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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


今日だけは飼い主



 ……そろり、そろり。
 肉球のせいか、ううん、力なくゆっくり歩いているせいだろう、あたしは音もなく歩いている。
(ええと、ここは――何処……)
(そうだ、あたしは神様のところに……)
 ザラザラとした地の感触に、あたしは思わず爪を引っ込める。鼻をひくつかせるとイグサの香りに気がついた。
 ……これは、畳。
(“あの場所”にも畳があるの?)
(違う、あたし家に帰って来たんだ――……)
 ――朦朧としていた意識が、戻り始めていた。


「みなもお姉さん、たっだいまー!」
 元気に外から帰って来たみあおだけど、あたしの姿を見てから、真剣な表情になった。
「ん〜、みなもお姉さんって言うより、わんちゃんって言った方が良いのかなあ……」
 ……うぅ。
 あたしは言葉に詰まる。
 妹であるみあおから「わんちゃん」と呼ばれるのって、“お姉さん”として恥ずかしい。でも、あたしが今「わんちゃん」なのは事実だし……。
(そうなんだよね。どうして元に戻れないのかなあ)
 心は何とか人間に戻れたのに、身体は犬のまま。
 それどころか、意識して押さえていないと尻尾がパタパタ動くし、鼻はひくつくし、息が荒くなるし……。こんなんじゃあ、家事はどうすれば良いんだろう?
「わんちゃん、安心してね! みあおがご飯作ってあげるから♪」
「うわ、わん……」
 あたしは日本語とも犬の鳴き声ともつかない言葉を発して、曖昧に尻尾を揺らした。ご飯を作ってくれるみあおの優しさに喜んでいいのか、すっかり「わんちゃん」になった自分を悲しむべきなのか……判断がつかないせいだ。
 そんなあたしとは逆に、みあおはとっても楽しそう。何だか大きな本を大事そうに見ながら、目を輝かせている。
(料理本を見て、何を作ろうか考えているのかな?)
 みあおが食べたいもので良いからね、とあたしが言おうとすると――、
「わ! あぶないなあ、わんちゃんには玉ねぎをあげちゃあいけないんだって!」
「わ、わう?!」
 よく見たら、みあおの持っている本には『ペットと暮らす楽しい毎日〜わんこ編〜』と書いてある!
(ペ、ペットって……。わんこって……。あたしのこと?)
 みあおったらひどい! あたしは人間なのに!
(……今は犬だけど)
 でも、今は犬でも、いつもは人なんだから!
 あたしは不満気に口で本をつついてみたけど、みあおには伝わらなかったらしい。
「安心してね! 何かあったら大変だもん、玉ねぎは入れないようにするから♪」
 にこやかに笑うみあお。
 その太陽みたいな笑顔を目にすると、あたしは何も言えなくなってしまう。みあお自身は親切心でしてくれていることだから余計に。それに今の身体は犬だから、(大丈夫だと思うけど)念を入れる意味で玉ねぎは食べない方が良いのかもしれない。

