、と言う事に気が付いていた。
茉夕良は隣に立つと、秋也はほんの少しだけ首を傾げて茉夕良を見た。
「どう言う心境の変化ですか? 「白鳥」、ずっと弾いていたのに」
「………」
秋也は遠くを見るような目をしたが、すぐに茉夕良と目線を合わせ直した。
「……そろそろ、彼女を解放したいって、そう思ったから」
「えっ?」
「………」
もしかして、前に聞いた、仲のいい女の子の事?
秋也は相変わらず、無愛想な顔をしていた。
しかし、気のせいか、見慣れぬ表情にも見えた。
<了>
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