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<東京怪談ノベル(シングル)>


     Recall Your Mind

 海の水をひとしずく乾いた砂浜に落とすように、ふうと息をついたみなもは、白い枕の上に青い髪を広げて布団の中にもぐりこんだ。たちまち疲労が津波のごとく押し寄せる。みなもは平和で柔らかな布団にくるまりながら、その倦怠の波を生み出す元凶となった今日の珍妙な出来事を思い起こした。
 ことの発端は、学校からの帰りに道で見つけた携帯電話である。落とし物だと思い善意でそれを拾い上げたみなもだったが、その携帯電話は獲物を自身の中に取り込むことで相手の記憶を奪い、心を壊し、空になった肉体までも糧としてしまう意思を持った電話だったのだ。
 それに呑み込まれ存在を失いかけたみなもを寸前で助け出したのは自称オカルト専門の探偵、雨達(うだつ)である。付喪神(つくもがみ)とでも呼ぶべき存在であったその携帯電話を破壊し、みなもを現実の世界に連れ戻した雨達は、しかしお礼をしたいという彼女の申し出を「友人として助けただけ」と言って断り、立ち去ってしまったのだった。
 「雨達さんにキチンとお礼をしないとなぁ。」
 睡魔にまぶたをなでられ、うとうととそんなことを考えながら、みなもは穏やかな夢の世界へ落ちていった――はずだったのだが。

 「人間だ。」
 「いいな。」
 「いいね。」
 右手から、左から、あるいは頭上、足元、ありとあらゆるところからヒソヒソと何事かを囁く声でみなもの夢は始まった。
 いや、それは本当に夢だろうか。
 どこかが違う、何かが違う、と知覚のすべてが警戒音を発しているようにみなもには思えた。それは、今彼女が目にしている光景が現実はおろか、夢の世界においてさえ垣間見たこともない異質なものだからかもしれない。
 息がつまりそうなほど高く積み上がった様々な物、物、物……がらくたで築いた町か森であるかのような風景がどこまでも果てしなく広がっている。いかにも作り物めいたその光景は、携帯電話に取り込まれた時に見た世界とどこか似た雰囲気があった。
 そんな景色の中で姿の見えない声たちがしきりに囁き合っている。それは徐々に彼女の周りに集まり、はっきりと聞き取れるほどになった。
 「人間だ……うらやましい。」
 「人の世界は自由だ。」
 「器に縛られない。」
 「自由に動けないわたしたちとは違う。」
 「誰?」
 影すら現さない者たちから向けられた目のない視線と不安に耐え切れず、みなもが声に出してそう問うと、ヒソヒソ声がぴたりとやんだ。
 しかし、それも一瞬のことである。
 「いいな。」
 「ちょうだい。」
 静寂の中に短いそんな言葉が響いたかと思うと、突如、声たちがすさまじい風となってみなもに押し寄せた。彼らは手のない手をのばし、みなもの服といわず髪といわず何でもかんでも奪ってしまおうと、力ずくで引っ張る。
 「何て綺麗な眼なんでしょう。」
 「美しい髪。」
 「しなやかな足。」
 「ちょうだい、ちょうだい。」
 そんな声と共に、機械が分解されていくように次々とみなもの体が消えていく。その代わりにプラスチック製の部品が瞬く間に彼女に取り付けられていった。
 「かわいい手、ちょうだい。」
 その声にぐい、と引っ張られた手をみなもが見下ろすと、そこにはもう手ではなくプラスチックの板と、数字の書かれたボタンが一つあるばかりだった。まるでそれは電話機についたダイヤルボタンのようである。その先――足があるべき場所にはやはりプラスチックの棒がスカートから不格好にのびており、そこには別のボタンがついているのが見えた。眼球のあるべき場所には着信を知らせるランプが灯っていたが、彼女の手元にそれを確かめる鏡がないのは幸いである。
 「何、これ……。」
 泣くべきなのか笑うべきなのか判らず、ただ呆然と呟くみなもにさらに声が近づいて囁いた。
 「優しい声、ちょうだい。」
 待って、という言葉ももはや意味がなかった。
 のどからすべり出たのは個性のかけらもない電子音。そのあまりにもの冷淡な味気なさに驚いてみなもは口を閉ざした。
 そのつぐんだくちびるに、また別の声が忍び寄る。
 「ちょうだい。」
 「わたしも何か欲しい。」
 「記憶を分けて。」
 「わたしは名前がいい。」
 「まだ他にもあるぞ。」
 「水の力だ。」
 『やめて!』
 そんなみなもの悲鳴はやはり「声」にならず、わっと嵐のように立ち去った声たちが残した静寂の中でただカツン、という乾いた音を響かせた。
 がらくただらけの地面の上に、携帯電話が音をたてて転がる。華奢な造りだが小さすぎず、手に乗せればどことなくほっとするような、南の海のように深く澄んだ青色の携帯電話だ。みなもの姿はどこにもない。
 いや、その電話こそがみなも自身であった。
 口はスピーカーの穴に変わり果て、背中は定番の二つ折れ、長い髪の代わりに清楚なストラップがぶら下がっている。顔はすっかり凹凸がなくなり、液晶画面らしく四角に変わってしまっていた。表情を作り出すことはできず、顔をしかめたつもりなのに「困」という文字が画面上に浮かぶだけである。無理に笑ってみると、(笑)と表示されるのが判って、みなもはひどくむなしくなった。
 文字は明快だが、感情の機微を表すにはあまりに直接的で、結局中身のないうつろな仮面にしかならないのだ。
 今のみなもは自ら体を動かすこともできなかった。痛みもかゆみも感じないので、何時間でも同じ場所にじっとしていられそうだったが、退屈をまぎらわせるすべがない。彼女は本当に一つの携帯電話という器に囚われているだけの存在に成り果てていた。記憶も名前も姿もすべて奪われてどこにもない。みなもに残されていたのは、彼女がみなもであるための最後のひとかけら、心だけだ。
 この「物」という器の牢獄に住まう者たちの世界に迷い込む寸前、みなもが心に刻んだのは――それは偶然にしかすぎなかったが――一人の中年男のことである。
 みなもはそれに一縷の望みを託して自分を「リダイアル」した。
 プルルと、いかにも事務的な呼び出し音が体から響く。じりじりとしながらその音を聞いていた彼女の耳のない耳に、「ふぁい、雨達です。」と、呼び出し音以上に覇気のない眠たげな返事が届いた。
 しかし、その時になってみなもは声を失っていたことに気付く。
 「何だ、いたずらか? やっぱり非通知の電話はろくなことがないな。」
 そんな雨達の独り言を残し、電話は無情にもプツンと切れ――みなもの希望も音をたてて潰えた。

 悲鳴をあげて飛び起きたみなもの白い額に、長い髪が張り付いている。それを不快そうにはがした指が自分の意思で動くことに不思議な安堵を覚え、「何だかすごく嫌な夢を見たみたい……。」とため息をつくようにみなもは呟いた。そして夢の内容を思い出そうとしてみたが、胸が悪くなるばかりで何一つ記憶がよみがえることはなかった。
 「きっと思い出さなくていいってことね。」
 休むために眠ったはずなのに、逆にひどく疲れてしまったような気がしながら、みなもはそう言って布団から出ると窓に歩み寄ってカーテンを開けた。爽やかに空が白みかけている。
 記憶を失うことは恐ろしい。そのことを彼女自身もつい昨日体感したばかりだが、忘れることは悪いことばかりではないとも知っていた。忘却は時に、悪夢によく効く優しい薬なのである。


     了