 みあおは台所に椅子を持ってくると、その上に乗って手際良く料理し始めた。
 とんとんとん、一定のリズムで包丁の音が聞こえてくる。
 それに合わせて、あたしの両耳も小刻みに反応する。まるで音楽好きの小人があたしの頭の両端に立って、歌に合わせて踊っているみたいに、軽快に動く。
(……こういうのって、何だか良い気分)
 鼻歌を歌いながら料理をする人の気持ちがよく分かる。あたしは鼻歌の代わりに、尻尾を振った。右、左、右、左。ぱたむ、ぱたむ、ぱたむ。
 フライパンから食欲をそそる音がし始めた。食材を炒めているところなんだろう。
 調味料の匂いはしないけど、鼻に意識を集中させていると微かに食材の香りがする。これはピーマンと……キノコが入っているみたい。この二つの香りに惑わされて、他の食材の匂いがつかめない。
 フライパンの隣には鍋も置かれて、フツフツと音を立てていた。こちらからは濃厚なミルクの香りが漂っている。この匂いはココナッツミルクだと思うけど……、
(っと、いけない、いけない)
 歯と歯の間から唾液が零れてきて、台所の床を汚してしまった。
(みあおに見つかったら恥ずかしいから……)
 何とか自分で処理しようと、口で雑巾を咥えて零れた唾液の上に落とした。前足で拭こうとすると難しくって、仕方なく後ろを向く。
(これなら良い感じ!)
 猫が用を足したあとに砂をかける要領で……それよりはずっと力を抜くけど、後ろ足で器用に雑巾を動かしていく。雑巾のごわついた感触が肉球に触れ合って面白い。
(前、後ろ、前、後ろ)
(左、右、左、右)
 単純な動きを繰り返しているだけなのに、気分がすっごく良い!
 あたしがはしゃいでいると、後ろから笑い声がした。
「みなもお姉さん、尻尾も動いているよー! 本当にわんちゃんみたい♪」
 ぐさり。一応、意識は人のままのつもりだったから、みあおの言葉が心に刺さる。
 みあおは無邪気に言っているだけだから、悪くないんだけど……。
(でも、訂正しなきゃ。あたしはみあおの“お姉さん”なんだもの)
 楽しそうにしているみあおには申し訳ないけど、“お姉さん”として、本物の犬とは違うところだけは分かってもらわなきゃ。
「なあに? わんちゃんっ」
 あたしの目を見て、「言いたいことがある」のを察したのか、みあおはしゃがみこんであたしの顔を覗き込んだ。そんなに輝いた瞳を向けられると、わんちゃんでいいやもう、と思ってしまいそうでドギマギしてしまうあたし。
「わ、わう、わうわうわんうー、わん(あ、あたしね、床を拭いていたところなの)」
「? うん、うん、なあに?」
「わうわうわうくーん、うー、わんわんわん。う、わうー……わんわん(だから、犬とは違うの。見た目は犬……に近い……そっくり……かもしれないけど……)」
「? うん、うん、聞いてるよー!」
 一生懸命頷く姿勢を取りながら、顔をほころばせているみあお。
(だめだ、全然伝わっていない……)
「……わうー……」
 尻尾を落としながら、もとい、心の中で肩を落とすあたし。人間の言葉を話そうとしても、犬の言葉が出てしまうみたいだ。頑張ってみても、時々人の言葉が犬の言葉に混じるくらいが精いっぱい。
「みなもわんちゃん、落ち込んでいるの……?」
 顔を上げると、間近にあるみあおの顔が飛び込んでくる。首をかしげて、心配そうに覗きこんでくるその目は、さっきより寂しげで。
 ――みあお。
 そう言えば、お正月はあたしとお姉さまで出かけていて、みあおは一緒じゃなかった。
 あたしだって、どんなに毎日忙しくても家族と会えない日が続くと寂しくなる。頭では分かっていても、時々乾いた風で心が締め付けられてしまう。ましてや、妹のみあおなら……。
(もう、あたしのばか!)
 “お姉さん”なら、妹を悲しませたら駄目なのに。
「わうわう、わんわうわうわう!(そんなことないよ、みあおと一緒にいるんだもの!)」
 あたしは犬なりに笑顔を浮かべて、尻尾を力いっぱい揺らしながらみあおに話しかけた。……近所迷惑にならないように、小さな声で。
 言葉はわからないだろうけど、あたしの気持ちを伝えることは出来るはず。
 ――みあおは、察してくれたみたいだ。
「うん! じゃあ一緒にごはん食べようね!」
 みあおはお盆に飲み物と料理を乗せてあたしの目の前に置いてくれた。そのあと、鍋とフライパンに残った料理に塩味を加えて、みあお自身のお昼ごはんも作った。
「あ、みあおの分は居間まで持っていかなきゃだめかあ。みなもお姉さんもそっちで一緒に食べようよ」
「わう!」
 もっちろん、みあおと一緒にするよ。
 みあおは二つのお盆を持って、落とさないよう慎重に歩きだした。あたしは軽快な足取りでみあおについていく。みあおのまだ幼い背中を眺めながら。

 二人――、一人と一頭のお昼ごはんは、オムレツとミルクスープだった。これなら味付けすれば人間も食べられるから、ドッグフードを食べるより嬉しい。
 みあおも喜んでいた。それはきっと、共用出来る分手間がかからないからじゃなくて、あたしと同じものを食べることが嬉しいんだと思う。ドッグフードを食べるあたしの傍でオムレツを食べるみあお――これでは寂しい気がしたのだろう。
「いっただっきまーす」
「うぃんわわわーん(いただきます)」
「あははっ」
 微妙に人間の言葉が入ったあたしの犬語に、みあおが吹き出す。
 みあおの笑い声を聞けたのが嬉しくて、あたしも犬らしく舌を出して微笑んだ。
 みあおの作ってくれた料理は美味しくて、あたしは夢中で犬食いした。口から零れそうになった卵の端っこも、長い舌で器用に押しこむ。と、こちらを眺めているみあおの視線に気がついて、あたしはちょっと恥ずかしくなってしまった。
 ――あたしを眺めているみあおの瞳からは、強い喜びと好奇心が読みとれた。犬の飼い主のような保護者的愛情と、子供らしい動物への好奇心の対比が面白くて、愛おしかった。
(この瞳を曇らせたくない)
 あたしの中で強い思いが込み上げてきた。
 そんなあたしの気持ちを知ってか知らずか、みあおは楽しそうに食事していた。
「わうわうわうう〜わん」
「よくかまなきゃだめ、でしょ?」
「わう?!(どうしてわかったの?!)」
 くすくす。みあおは一旦スプーンを置くと、口に手を当てて笑いをかみ殺していた。
「わかるよ〜、みなもお姉さんの口ぐせなんだもん……」
 くすくす。まだ笑いが止まらないみあおの太腿に、あたしは前足をトンと置いた。
(なによう、そんなに笑わなくったって)
 あたしも半分笑い、半分膨れたように、みあおの腿に顔を乗せた。拗ねているけど、甘えている。普段のあたしの態度とは少し違うけど、これでいい。だって今は犬の姿をしているんだもの。

「わんちゃん、散歩行こっ」
「わうっ」
 首輪に紐をつけるのはさすがに抵抗があったけど何とかクリアして、みあおに連れられて外に出た。
(姿が犬で、まだ良かったなあ)
 これが例えばこの前のケルベロスの姿だったら、こうやってみあおと散歩出来ないもの。
 安心するあたしの傍で、みあおは興奮している様子。
「えへへっ。散歩〜散歩♪ お散歩、散歩♪」
 普段犬と(あたしと)散歩することってないせいだろうか。今日になっても犬の姿のままなのはあたしには困ったことだけど、みあおがこんなに喜んでくれるなら、それはそれで良いのかもしれない。
(きっとすぐに元の姿に戻るだろうしね)
 だったら、今日はみあおと一緒に楽しんで過ごすことを考えた方が良い。
 あたしはさっきから、肉球がむずむずしていた。
(走りたい……走りたい〜!)
 出だしはゆっくり歩いていたものが、だんだんと速足になっていく。今は冬まっただ中だけど、冷たい風すら気持ちが良くて。フサフサのグレーの毛はあったかいし、冷えたアスファルトを裸足で歩いていたって身体が縮こまることはない。ただただ、気持ちが弾んでいく。
 ――勢いをつけて走り出そうとしたあたしを、紐が引きとめる。その先にはみあお。

「も〜、わんちゃんだめだよ。走ったらだめっ」
「ゥー……」
「ぅーじゃないもん。ここは歩道なんだから、わんちゃんが走ったら周りの人をびっくりさせちゃうよ? だから、だーめ」
「……くぅゥぅん」
「甘えてもだめ〜」
 ……ちぇ。
 あたしは心の中で小さくため息をついた。みあおの言っていることは凄く当たり前のことだし、普段のあたしでも同じことを思うはずなんだけど、今は本当に残念に思う。
「わうー(走りたーい)」
「だめー」
「わうううう(走りたいよー)」
「だめー。あ、そうだ! 近くにドッグラン付きの公園があったんだったあ。どうする?」
 ……無言でみあおのコートの端を口で咥えて引っ張るあたし。
「あははっ。じゃあ行こっか!」
 ドッグランには今流行りの小型犬が多くいて、あたしたちは怖がられないように、端っこで遊んだ。
 足に力を入れて、一気に走り出すと日頃のストレスが吹っ飛んで行きそうだった。
 あたしたちは何も持ってきていなかったけど、近くにいた人がフリスビーを貸してくれて、みあおもあたしも走りまわった。勿論、みあおと一緒に走るときはスピードを緩めて――……。
「わんちゃん、速過ぎ〜! 戻ってきてよ〜!」
 みあおの声に我に返って、急いで引き返すこともしばしば……。
 帰るとき、あたしはみあおが疲れていないか心配になって、背中に乗せてあげようとした。
 でも、みあおに断られた。
「みあお、まだまだ元気だもん!」
「わうー(でも……)」
「だいじょうぶ。一人で歩ける!」
 そう言って、小さな足でてくてくてくてく歩くみあお。やっぱり疲れているみたいだけど、一歩一歩が力強い。
(気合いを入れているのかな。自分自身に)
 みあおって、ガンバリ屋さんだからなあ――と、ぽつりと思い出す。
 あたしが考えているよりもずっと多くのことに、みあおは耐えているのかもしれない。
(それは想像でしかないけど……)
 だって、みあおはいつも笑顔だから。いつも元気そうにしているから。
(お姉さまとは違う意味で、みあおの心も……あたしには分かっていないところがあるのかもしれない)
 みあおもお姉さまもお父さんもお母さんも、大好きな家族だけど。
 家族って難しい。

 家に入るなり、みあおはあたしをブラッシングしたいと言う。
 専用のブラシを手にして、みあおは目を輝かせている。
(もう、可愛いなあ)
 あたしはみあおの目の前で伏せをすると、穏やかに目を閉じた。
 みあおはあたしの頭から始めて、慎重にあたしの毛を梳かしていった。
「だいじょうぶ? いたくない?」
「わうわう(気持ち良いよ)!」
「だいじょうぶなんだね! えっと、えっと……。どうですか、かゆいところはありませんかー?」
 みあおったら突然美容師の真似をするんだもの――あたしは笑ってしまった。
 しばらくして毛が梳かされなくなったから、あたしは瞑っていた目を開けて、そっと顔を上げた。
 みあおはブラシを持ったまま、寝息を立てていた。
(そっかあ、今日大変だったものね)
 あたしは静かに移動すると毛布を咥えてきて、みあおを包んだ。
 そして音を立てないようにあくびした。年末から色々あって、あたしにも疲れが出ていたのだ。
 あたしは眠りに落ちる前に、心の中でみあおに言った。

 ……ありがとう。今日はお疲れさま、飼い主さん。



終。